史香、『金毛白面九尾乃狐』を怪しむの編
史香が悔恨に沈んだ夜の翌朝。
祖母がこれ以上無いほど沈んだ顔をしていた。
いつもハック~の来る日には、朝ご飯の前から綺麗な色の服を着ていたのに、今朝は寝間着姿だ。
「どうしたのおばあちゃん、体調が悪いの?」
「ああ……おはようふーちゃん。あのね、ハック~から、しばらくお休みするって連絡があったの」
「え!? どうしたんだろ」
「お身内の方の体調が悪いらしいわ。電話の声も元気が無くって……心配だわ」
お身内の方、と、聞いて史香は「きっと白菊様だ」と思った。
(白菊様に何かあったんだ)
祖母以上に心配して過ごしたその日の夕、史香が学校から帰るとハクがいた。
いつもの様に、史香の部屋の縁側にお座りをして、彼は史香を待っていた。
「ハク! お身内の方の調子が悪いって……白菊様の事でしょ? 大丈夫?」
『おー、まぁ大丈夫じゃけぇ、史香は気にすんな』
「気にするよぉ。なんか毛並みが悪いよハク。ブラッシングしてあげるからおいでよ」
史香は犬用ブラシを取り出し、ハクを誘った。
ハクは「いいねぇ」と言って、ヨボヨボ近づいて来て、史香の膝に乗る。
くたりとしているので、史香は殊更優しくブラッシングしてあげた。
いつも艶々フワフワの毛が、しゅんとして汚れ、ところどころ縮れてしまっている。
「本当にどうしたの……」
『史香はしつこいなぁ。白菊様がなんぞ荒れちょってな』
「殺生石のせい?」
『それもあろうが、白菊様には命を削られる呪いが掛けられておってな。それもあって、白菊様はああなんじゃ……』
「ああ」とはきっと、史香が初めて見た白菊様の事を指しているのだろう。
史香が出遭った白菊様は、理性が薄いような気がした。
それでも恐ろしい殺生石を鎮めているというのだから、白菊様の命は瀬戸際を踏ん張っているのだろう。
あのおぞましい笑い声を思い出して、史香は震えた。
『どうもあやかしの書の中に、呪いを掛けたヤツの書があるようなんじゃ』
ボクはそれをずっと探しちょる。
ハクはそう言って、ふう、と長い息を吐いた。
『白菊様を呪う穢れの書は、どこにあるんじゃろ』
「九尾の狐の書は?」
ハクの返事は短かった。
『何度も読んだ。違う』
「でも、一番怪しくない?」
『うむ。ほんだけど違う。ほんまに何度も調べたき。全ての書をもう何百年と読み返しちょるが、見つけられん……拍転子様ともあろうボクが。悔しいのぅ』
『……隠れているんじゃない?」
『ん?』
史香は思わず口にして、ハッとした。
「そう、そうだよハク!! その『穢れの書』は、呪いを掛けているのを隠して嘘を吐いてる!!」
『フー、書は嘘を吐けん。知っとるじゃろ』
「でも……もの凄く力の強いあやかしなら……そういう掟破りみたいな事が出来るあやかしが……」
『もしそんなとんでもねぇヤツが化かしとったとして、そんな強力な術をどうやって見破るんじゃ?』
ええ、ええ。と、ハクは笑った。
『参考にさせてもらうき。あんがとな。余計な心配させて悪かったわ』
「ハク……力になりたいよ」
『やめぃや。惚れちゃいそう』
ハクが「ケケケッ」と笑う。
史香はムッとした。心配しているのに、ふざけるなんて。
「ふざけないでよ」
『ごめんねぇ。けど、気持ちだけで十分だけぇ。もしもさ、』
「うん?」
『もしも、ボクが長い事戻らんかったら、筆を弓弦にやりぃ』
「え? どういう事?」
史香は驚き不安になって、ハクの顔を覗き込んだ。
『弓弦に筆をやって、筆と縁を切るんじゃ』
「そうじゃなくて、どうして戻らないみたいな事言うの? だってだって、お勤めは!?」
『勤勉なやっちゃな。そうなったらお役御免だけぇ、願ったり叶ったりじゃろ?』
史香は首を振る。あんなに嫌だったのに、今は自分の力を使いたい。
どうして写本をやるのか分からない。分からないけれど、この為の力だと、喜びを感じられるから好きだ。史香だから出来ることだと。
それに、一匹でも多くのあやかし達の一生を見届けたい。「うんうん、そうだったんだね」って。自分がいつか、そうしてもらいたいみたいに。
でも、それよりも。
「そうかもだけど、戻らないなんて言わないでよ」
『もしも話だけぇ、泣かんといてぇ。つけ込まれるけぇ、フーは泣き虫を直さんとアカンよ』
「……泣いてないよ。私、ハクが留守の間『穢れの書』を探す」
『おうおう、勇ましいのぅ、頼もしいこっちゃ……』
「ふん、戻ってきた時に腰を抜かしても知らないんだから」
口調とは裏腹に、史香は優しくハクの毛皮を撫でた。
ハクは気持ちよさそうに目を細めていたけれど、ピクリと丸い耳を動かして顔を上げた。
『雨が降るけん、もう行くわ』
「……うん。ねぇハク、ぎゅってさせて」
ハクの毛皮を抱きしめて、無事を祈りたかった。
ハクは『はぁ?』と言いながらも、史香の膝に後ろ足だけで立って、前足を史香の肩に置いた。
史香はハクのモフモフの毛並みに顔をうずめ、胴体をぎゅっと抱きしめた。
「いってらっしゃい、ハク」
「ありがと。いつまでも元気でな、ふーちゃん』
なんでそういう事いうかなぁ、と思い、史香はハクを見上げた。そう、ハクの顔は史香よりも上の方にあった。
ハクは拍臣姿になって、史香を抱きしめていた。
「ちょっとぉ、なんでこういう事するかなぁ……」
「絵面がいいけぇ、ケケケッ。じゃあな!」
真っ赤な顔の史香を一笑いして、ハクは再びポンとタヌキになると、ぴょんと縁側から庭へ駆け下りた。
史香が雑木林の方へ駆ける彼の後ろ姿を見守っていると、ハクは脚を止め振り返った。
『洗濯物しまったか?」
史香はクスリと笑って、答えた。
「しまったよ。ありがとう」
ハクの言うとおり、雨がしとしと降り出した。
史香はしばらくの間、縁側で庭に降る雨を眺め続けた。
それからハクは、梅雨の終わりになっても姿を現さなかった。
*
穢れの書、どこにあるの?
史香はハクが戻らない間、色々な書を写本しまくった。
けれどそれらしい書は見つからない。
そもそも、ほとんどのあやかしは、白菊様と縁がなかった。
「やっぱり、玉藻が怪しいよ」
史香は恐る恐る『九尾の狐の書』を紐解く事にした。
ちゃぶ台に巻物を置き、じっと見つめる。
「うう……また押し入れから手が伸びてきたら……」
怖い。
けれど、白菊様を救えば、きっとまたハクが戻ってくるだろう。
戻らないハクが心配で、あの神社のあった小さな空き地へ何度も足を運んだけれど、鳥居は現れてくれなかった。
史香は、最期に見たハクの後ろ姿を思い出し、勇気を奮う。
息を吸い、巻物の紐に手をかけ、解く。
すると、巻物は自ら転がって、史香へ身を開いていった。
―――はようしてたも。
―――はよう、はよう。
「……なによ」
史香は筆に墨を浸す。
「やっぱりアンタなの? 覚悟しなさい」
我こそは拍転子狸に泡を吹かせた志乃の孫、銀狐弓弦をたぶらかした希里子の娘、写本師の史香様なんだからね。私だって、これからなんか……なんかすごい事するんだから!