史香、「バーカ!」って言われるの編
その晩、史香は部屋の縁側に腰かけ、今日一日を振り返っていた。
「行動するのが遅かったかなぁ」
おばあちゃんに心配かけたくないんだけどな。
史香はそう思って夜空を見上げる。
この屋敷は自然に囲まれているけれど、この土地自体は都心に近い位置にあるので星はあまり見えない。けれど、月だけは明るく史香を照らしていた。
ぼんやりと月に見入っていると、カサカサと音がした。
その音は庭を囲む雑木林の方から、草を分けてこちらへ進んでくる。
史香は警戒して縁側の雨戸に手を掛けた時、草むらからタヌキがピョコンと飛び出して姿を現した。
「……あ、ポン太!?」
「そうです」とでも言いたげに鼻をヒクヒクさせて、タヌキ――ポン太――は史香の方へ、てふてふと歩いてきた。
(わああああ……タヌキ、タヌキだぁ)
史香は感動して、ポン太が自分のすぐ側まで来るのを見守った。
ポン太は史香の足下まで来ると、彼女を見上げてお座りをした。
「こ、こんばんは……」
(もっふもふしてる。でも、おばあちゃんは触らないようにって言っていたっけ)
毛皮に触れてみたい衝動を抑えて、史香はポン太を見つめた。
ポン太は史香の目を見たまま、お座りから丸まった伏せの姿勢になった。
どうやら史香を気にしつつ、この場でくつろごうとしているらしい。
(可愛い……。こんなにくつろいでいるし……)
触れるかも、と、史香はもふもふの誘惑に負けてタヌキの側にしゃがみ込み、そっと手を出した。
途端、「フーッ!」と牙を剥いて威嚇されてしまった。
慌てて手を引っ込める。
タヌキはというと、その場から離れる気は無い様子だ。
「あなたも友達になってくれない、か」
史香は寂しく呟いた。
タヌキは、全く史香に同情しないのか、あくびなんかしている。
その吞気さを見ると、何となく悲しみに沈めない。
「はぁ。中学の頃にはいたのになぁ」
ふとそう呟いてから、その頃の事を思い出そうとするのを止めた。
史香の思い出の棚は、思い出したくない事でいっぱいだ。
全部ラブレター騒動のせいだ、と苦い気持ちで顔を歪める。
でも、友達はいた。
「昔はどうやって友達になっていたっけ……?」
友達になろう、なんて声をかけなくてもいつの間にか仲良くなっていた気がする。
でも、何となく史香は自分が別の方法を知っている気がして、眉間にしわを寄せ目を細めた。
幼い頃の自分。
今と同じで、内気で恥ずかしがり屋で、なかなかみんなの輪に入れなかった。
だけど、誰かが言ったんだ。
『手紙を書いてみなよ』
史香はハッとして、ポン太を見た。
ポン太がしゃべった訳ではない。
自分の忘れかけていた記憶の中から声がした。
(誰が言ったんだっけ)
脳裏で小さな手が、鉛筆を握る。
幼い頃の、小さな史香は声の助言を素直に聞いた。
(駄目、やっちゃだめ)
小さな史香は、たどたどしい平仮名で、小さなメッセージカードに書いたんだ。
『おともだちになって』
史香は縁側から部屋へ駆け込んで、実家から持ってきた寄せ書きを探し手に取った。
中学卒業の日、皆で書き合ったものだ。
四角い紙面の真ん中に描かれた四つ葉のクローバーのイラストを支柱にして、クラスメイト達の書いた別れの挨拶が丸く並び花開いている。
『さよなら』『元気でね』『寂しいよ』『また会おう』
といった短いものや、
『学祭の時、たこ焼き焼くの楽しかったね! また遊ぼう!』
という、短いエピソードつきのお別れの横に、それぞれ名前が添えられている。
史香はその一つ一つを確認した。
「書いた、書いてない、書いた、書いた……」
名前を指さす指先が震える。
史香は「書いた」と指さす名前の持ち主へ、手書きのメッセージを送った記憶があった。
*
それは手紙ほど改まったものではなく、本当にちょっとしたものだ。
例えば、中学に入学したばかりの時は、自分で可愛く作った名刺を交換する事が流行って、史香もそれに習って「よろしくね」やら「なかよくしてね」と書いたものを仲良くなれそうな数人に配った。
史香はゾクリ、と身体を震わせる。
その名刺を渡した相手の名前が、寄せ書きの中で別れを惜しんでいる。
彼女たちとは、三年間クラスが離れなかったのだ。
(偶然だねって驚いていたけれど)
中学二年生の時には、親友が出来た。
美羽という優しい女の子だ。
もちろん美羽の名前も、誰よりも史香との別れを惜しんで寄せ書きに並んでいる。
「美羽にも、書いた……」
『私たち、親友になれるかも?』
(授業中、こっそりノートの切れ端に短い手紙や漫画の絵を描いて遊んでいた時、美羽が尋ねて来たんだ)
だから、嬉しくて返事を書いた。
『うん。親友になれるよ!』
*
「嘘、偶然だよ」
史香はへたり込んで、呆然と寄せ書きを眺めた。
「ラブレターだけじゃなくて、他のメッセージもなんて」
史香はラブレターを書くと……の事すら、自分で信じられない。
だって、自分にそんな力があるとは思えないし、そもそもこの世にはそんな不思議な事は起こらないのだと思っている。
けれど、今ふと思い立ち、思い返してみてゾッとした。
みんなが史香と友達になったり仲良くしてくれたのは、史香の文字の力のせいなんだろうか。
そんな事あるわけがないと思っているのに、色々当てはまる事が多い気がする。
もしも、そんな不思議な事があるとするなら、史香はいたたまれない。
だって、本当にそうなのだとしたら、彼らは史香のメッセージに従っただけではないだろうか?
史香はそう考えつくと、酷く空しくて悲しい気持ちになった。
「そんなわけない。そんなわけ……」
じわりと目に涙がこみ上げてくる。
この孤独感はなんだろう。
くすんと鼻を啜っていると、庭の方から視線を感じた。
ポン太が縁側に手を掛けて史香の事を眺めていた。
「ポン太……私、すごく寂しい」
相手が人じゃないと、素直に言葉に出来る事がある。
史香はそうだった。
ポン太はヒョイと縁側に飛び乗り、てふてふと史香に近づいて来た。
(うそ、慰めてくれる……?)
タヌキは、驚きつつちょっと期待する史香を見上げ――――
『プッ』
と、笑ったのだった。
「え、今笑った?」
史香は驚いて、零れそうだった涙を引っ込めた。
ポン太は、ふいふいと首を振って、伸びをする。
そして、寝るために敷いておいた史香の布団の上へ上がろうとした。
「ちょちょちょ、駄目!」
外を歩いていたタヌキに布団を汚されたくなくて、史香はポン太を追い払った。
ポン太は布団に入りたいのか、立ちはだかる史香の足下をウロウロと歩き回った。
「だ、駄目! お外を歩き回ってるんでしょ? 虫がいたらイヤなの!」
そう言った史香を、ポン太は上目遣いで見上げ、喉の奥から「ヴヴヴヴヴ」と切なげな鳴き声を出した。
「だ、駄目ったら駄目!」
さっきまで深刻な気分だったのに、それどころではなくなってしまった。
布団にダニやノミを持ち込まれてはたまらない。
拍臣に見つかったら、虫のいる女子だと思われてしまう。
ポン太はふわふわの毛皮を更にフワッとさせて、史香に揺すって見せる。
虫などいない事を証明しようというのか、はたまたモフモフの毛皮を見せつけて誘惑しているのか。
(こんなにモフモフしたモフモフと一緒に寝れたら、イヤな事吹き飛んじゃうかもなぁ)
史香は誘惑されかけたけれど、ブンと首を振った。
「だ、駄目、おんもへ行きなさい!」
断腸の思いでポン太を家の外へ追い出そうとすると、
「キュンフシュッ!」
と、責めるような、哀れっぽいような鳴き声を上げた。
「駄目だもん……」
「キュンフシュッ! キュンフシュッ!」
「うう、ごめんね」
史香とポン太はしばらくジリジリと牽制し合い、やがてポン太が諦めたのかひらりと部屋から飛び出した。
それから、雑木林の方へトトト、と向かう途中振り返った。
「ごめんね、ばいばい」
追い出したものの名残惜しくて史香がさよならを言うと、ぷいと顔を背けて草むらへ入って行った。
月明かりに照らされた庭の木々や草花が、サワサワ音を立てるだけになった。
ポン太が現れる前より少し寂しく見えてしまって、史香がしゅんとしていると、雑木林の方から
「ばーか!」
と声がして、カサカサ草を踏む音が遠ざかって行った。
史香は総毛立って布団に潜り込むと、「タヌキは喋らない」と念仏の様に唱えて眠った。