史香、御法度を記すの編
震える筆を、しっかりと持った。
この震えは、自分のものではないのだから、と、自分に言い聞かせる。
墨に筆先を浸すと、不快な味がしそうな程、墨の香が強くなった。
気にせず白紙の上に視線をやって、書き出しの位置を決める。
集中する為に息を潜めると、庭で僅かに鳴いていた虫たちが、夏の盛りのごとく一斉に鳴き始めた。
生暖かい風も吹いてきて、紙の端を煩く弄ぶ。
それらに史香は動揺しなかった。
そして、紙にさらさらと文字を書く。
『改・てんてんの書』
真っ白な毛玉が、史香の目の前をぴょんぴょんと跳ねる。
草葉に隠れ、つぶらな目をキョロキョロさせて、赤い実を探す。
頬いっぱいに赤い実を頬張って、たまに毛繕いをする。
史香は、その場面に描写を付け足した。
てんてんには、ちいさなよっつのあしがございます。
じっと待っていると、小さな白い毛玉に、ピョコンと四本の脚が生えた。
文字は墨で塗り潰されなかった。
ふふ、と史香は笑みを漏らす。
「やっぱり。……ほら、出ておいで」
しろいおみみも、ございます。
おくちはすこうし、とがっております。
おはなはつやりとしたくろいろで、ぎんのおひげもはえておりまする。
ちいさな毛玉だったてんてんの姿が、思い描いた通りになっていく。
史香は目尻を湿らせて、筆を走らせた。
そして、てんてんには、おもございます。
――みんなが、あなたを心配しているよ。
筆が、安物の筆の様に紙に引っかかって抵抗する。書き綴った文字がぐらぐら揺れる。
「駄目だよ、出て来て」
てんてんのおは、ここのつはえておりまする。
史香の観ている世界で、九尾の小さな白い子タヌキが、首を傾げて瞬きをした。
史香は自分が安堵しているのか、切ないのか、悲しいのか、分からないまま、鼻を啜って泣いた。
一つだけ分かる自分の感情と言えば、ちょっとだけ怒っているのだった。
「どうしてこんな酷い事するの」
「成る程、写本師が代わる度練習として書かせ、偽りにも殺されるワケか。そして魂を削る……確かに『穢れの書』だね。しかし」
弓弦は真剣な顔をして、書面へ目線を戻した。
「くちなわに勝てねば意味はない。これからだよ」
「……そうだった」
てんてんの書は嘘を吐いてでも、てんてんを殺したがって、実際に書の中で食い殺してしまう。
史香は今まで通り、根気強く蛇と付き合った。
何度も攻防戦を繰り返し、何度も紙を変えて書き直す。
突破する、すぐ塗り潰される。その繰り返し。
「てんてんは、ほんとうはものすごくつよいあやかしである」
――――しかし、くちなわはさらにつよし。てんてんははがたたぬ。
「もう!」
茶番めいてきて、史香はちゃぶ台をバンと叩く。
歯が立たないと言われたら、勝ちようが無い。
「唯一無二の強さだった、はどうだろう?」
弓弦が加勢してくれた。
「そっか!」と史香は勢い込んでその文言を書く。
しかし、それは墨で潰されてしまった。
「まぁ、上には上がいるからねぇ」
と、弓弦は腕を組む。
「相手が有利すぎる」
「そうなの。悔しい!」
「落ち着いて。何か手はあるはずだよ。けれどもう少し慎重にやった方が良い。何度も死まで辿り着いてしまっては、魂を削ってしまうばかりだからね」
「あ、あ。そっか……もうっ」
もしかしたら、『てんてんの書』改め『穢れの書』は、史香が挑めば挑むほど、好都合なのかも知れない。
そう気づくと、史香は余計に悔しがった。
「でも、なんとかしないと……」
「少し落ち着こう。今夜は余りにも遅いから、そろそろお暇するよ。ほら、お婆さまが心配している」
「え? ……あっ!!」
史香の部屋を、祖母が心配そうに覗いていた。
慌てて書やら紙やらを隠そうとしたものの、遅すぎた。
「ふーちゃん、お習字をしていたの?」
「え、あ、あはは。うん。宿題で……弓弦さん字が綺麗なんだよー」
「……そう。弓弦さん、こんな夜更けまで申し訳ありません」
「いえいえ、ではこの辺にしようかな。ね、史香ちゃん」
弓弦はそう言って、ゆっくり立ち上がると帰って行った。
弓弦を玄関まで見送ってから、祖母は史香の顔を見る。
「ふーちゃん、こんな遅くまで引き留めては駄目じゃない」
「ごめんなさい……」
「学校のお勉強大変なの? 少しやつれたように思うの。ハック~のご飯が食べられないからかしら……」
祖母はそう言って、拍臣と彼の作るご飯を恋しがった。
そして、ハック~のご飯の事を思い出したらお腹が減ったわ、と言うと、ポンと手を合わせた。
「ねぇふーちゃん、夜食を食べない?」
「夜食?」
「ええ。おばあちゃんがお握りを握ってあげる!」
*
祖母の握ってくれたお握りは、梅干しとおかかの二種類。
史香はおかかのお握りを頬張った。
熱い玄米茶を淹れてもらい心を和らげていると、祖母が切り出した。
「最近心ここにあらずねぇ……」
「うーん、そっかな」
「お友達は出来た?」
「うん。バスで一緒の子と仲良くなったよ」
祖母はふっくり微笑んで、良かったわぁと言った。
「なにか悩みがあったら、おばあちゃんに言ってね」
史香は一瞬黙って、それから「じゃあ」と聞いてみた。
「すっごく狡い子がいるの。嘘を吐いているから、私が『本当は違うでしょ?』って言っても聞かないんだ」
「まぁ」
「自分ルールっていうの? そういうの持ってて、それを振りかざして狡いんだよ」
史香はふてくされて座卓に突っ伏す。
「嫌になっちゃう」
「どうして嘘を……」
「え?」
祖母が口を開いたので、史香は顔を上げた。
祖母はとても優しく微笑んで史香に言った。
「どうして嘘をつくのだと思う?」
「狡いからでしょ」
「嘘はね、弱点なの。何かを守っているんだよ」
「……」
史香は祖母の顔をポカンと見て、囁いた。
「そっか……そうだね」
「ふーちゃん、頑張れ」
祖母は優しい表情を小憎らしいものに変えて言った。
「その子はきっと、ふーちゃんに真実を暴かれそうで、冷や汗をかいて怯えてるよ。ひっひっひ、もう一押しなのさ」
「でも、変なルールが……」
上手く説明できない。
あんなのなんて説明したらいいの?
「……後出しジャンケンみたいなことするんだよ」
「なんだかよく分からないけど……」
祖母は更に悪い顔になって笑った。
「ハンムラビ法典って知ってる?」
「目には目を?」
祖母は「そうそう」と言って頷く。
「歯には歯を」
お握りを豪快に頬張って、祖母がムフッと目を細める。
史香は祖母が口に詰め込んだものを、玄米茶で喉に流すのを見守った。
「……」
「後出し出来ないように、ふーちゃんもルールを作っておやり!!」
*
史香はシンと静まりかえった深夜、まっさらな紙を広げちゃぶ台の前で深呼吸する。
お守りに怪鳥の羽を懐に忍ばせ、「これをいつか面白い唄にしてよ」と嘯く。
そして、筆を構えた。
どうか消えないで。私の文字には……力がある。
筆を持ったら出てくる力じゃなくて、生まれつき授かった力が。
そして私は、小さな毛玉を憐れんだ。でも、憐れんだのかな?
本当は、何か善いことが出来るかも知れないって、思ったんじゃなかった?
私は善いことが出来る機会を探していたんだ。
自分のした悪い事と罪悪感を、ちょっとでも消したくて。
そもそも、どうして罪を消したがるんだろうね。
天国や閻魔様の審判なんて信じていないのに。
私、なんにもわからないけれど、強いお婆ちゃんや、強かなお母さんではなく、こういうドロドロした私だからこそ、あなたを見つける事が出来たって思ってもいいかな。
あなたの危機は、私が写本師の時だからこそ起ったんだ。そうでしょ?
さあ、勝負です。
写本師史香は、真実しか写さないの。
『改・てんてんの書』
筆は震えている。怯えているのか、喜んでいるのか。
紙に筆先を静かに置いて、史香はニヤリと笑い、新しい一文を付け足した。
―――これより先綴られるものは、真実のみ。
勝ちである。
書はもう、後出しで嘘を吐けない。
史香の力が効けば、だけれど。
かくして、蛇は「本当は凄く強い」てんてんに、こてんぱんに反撃されて負けた。
「勝った」
史香はニヤニヤしてそう呟いた。
書は嘘を禁じられ、渋々といった様子で、史香に真実を弄られまくっていた。
「こっちだって、真実じゃないと墨で潰れちゃうんだから、フェアでしょ?」
史香は「ふふん」と書に囁く。
蛇に襲われた可愛い可愛いてんてんは、自分の命の危機に秘めた力を解放して、九死に一生を得た。
「凄いよ、てんてんちゃん……というか、白菊様」
史香はご機嫌で仕上げをしようとした。
蛇の始末だ。
―――てんてんは、くちなわをたべました。
これは墨で潰れた。
「だよね~」と、史香は笑う。試してみただけだ。
―――てんてんは、くちなわをきにしばってうごけなくしてやりました。
これも墨で潰れる。
「もしかして……」
―――てんてんは、くちなわをにがしてやりました。
史香は「九尾の狐の書」で見たあの美しくて優しそうな白菊様の姿を思い浮かべて、書いた。
すると、文字が墨に潰れる事なく、紙に留まった。
史香は「フー」と長い息を吐いて、畳にへたり込む。
「出来た……これでもう、命を削られないよね……?」
呟くと、『改・てんてんの書』が、怪しい紫色に輝き出した。
「え……?」
史香が驚いていると、真っ黒な影が、書からドロンと現れ大きく膨れ上がり、史香を一掴みにした。
「きゃああ!?」
『よくもよくも。せっかく……せっかく、あと少しで死ねたのに!!』
写本師は写本をしておれば良いものを!!
影はそう言って、史香を床に叩きつけた。
畳に打ち付けられた史香は、あまりの事に声を出せずに蹲った。
大きな黒い影は、書や硯の乗ったちゃぶ台をひっくり返し、唸り声を上げて飛びかかって来る。
「いや……!!」
『どうしてじゃましてくれるん? どうして?』
倒れた史香の上に、覆い被さるように四つん這いになって、影は捲し立てる。
「し、白菊様でしょ!? や、やっぱり自分でやったんだね!?」
史香は恐ろしくて、ガタガタ震えながらも影に尋ねた。
影はブンブンと太い首を振り、史香の質問に答えなかった。
『ああ、腹が減る……ぐううううううう……くうふくです。うえかわいております。そしてそれよりもくちおしいのは。それよりもくちおしいのは。なぜでしょうなぜでしょう。あてがわるいのでしょうか、だれでしょうか……にくい』
影からボタボタと粘液が零れ落ちて来た。
あの時と、同じに。
影が史香に向かって大きな口を開けた。牙がずらりと生えている。
「……!!」
むはぁ、と、熱い息が間近で吐かれて、史香は「ひぃ」と声を漏らすのがやっとだった。
牙が粘液に濡れてぬらぬらと光っている。
真っ赤な舌が、蠢いて史香を待っている。
史香は、今度こそ本当に憐れを感じた。
――憎いよね。何が憎いのだか、サッパリ分からないのに。何でこんな目に合うの、私悪くないもんって、閻魔様に一緒に怒鳴りに行こうか?
私は多分駄目だけど、白菊様は大丈夫だよ、絶対。
史香はギュッと目を閉じた。
その時、ここ最近ずっと聞きたかった声が聞こえた。
『目を閉じたらアカン!!』
ひゅん、と、縁側から飛び込んで来たのはハクだ。
「フー、諦めたらアカンやん!」
ハクは影と史香の間に割り込んで、人型に化けると史香を抱いて板の間へ転がった。
彼は史香を助け起こすと、史香のおでこにデコピンをした。
「もー、諦めたら仕舞いやん……アカンよ!」
「いたい……」
「よう頑張った。驚きじゃ。ほんまに「穢れの書」を見つけてしまうとはなぁ!」
影が再び史香目がけて飛びかかって来た。
ハクは史香を抱えてヒラリと躱す。
「お静まりまいませ、白菊様!」
ハクが影に呼びかける。
ハクより遅れて、二匹のタヌキも部屋へ飛び込んで来て、ハクと同じように影に呼びかけ始める。
『白菊様~お気を確かにしてくれろ~』
『お静まりまいませ~、白菊様~』
あの神社の石柱に鎮座する二匹だ。
「やっぱり、白菊様なんだ!」
「前に教えんかったけぇ?」
「あれが白菊様なのは、承知の助なの!」
じゃなくて、と、史香はハクの懐に手を入れて弄った。
ハクは驚いた様子で、慌てふためいて床に倒れ身体を捩った。
「お、おいおい、ひゃんっ、やめい! なんぞなんぞ? 後にしよ!?」
「今じゃなきゃ駄目!! じっとしてよ!!」
「いっくら久しぶりに会うたからって、そんな、あっ、あぁっ!?」
「あった!!」
史香は『てんてんの書』をハクの懐から引っ張り出すと、何故かぐったりしているハクに見せつけた。
「これ! これが『穢れの書』だよ、ハク!!」
影が吠えた。
『イヤじゃ、返してぇ!!』
悲痛な叫びとも取れるその声に、史香は胸を締め付けられながら首を振る。
「駄目! どうしてこんな事するの!!」
そう言って怒鳴ると、『てんてんの書』をビリビリと破り捨てた。
影が叫び声を上げる。
『いやあああああ!!』
ドロン、と濃い霧が立って影――白菊様を包んだ。
ハクとタヌキ二匹が「白菊様!!」と、心配の声を上げている。
ハクが立ちこめる霧を振り払って、その中心へ駆け寄ると、そこには一匹の雪の様に真っ白なタヌキが倒れていた。




