拍転子、子犬扱いされるの編
銀色の美しいキツネが、しゃなりしゃなりと近寄ってくる。
しゃなりと歩を進める度、しなやかな毛が史香のモフモフ欲を誘った。
「弓弦さん……?」
『そうだよ。史香ちゃん……うふふ』
キツネ姿の弓弦が、史香の腰にするりと美しい毛皮を擦りつける。
モフモフだ……。
『史香ちゃん、失礼を言ってごめんね。許して』
弓弦も史香の膝にスラリとした前足を掛け、史香の頬をお面越しに鼻で突く。
『フー、堪忍や~』
ハクも史香の耳元で『くうん』と鼻を鳴らす。
「うう……や、止めて……」
『史香ぁ~』
『ふふ、史香ちゃーん』
あっちもモフモフ、こっちもモフモフ。
モフモフ天国に堪えられず、史香は「わかったから!」と、降参する。
二匹のモフモフは、辛抱堪らなくなった史香にワシワシ撫でられながら、コッソリとほくそ笑んだ。
*
モフモフに免じて二匹の無礼を許した史香は、『金毛白面九尾乃狐』の巻物を写本すると宣言した。
「やめときぃて」
史香が写本に気持ちを転じた途端、拍臣姿に戻ったハクは巻物を背に隠した。
「だって、知ってないと嘆かわしいキツネなんでしょ?」
「もちろん」
弓弦が頷いた。
「おい、未熟者を煽るな」
「未熟者じゃないもん」
史香はハクへ、ずいっと手を差し出した。よこしなさい。
「しょうがねぇなぁ。ま、やってみろ」
結局ハクは折れて、史香に巻物を手渡した。
「やる」と決めてから手にした巻物は、さっき弓弦から手渡された時よりもズシリと重かった。
巻物を抑えている房の付いた紐を解くと、一瞬だけ何かがふわりと史香の手を撫でたので、史香は思わず手を引っ込める。
「ひゃっ」
その感触は、先ほどハクや弓弦が史香に味わわせた毛皮の感触と同じだった。
「ご挨拶されたみたいだね」
弓弦が身を乗り出して目を輝かせている。
「ご、ご挨拶って……」
「本体では無い、ただ記されたものだけでそういう事が出来る大妖怪だけん、ほんまきぃつけぇよ」
史香はゾッとして、巻物を解くのを躊躇した。
やっぱり止める、とは言い辛い。
だって、もうハクも弓弦も興味津々で史香を見守っている。
「な、なにかあったら……」
「すぐ助けるけぇ」
「私もお力添えさせてもうよ」
中々頼もしい返事がそれぞれ返って来たので、史香は覚悟を決めた。
(えーい!)
*
『金毛白面九尾乃狐』
久壽元年仙洞一人化女出来レリ。
後ニハ玉藻ノ御方ト號ス。
天下無雙ノ美人也。
(わあ……)
史香は息を飲んだ。
桜の木の下に見た事のない美しい人が佇んでいる。
滑らかな白肌と滴る様な赤い唇に、大きな切れ長の瞳。ほんのり朱のさした目尻は艶めいている。
彼女の肌に落ちて触れる桜の花びらは、ひらひらと幸せそうだ。
桜を愛でているのか、彼女が上を見上げたまま微笑むと、長い睫が春の風にそよぐ。
落ちてくる花びらを見上げる横顔は凜とした印象を受ける。
しかし、その輪郭の柔らかさと細さに、保護欲が沸く。
この女性を、なんとしても守りたいと願ってしまう。
(なんて綺麗な人だろう……誰にも触れさせたくない。誰にも穢されたくない)
彼女は賢くもあった。
誰も彼も、彼女に及ばない。
彼女はたちまち高貴なお方の寵愛を受ける事となっていく。
(ああ、鳥羽上皇……羨ましい……この人にあんなコト、こんなコト……って、ひゃあー)
一糸纏わぬ白い肌と曲線に這う、愛欲。征服欲。劣情と、崇拝。
赤い唇から漏れる吐息は悦び湿った歌声のよう。
反り返る裸の背に潜む、妖艶な余裕。
揺さぶり、揺さぶられ、むしゃぶりついて貪って――――
ああ、愉しいわぁ。
*
史香は真っ赤になって巻物から顔を上げた。
ハクはニヤニヤし、弓弦は困ったように微笑んでいる。
「フーには早いってゆーたろ」
「そういう意味だったの……」
お面があって良かった。
こんな熱くなった顔を、弓弦に見られるのは恥ずかしい。
「この程度で筆を止めとったら、この女狐は書き切れんぞ」
「だって、ああいうの初めて見たんだもん……」
「大丈夫だよ史香ちゃん。なんなら描写に慣れる為に、私が体験させてあげようか」
史香が写した濃厚なラブシーンの綴りをじっくり見ながら、弓弦が流し目を史香におくる。
史香はひっくり返って泡を吹きそうだった。
(ユヅルさんが私に!? あんなコトやこんなコトを……!?)
「死んでしまいそうなのでいいです……」
「やだなぁ、そんなに激しくないから安心して」
「止めろ止めろ、写本師になったばかりなのに、孕まされてお役御免になられたらかなわん」
そんなコトになったら、また子供が育つのを待たなくてはならない。
「そんなこと」と、弓弦が笑う。
「キツネの子を産めば、長寿だからずっとその子にやらせられるのでは? 妖力もあるから、人より適任だと思うけど(そうしたら筆は私の子のものとなるし)」
「ユヅルさん、心の声漏れてるよ!?」
「なるほ……ど? なら、タヌキの子でもいいやんけ」
名案! という顔をして、ハクが膝を打つ。
「私の意志は……?」
身の危険を感じて史香が身構えると、ハクと弓弦が史香を見てニヤッと笑った。
*
二匹の悪い冗談に、史香は激怒していた。
「からかっただけやん。出てきぃ」
「ごめんね史香ちゃん、こういうコトはもっと段階を踏むべきだったよ。出ておいで」
「おまえ、ややこしくすんなや」
史香は押し入れに立てこもり、暗闇で二匹の声を聞いていた。
ガタガタ、と襖を開けられそうになって必死で抵抗する。
「冗談って言われたって、こっちは冗談に取れないの!」
「頭かてぇなぁ」
「そういう問題じゃないよ! ハク達だって、自分より強いヤツが不本意なコトしようと企んでたら怖いでしょ? 後から冗談って言われて『そうですか』って言える? そういうからかい方って、もう今の時代じゃ流行ってないんだよ!!」
「分かった分かった。悪かったけん」
全然反省味の足りない返事をして、ハクは押し入れの襖を開けようとする。
そうはいくもんか。頑張って襖を押さえる史香に、ハクが脅してきた。
「開けぃて。お前の後ろに女キツネがくっついとるぞ、なんかされても知らんぞ~」
「ふ、ふん。子供じゃあるまいし、そんな脅し――」
史香が強がったその時だった。
―――白菊なのかぇ?
女性のしっとりと美しい声が、押し入れの暗がりで聴こえた。
「え?」
思わず問い返すと、押し入れの奥の、濃い暗闇から白い腕が伸びてきた。
史香は叫び声を上げた。襖を開けようとするけれど、襖はビクとも動かない。
白い腕は人ではあり得ない程伸びて、史香の身体に絡みついた。
「キャー!? ハク! ハク!! 開けて! 助けて!」
「やっちょるやっちょる、慌てんな」
あんなにビクともしなかった襖が、スパンと音を立てて開いた。
『それなるは太三郎狸様に遣わされとぅ写本師じゃ、用があるっちゅーなら代理保護の拍転子がお相手すんけぇ覚悟せぃ!!』
タヌキ姿のハクがヒュッと飛び込んで来て、史香に絡みついた腕に噛みついた。
すると、たちどころに白い腕は史香を解放し、消えてしまった。
途端、
―――ワハハハハ。
身の毛のよだつ不気味な笑い声が、押し入れの中でワンワン響く。
史香は全身に鳥肌をたてて耳を塞いだ。
(この笑い声! あの神社のお堂から聞こえてきた声だ!!)
くるんと史香の膝に着地したハクは、四肢をギュッと踏ん張って闇の方を睨んでいる。
押し入れの中が急にシンと静まりかえった。
(助かった?)
しかし、ハクは闇を見つめ、緊張を解いていない様子だ。
肩にそっと手を置かれ、史香は「ひっ」と声を漏らした。
しかし、それは弓弦の手だった。
「史香ちゃん、こっち」
弓弦はそういって、史香を押し入れから外へと引っ張り出す。
途端、闇から無数の白い腕が、史香めがけて飛び出してきた。
弓弦は間一髪で史香を押し入れから引き出し、サッと襖を閉めてしまった。
「え!? ハ、ハク!!」
「大丈夫、大丈夫」
押し入れの中から、ハクの激しい唸り声とドタンドタンと暴れる音がする。それから、女の「ほほほほ」という、余裕のある笑い声も。
史香は恐ろしさに立ち上がれず、両手で口を覆い、閉じられた押し入れを見守った。
何かを引き千切る音や、ビタンと壁にぶつかる音が、史香を心底震えさせた。
「ハク……!!」
「拍転子は強いあやかしタヌキだから、大丈夫だよ」
震えて泣き出した史香の背を、弓弦が優しく撫でてくれたけれど、ちっとも慰めにならない。
しばらくして、押し入れの中でハクが『二度と来んな!』と威勢良く吠えたので、史香はパッと顔を上げた。
「ハク!」
静かになった押し入れに呼びかけると、襖の向こうから『ヴヴヴヴ……』と唸り声。
『クソ、クソ!』
「苦しいの? 怪我したの!?」
史香が急いで襖を開けると、ハクはひっくり返って四肢をジタバタし、まだ何かと格闘していた。
『取れん……取れん!』と、呻いている。
「何かされたの? 大丈夫?」
『ぐぬぅ~!』
急いで押し入れに潜り込んで、ハクを覗き見る。
「え……どうしたの、それ?」
「うるせぇ、こっち見んな!!」
ハクは、赤い大きなリボンを首に巻かれてプンプンに怒っていた。
「あの女狐め!」
赤い大きなリボンを首に着けられ、プンプン怒るハクを宥めて、史香は「可愛い」しか思い浮かばす、思ったままを口にした。
「ハクぅ! 可愛い。可愛いよ』
『ボクは愛玩動物じゃねぇけぇ!!』
首をフルフル振ると、首回りのたっぷりした毛皮がぶぉんぶぉんと揺れて、もうなんていうかモフモフだ。
こんなに可愛いのに、どうしてタヌキは愛玩動物じゃないんだろう?
史香はそう思いながらハクを撫でた。
(無事で良かった)
「ハク、助けてくれてありがとう」
『ええけん、はよう解いて』
「どうしてこうなったの?」
『九尾の書は、紐解くと出てくるんよ。おまけに、ボクを「子犬の様じゃ」とからかってきよるんじゃ。まったく! 腹立つ!!』
ハクは史香にリボンを解いて貰うと、濡れた毛を渇かす時の様に毛をブルブル震わせた。
史香は九尾の書の巻物を見て、顔をしかめた。
「もうあれは写本しない」
『それがええ。ろくな事にならんけぇ』
ハクは、史香の手にした赤いリボンの匂いをクンクン嗅いで、フンッと鼻を鳴らす。
弓弦がちょっと興奮気味に史香に――というよりかはリボンに近づいた。
「そのリボン、もし良かったら譲って貰えないかな」
「え、ええ……」
「金弓様の落としたリボンなんて、最高の珍品ですから」
(夜中に首を絞めてきたりしないのかな)
史香の心配をよそに、弓弦はホクホク顔だ。
出会ったばかりの時は物静かでクールな印象を受けた美青年だったけれど、割と感情豊かに欲望を丸出しするキツネだった。
「あれ、待って。カナユミ様って? 九尾のキツネは玉藻と呼ばれていたよ」
「その名はとても有名だけど、人からもらった名なのだよ。長く生きると、名前が幾つか必要なんだ。拍転子だって、私たちが知っている分で四つあるでしょう? 史香ちゃんだって」
「……そう言われれば、そうなのかなぁ?」
弓弦は弓弦の他に、幾つ名前を持っているのだろう。
史香は彼の言葉に頷いて、リボンを差し出した。
弓弦は「おお」とか「ほうほう」と言って、目を輝かせてリボンの珍しさを堪能している。
『フン、変なやっちゃ』
ハクがうーんと伸びをして言った。
「ハクは玉藻と会った事があるの? 見知っているみたいだったけど」
『実物じゃないけぇ、会おうたとは言わんかも知れんが、さっきみたいに会うとるよ」
その度に子犬扱いされるらしい。
助けに来た時の口上は、彼なりのセオリーなんだろう。
「そうなんだ。……あのさ、私に『白菊かぇ?』って聞いてきたの」
『白菊様の筆の匂いがするんだろ。お二方は友人だったけぇ』
「ええ!?」
『じゃなけりゃ~、そこのキツネ野郎とも、今頃噛み殺し合ってるぜ』
どうやら、白菊様と玉藻の友情がタヌキとキツネの仲を取り持っているらしい。
「いやいや、物騒だなぁ拍転子は。私らキツネはそんなの無くても、タヌキへの対応は変わらないよ。昔から友好的だったじゃないか」
『よくゆーちぃ……』
二匹は再びギスギスした空気を出し始めたけれど、史香から見ると楽しそうに見える。
(普通に気が合ってると思うんだけどな……)
微笑んでいると、史香のお腹がぐう~と鳴った。
時計を見れば、もう昼の十二時を回っていた。
「よし、飯にするか!」
ハクが前足をポンと叩いた。




