史香、祖母の家で新生活開始の編
よく似た作りの家が建ち並ぶ住宅街の道を歩いていると、ふと木々や林に挟まれた土肌の小道や、先の見えない坂道、石の階段を見つける事がある。
秘密めいた小道の先は、そこに縁のある人間だけを受け入れてくれる場所に違いない。
史香の新しい住居も、そんな小道の先にあった。
新しい住居といっても、祖母の住む家だから初めて来る訳ではないし、幼い頃から慣れ親しんでいる場所だ。
史香はこの春から始まる高校生活を、祖母の家で過ごすのだ。
行く先に茂る木々が枝葉で半円の額を作り、先にある平屋建ての日本家屋の姿を納めている。
『史香と縁のある』小道は、植物や土の優しくしっとりした良い匂いがする。
史香は深呼吸して良い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
(高校生活は、この場所みたいに静かで穏やかなものにするぞ)
*
少し小道に入るだけで、こんなに広いスペースがあるのか、と、驚かされる程広々とした庭が春の陽気にポカポカとあたたまっていた。
「ああ、やっぱりおばあちゃんのお家、好き!」
史香は玄関へと続く飛び石を軽い足取りで踏みながら、胸いっぱいに香しい空気を吸い込んだ。
この場所に漂う空気と匂いが史香は大好きだ。
優しくて深くて、心が落ち着く香り。
ここへ遊びに来る度に「一体何の香りなんだろう?」と、不思議に思っているけれど、祖母も両親も、不思議そう鼻をひくひくさせるだけだったので、史香にだけ感じられるものの様だった。
この場所の、自分を特別扱いしてくれている様な、そんなところも史香は気に入っている。
玄関へ辿り着くと、木の格子のついた引き戸の脇にある小さな呼び鈴を押した。
「はあい」と、家の中から声がする。
一人暮らしをしている祖母の為に、細々としたお世話を頼んでいる家政婦さんの声だ。
祖母はまだまだ元気だが、去年の春先―――ちょうど今頃だ――に、何も無いところで躓いて腕を骨折してしまった。
気丈な祖母は、怪我の事を隠して史香の両親に連絡しなかった。
運良く春休みに史香が遊びに行って怪我を発見しなかったら、数ヶ月不便な生活を送る事になっただろう。
祖母の家から遠くで暮らす史香と史香の両親は、骨折で済んで良かった、もしももっと深刻な病気ですぐに見つけてあげられなかったら……と、ゾッとしたものだ。
そういう訳で、
「まだまだ元気なのに!」
と、突っぱねる祖母を説き伏せて、週に数回家政婦さんを派遣する事になったのだった。
最初は嫌がっていた祖母だったけれど、いざ家政婦さんがやって来ると文句一つ言わなくなった。
幸いにも家政婦さんを気に入った様子で、史香の両親はホッとしていた。
今回、史香はその家政婦さんと初対面だった。両親も手配だけして会った事がなかったので、どんな方か後で教えてねと言われている。
史香も祖母が気に入った家政婦さんはどんな人だか興味があったので緊張していたのだが、声を聞いて更に緊張してしまった。
声は、若い男性の声だった。
(え、男の人なんだ)
今時男性が家政婦をしていても珍しくないのかもしれないけれど、やっぱりちょっと背筋が伸びた。
史香は、今年の春高校生になる初心な乙女なのだ。
ガラガラ、と玄関の扉が開く。
扉を開けてくれたのは、本当に若い男性で、しかも青年というよりかは少年といった方が近かった。
どう見ても史香と同じか、少し上くらいにしか見えない。
そして、それよりも史香が驚いたのは、彼の目を見張るほどの良い見た目だ。
美少年、というには少しだけ愛嬌がある。でも、そこが魅力的な男の子だった。
優しげな王子様みたいに、彼が笑った。
「史香さんですね。お待ちしていました」
髪とお揃いの濃い焦げ茶色の大きな目が、にっこりと史香に笑いかけた。
史香は我に返って慌ててペコリとお辞儀をした。
「あ、はい。初めまして!」
「はい、初めまして~。ボク、こちらで家政婦のバイトをさせていただいている信楽拍臣です。これから、よろしくお願いしますね!」
快活にそう挨拶した彼の背後に伸びる、長い廊下の先の居間から、史香の祖母がひょいと顔を出した。
「ふーちゃん、よく来たねぇ」
史香の祖母は、いつも史香を「ふーちゃん」と呼ぶ。
それにしても、もの凄くご機嫌の声だ。こちらへ覗かせている顔も、にっこにこだった。
史香は、祖母が嫌がっていた家政婦をすぐに受け入れた理由をすぐに察した。
そして、これからは史香が一緒に暮らすから、家政婦さんはもう必要ないね、と、話をした時、「史香にはのびのびと高校生活を過ごして欲しいから」と、家政婦さんの契約継続を主張した理由も。
(おばあちゃんったら! イケメンに弱いんだから!!)
「ふーちゃんっていうんですか。可愛いですね」
広々とした土間で靴を脱いでいると、拍臣と名乗った家政婦の少年が人なつっこく笑って言った。
史香はちょっと赤面する。異性で史香を「ふーちゃん」と呼ぶのは、父親くらいだったからだ。
「いえあの、史香と言います……」
「あはは、ようく知っていますよ。さぁ長旅で疲れたでしょ? お菓子をお出ししますから、居間でくつろいでいてくださいね!」
そう言うと、拍臣は日向の様に笑って台所の方へ歩いて行った。
何となく犬が嬉しそうに歩く足取りに見えて、和む。
癒やし系だぁ、と、史香は思わず頬を緩めた後、キュッと眉を上げて祖母の待つ居間へと早足で向かった。
*
居間へ行くと、ふっくらした紫色の座布団の上で祖母が微笑んでいた。
明るい萌葱色のカーディガンを羽織っていて、どことなく若作りしている様子がうかがえる。
史香は頬を膨らませて見せた。
「家政婦さん、若い男の人だったんだ」
「うふ、そうなのよぉ。格好いいでしょ」
祖母は少女の様に両手の先を唇に当ててクスクス笑っていて、まるで悪びれる様子がなかった。
「……うん、アイドルみたいだね……って、そうじゃなくて!」
「なによぉ」
「あの人にご飯の準備はともかく、お掃除やお洗濯をしてもらうの?」
「そうよ。ハック~のお料理はとっても美味しいし、家中ピカピカ、お洗濯はふっかふかなのよ」
(ハック~?)
(ハック~って何?)
史香は、頬をつやつやさせる祖母にポカンとして、慌てて気を取り直す。
「そ、そうじゃなくて、これから私も一緒に住むんだよ? 同じ年くらいの男の子に身の回りのお世話してもらうのは、その……ちょっと恥ずかしいよ」
史香の中で、家政婦さんと言えば年配の女性のイメージだった。
しかも、優しく微笑んでいるお母さんみたいな女性だ。
だから家事に関しては、通ってもらっている週三日の内は、ちょっとだけ甘えさせてもらおうと期待していたのに。
男性が家政婦をするなとは決して言わないけれど、せめてもっと年上でいて欲しい。
いや、やっぱり女子高生の史香には、男性というだけでハードルが高い。
自分の部屋は絶対に見せられないし、洗濯物なんてもってのほかだ。
彼が自分の下着を干している想像をしてしまい、史香は艶のある座卓に突っ伏した。どっしりした脚に、菊の彫り物がしてある立派な座卓は、嘆く史香をしっかりと受け止めてくれた。
「むり」
想像だけで真っ赤になっている史香に、祖母は吞気に声を上げて笑う。
「だーいじょうぶよぅ。ハック~はお仕事なんだし、気にしないわよぉ。ほら、お医者さんに胸の音聴いてもらう時に、上着をまくるのは恥ずかしくないでしょ?」
「う~ん、イヤ、恥ずかしいよ。恥ずかしいけど、しょうがないから我慢してるの」
「んまぁ~、ふーちゃん……なんて奥ゆかしいのかしら。胸がキュッてなるわ。流石、私の孫ねぇ」
「おばあちゃん、ちゃんと聞いてよ」
史香が顔を上げた時、ちょうど祖母の後ろにある障子が開いた。
なんだか草の青い匂いを漂わせる湯飲みと器を盆に乗せ、拍臣が
「お待たせしました」
と、笑顔で現れたので、史香は口を噤む。
本人の前で「男だからイヤ」と言える程、史香は無神経ではなかった。
(でも、聞こえちゃっていたらどうしよう)
恐る恐る彼の顔を見ると目が合って、ニッコリ笑いかけられた。
(良かった。聞かれてなさそう)
史香はホッとして、拍臣へ緩く愛想笑いを返した。
拍臣は微笑んだまま、座卓の脇に盆を置き、「あ」と声を上げた。
「奥様、そろそろ俳句の会の時間じゃないですか?」
「あらあら、そうだったわ。ふーちゃん、おばあちゃんはこれからちょっとお出かけしてくるわ」
ポンと両手を合わせて、祖母はいそいそと座布団から立ち上がる。
史香も慌てて腰を浮かせた。
「え!? おばあちゃん出かけちゃうの!?」
「ええ。俳句の会へ行かなくちゃ。出かける前にふーちゃんをお迎え出来て良かったわ。お夕飯までにはもどるから。それまでハック~がいてくれるから、分からない事は教えてもらってちょうだいね」
「そ、そんなちょっと待ってよ」
「じゃ、仲良くね!」
史香の縋る声に、祖母は元気よく手を振って廊下へ続く襖をスンッと閉めてしまった。