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史香、美味しいご飯に懐柔されるの編

 祖母は、家の中でも日当たりと風通しの良い部屋を用意してくれていた。

 史香が幼い頃からお気に入りの、六畳の板の間と四畳半の畳の続き間だ。

 板の間には竹格子の付いた丸い窓、畳の部屋には縁側から障子越しに明るい光が入っている。

 無事に到着したという報告を心待ちにしていたのだろう、母親はすぐに電話に出てくれた。

 史香は祖母の家に到着した事を伝え、家政婦が男性だった事を早速母親に報告した。

 すると、


『まぁ。イケメンなの? いいわねぇ、頼もしいわ』


 と、返ってきた。


「ええ~、やだよ。同じ年くらいなんだよ?」

『尚更ラッキーじゃなーい』

「何言ってるのお母さん、洗濯物とかどうするのさ」


 若い娘の住む家に若い男が出入りするなんて、とかなんとか言って味方をしてくれるとばかり思っていた史香は、焦って抗議する。

 しかし、母親の返事は絶望的なものだった。


『あのね、史香の為の家政婦さんじゃないの。おばあちゃんの為の家政婦さんでしょ。史香は自分の事は自分でやればいいの。洗濯物もお掃除も自分でやるのよ!』

「う、でもでも、お婆ちゃんは私にのびのび過ごして欲しいって……」

『なに甘えてるの! お母さんたちが県外の高校を許可したのは、親元を離れてちょっとだけ自立出来るならって思ったからなのよ?』

「うう……」


 確かに、洗濯や掃除を自分でやれば済むことだった。

 しかし、これならどうだとやり返す。


「でも、おばあちゃんってば家政婦さんにのぼせちゃってるよ。やたらご機嫌で、今まで見た事無い明るい色の服着て若作りしてたし」


 正直、祖母のそんな様子を見るのは初めてだし、ちょっとイヤだ。

 それなのに、史香の母はそのことを問題として捉えてくれなかった。


『あら、おばあちゃんの気持ちが明るくなっているならいいじゃない。あのねぇ史香、家政婦さんが男の子だったからって気にしすぎよ。家に寝泊まりする訳じゃないのだし』

「そうだけど……」

『んもう、男だなんだって騒ぐなんて、史香こそ「色気づいてます」って言ってる様なものよ』

「な、酷い! これは拒否反応だもん、そんなんじゃないもん!!」

(色気づいてるのは、おばあちゃんなのに!!)


 史香は怒ったけれど、これ以上何か言い返しても母親の口には勝てない事は分かっていた。

 もっとからかわれたら、ただでさえ新生活に向けて緊張している神経に響く気がする。


「わかった。もういい……」

『仲良くしなさいね。わかった? あと、ちゃんとご飯を食べて、夜更かしはしちゃ駄目よ。それからおばあちゃんの言うことを良く聞いて、こまめに連絡をすること!』

「はいはいはいはい!」


 史香は「はい」を連発して、母親がまた何か言う前に通話を勢いよく切った。


「もう!」

 イライラした気持ちを静める為に、縁側へ出てひょいと庭の方を見ると、ちょうど拍臣が洗濯物を取り入れている姿が目に入った。

 慌てて部屋の方へ引っ込もうとしたけれど、それより先に拍臣がこちらに気づいた。

 拍臣はタオルや祖母の寝間着を腕に引っかけ、祖母のノンワイヤーブラジャーをピンチハンガーから外した所だった。


(ヒッ……)


 史香は拍臣の手にしている物が自分の物ではないのに、羞恥で赤くなる。

 拍臣はというと、まるで王子様が花束を抱えて微笑んでいるかの様に史香へ微笑みかけてきた。


(むり……)


 ぎこちなく笑い返した後、史香はヨロヨロと部屋へ這い戻る。

 安穏を求めてやって来た場所なのに、これから先、心安まる日々が得られるのか、史香は心配になってきた。

 部屋に引っ込んだ史香は、畳の上に突っ伏した。


 そのままズルズルとうつ伏せに倒れると、陽に温められた畳が気持ち良かった。

 春の香りをたっぷり含ませたそよ風が、庭で遊んだついでに史香を撫でて行く。

 今朝は早起きをしたし、緊張と興奮で疲れていた史香は、そのままうとうとと眠ってしまった。


 *


 暗闇の中で仄かに光る筆の夢を見た。

 筆は誰かの手の中で動き、滑らかに文字を生み出している。

 するする、するする。


(誰が筆を持っているんだろう)


 目を凝らすと、筆を持つ人物が闇から浮かび上がってきた。

 正座をして卓に向かっている姿は小柄だった。

 筆だからお習字をしているのかな、と、安易に思う。

 その人は、影になっていて表情こそ見えないが、顔の辺りからぽろぽろと滴を落として、一心に何かを書いている。

 史香がもっと良く見ようとすると、何かふわふわしたものが史香の脇をスルンと通り過ぎた。

 それは、小さな四本脚をちょこまか動かして筆を持つ人物の横に座った。


(猫? それとも小型犬?)


 筆を持つ人影が、動かしていた筆を止める。

 その人影が四本脚の動物の方を見下ろすと、辺りの空気が和らぐのを感じた。


(あ、今、微笑んだ)


 自分の夢の中で誰かが泣いているのは心苦しかったので、史香はホッとする。


(良かったね)


 何が良かったのかは自分でも分からないけれど、そう思った。

 そしてその時、ふと嗅ぎ慣れた香りが鼻腔をくすぐった。

 史香の祖母のお屋敷内で、史香だけが感じる香りだ。


(好きな匂い……)


 これは何の匂いなんだろう。

 いつもの疑問を、夢うつつに考える。


(なんだろう。でも、今日はわかりそう。これは……)


 無意識に鼻をくんくんと動かすと、くしゅん! と、くしゃみが出た。


「ふぁ、肉じゃが」


 史香は自分のくしゃみと気の抜けた声の両方で目を覚ます。


 自分が寝てしまった事に気づいて、のろのろ起き上がり庭の方を見ると、既に日は暮れて薄暗くなっていた。

 春先は、昼は暖かいけれど夕は肌寒い。

 史香は縁側のガラス戸を閉めようとして、良い匂いが台所の方向から庭伝いに流れて来ている事に気がついた。


 夕飯時まで眠ってしまった。

 もうお婆ちゃんは帰って来ちゃったかな。初日から怠け者って思われちゃう。


 史香は慌てて台所へと向かった。


 騒がしくない早足で台所へ急ぎ、土間玄関をチラリと確かめる。

 祖母の履物は無かった。


(良かった。長い昼寝がバレない)


 史香はホッとして、台所の入り口前にかかっている玉暖簾へと目をやった。


(そっか、拍臣くんがご飯作ってくれているんだ)


 偉いなぁ、と、初めて素直に思う。


(お洗濯取り入れて、畳んで、お夕飯の支度して……それから、これはお仕事で……)


 玉暖簾の奥から漂ってくる料理の良い匂いに誘われ、そっと台所を覗いた。

 ふんふん、と何やら鼻歌まじりに動く拍臣の後ろ姿が見える。

 その後ろ姿を見て、史香は自分の目を疑った。

 拍臣のお尻で、太いフサフサしたものが左右に揺れていたからだ。


(えぇ!?)


 目をみはると、それは少し透けている様に見えた。

 史香が固まっていると、今度は彼の鼻歌が気になる。


「ポンポンポコポン、ポコポンポン」


(ポコポンポン……)


 気になる。なんだその歌はと、気の抜けた気分で怪しがっていると、


「あ、冷奴に紫蘇を散らしちゃるかね」


 拍臣はそう呟いて、勝手口から庭へと出て行った。

 史香は自分が余程疲れているのだ、と、目を擦りながらソロソロと台所の玉暖簾をくぐる。

 玉暖簾越しだったし、あの尻尾の様なものはきっと目の錯覚だ。


(それにしても、お昼の時と全然違うしゃべり方をしていたなぁ。あれはお仕事用のしゃべり方で、今のが素なんだね。関西弁かしら……?)


 彼の弱味という程ではないけれど、コッソリ素を見てしまった事が、ちょっと可笑しかった。


(戸を開けっぱなしにしちゃって)


 そう微笑みながら、どんなご飯を作ったのか、台所の作業台とコンロの上のお鍋を覗き込む。

 作業台には、大きく立派なお皿に鰹のたたきが盛り付けられていて、一際史香の目を引いた。

 綺麗に並べられた鰹の上に、ミョウガと紫玉葱の薄切りがこんもりと盛られ、小ネギが散らしてある。

 他にも、彩り豊かなサラダと、小皿に乗った豆腐、茶碗蒸しの器が並んでいた。


(すごい。お店みたいだ)


 コトコトとトロ火にかかっているお鍋からは、史香を誘った良い匂いの肉じゃがが、ほっこり炊かれていた。

 お芋が良い色をしているし、サヤエンドウの緑とニンジンの橙色は鮮やかで綺麗だ。

 お鍋の横のフライパンには、豆苗とツナと卵が炒ってある。こちらも緑と黄色が、ツナの油で艶々している。

 平鍋には、お豆腐と三つ葉の浮いたすまし汁が優しい香りを立てていた。


(たくさん作ってくれたんだ。お婆ちゃんに歓迎メニューを頼まれたのかも)


 史香は感動してしまった。

 それから、スマホを部屋へ置いてきてしまったのを悔やんだ。


(写真撮って、お母さんに送りたいな)


 そんな事を思って料理の数々に見とれていると、勝手口の方でカサカサ音がした。


(拍臣くんが戻ってきた。たくさんの料理を褒めて、お礼を言わなきゃ)


 史香はそう思って、笑顔で勝手口の方を見た。

 春の夜風が勝手口から入って来る。

 それから一拍おいて、タヌキが勝手口からピョコンと入って来た。

『ふんふんふん♪』


 タヌキは史香に気づかずに、てふてふと台所に上がり込む。

 紫蘇を数枚咥えて、ご機嫌の様子だ。

 史香は檻に入ったりしていない自由なタヌキを初めて見て、驚きの声を上げた。


「え!?」

『ん? あ!』


 タヌキもびっくりした様子で、紫蘇の葉をはらはら落とし、史香の方を見て尻尾を膨らませた。


「た、タヌキ!!」


 それ以上の言葉が思い浮かばなくて、史香が大声を上げた。

 タヌキはソロソロと後退りした後、戸口からピュッと逃げ出した。


「ああ!」


 勝手口へ駆け寄って、庭を見渡す。

 暗くなりかけた庭は、さわさわと葉の擦れる静かな音を立てて史香の好奇心に知らんぷりをしている。

 庭はきっと、タヌキの味方なのだ。

 史香は諦めて勝手口から離れると、足元に落ちている紫蘇を拾った。

 タヌキが史香に驚いて落としたやつだ。


「……紫蘇」


 拍臣の戻りが遅いな、と、ふと思う。

 彼は紫蘇を取りに庭へ出たのに、さっき庭を見渡した時何処にも姿が見えなかった。

 紫蘇は台所の側に茂っているのに、だ。

 それよりも何よりも……。


「タヌキ、しゃべってた……」


 史香は知らず自分の両腕を抱き擦っていると、ヒョイと勝手口から拍臣が顔を出した。



「うわ」

「お腹すきましたか? もうすぐ夕食の準備整いますからね」


 ニコッと笑う拍臣に、史香は飛び付く様に尋ねた。




「は、拍臣くん、庭でタヌキ見た?」

「え? タヌキ? いや~見た事無いです」

「ほんと? 一度も?」

「はい。ささ、茶碗蒸しを蒸さなきゃ」


 拍臣は素っ気なくそう言って、史香に「これ、冷奴に散らしてください」と紫蘇の葉を差し出した。


「紫蘇……」


 史香は差し出された紫蘇の葉を凝視し、先ほど拾った紫蘇の葉へ視線を移した。


「あれ? どうしたんですか、それ」

「タヌキが……」


 タヌキが咥えて来たの。

 そう説明しようとした時、土間玄関の方から「ただいまー」と、祖母の声がした。


「あ、奥様が帰ってきましたね。お帰りなさーい!」


 拍臣は史香の話にちっとも興味が無かったのか、土間玄関へ祖母を迎えに行ってしまった。

 祖母が帰って来て、食事の準備が整うと拍臣は帰って行った。


 *


 彩り豊かなご馳走の並ぶ座卓に、史香は祖母と向かい合わせに座って「いただきます」と手を合わせた。

 祖母は史香との食事が嬉しいのか、はしゃいでいる。


「これから三年間ふーちゃんとこうしてご飯を食べられるのね。嬉しいわ」

「私も。おばあちゃん、ここに住むことを許してくれて本当にありがとう」


 祖母は「いいのよ」と頷いて、取り皿にたくさん料理を盛ってくれた。


「入学式に参列出来るのがとっても楽しみ。お友達がたくさん出来るといいわね」


 そう言って差し出された取り皿を受け取って、史香はへらりと笑う。


「あまり自信ない。誰も知ってる子はいないだろうし」


 それが目当てで県外の高校へ入学するものの、やっぱり心細い。

 史香の表情を読み取って、祖母が励ますように言った。


「ふーちゃんなら大丈夫。あなたは優しいし、可愛いもの」

「ありがと。でも、可愛いのは孫だからでしょ?」

「それだけじゃないわよ。客観的に見ても可愛い。ハック~だって可愛いって言ってたわよ」


 史香は鰹の身を口へ運んでいた箸を止め、顔をしかめた。


「そういう事軽々しくいう男嫌い」

「あらあら、赤くなってる」

「なってないもん」


 憤慨して、鰹のたたきを口へ放り込んだ。

 途端、史香は目を見開いて祖母を見た。

 祖母は史香の意思が分かるのか、得意気な顔で親指を立てて見せる。


「美味しい!」


 脂のりの良い身にかかったタレの酸味が食欲をそそる。

 タレはおそらく手作りで、基本的なものに極僅かにごま油が落とされているみたいだ。

 パリッと焼かれた皮目の香ばしさに、ごま油の微かな風味と良く合っている。

 そしてお仕舞いに、ミョウガと紫玉葱のピリリとした爽やかさが鼻を抜けてゆき、次から次へと食べたくなる。

 史香は食べ物に魅了された事が初めてだった。

 おいしい物を食べた思い出はたくさんあれど、こういう感動を味わった事は無かった。


「な、なんなの? 天才?」

「そう。ハック~は、天才なのよ……」

「肉じゃがも意味が分からないくらいご飯がすすむ!」


 はふっ、はふっ、と頬張って、史香は危うく涙ぐみそうになった。

 もう「美味しい」しか頭の中に浮かばない。幸せ。

 祖母も幸せそうに豆苗の炒め物を頬張って、


「私ね、ハック~にご飯作ってもらうようになってから、ちょっと太ったのよ」


 と、悩ましげに言うので、史香は「くぅ」と唸った。


「これは仕方がないよ、おばあちゃん!」

「ねー? だからね、本当は毎日作って欲しいけど、週三で我慢してるの」


 史香は眉を寄せた。

 あんなに男子が自分の住む所に出入りするのがイヤだったくせに、週三回しかこのご飯を食べられないのかと思うと、本気で残念だったのだ。


「拍臣君の来る曜日は決まっているの?」

「月曜日と水曜日と金曜日。朝十一時から五時くらいまでよ」

「月、水、金ね」


 その曜日は美味しいご飯。

 史香は真剣に頷いて、曜日を覚えた。

 それから、安心もした。

 拍臣の勤務時間は、ほとんど史香が学校へ行っている時間だ。

 そんなに顔を合わす事はなさそうだ。

 これで、自分の部屋に入るのを禁止して、洗濯物もその曜日には出さなければ問題は解決だ。


(なあんだ。心配する事なんてなかった)


 史香はそう思うと、満面の笑みで茶碗蒸しを頬張った。

 もちろん、茶碗蒸しはめちゃくちゃ美味しかった。

 史香は拍臣の美味しい料理に、タヌキの事をすっかり忘れさせられて、


(ああ、これで穏やかな高校生活がおくれるぞ)


 と、暢気に微笑んでいた。



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[一言] はっく~も意外とうっかりさん。でもバレてない! 美味しいご飯には負けるよね。いいなぁ。カツオのたたき。美味しそう! たまに、自分で作ったものじゃないものが食べたくなる。
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