史香、『くちなわとネズミの書』を写すの編
ハクの選んでくれたあやかし蛇の書は、巻物だった。
「てんてんの書」の紙よりも、とても古い。
因みに、「てんてんの書」は史香が勝手に名付けただけで、ハクは「白毛玉」と呼ぶ。
書は好きに呼んで良いみたいだった。
「しばらく写されなかったヤツだけぇ、ボロいんだ。白毛玉はお手本だきぃ、さっきのは希里子が書いたヤツ」
「お母さんが……」
もっと良く味わって見れば良かった。と、史香は後悔した。
この能力は寸分違わず文字を写すから、筆跡などはないのだけれど。
母や祖母はどうやってあやかしの書を選んだのかな。
知りたかったけれど、また目眩がしそうな答えが返って来たらイヤなので尋ねない事にする。
史香は、ハクからぞんざいに差し出されたボロボロの巻物を、そっと両手で受け取った。
「巻物は、見るのも触るのも初めて」
「左に転がしていけばいい」
「はい。わ、これ漢文!?」
「万葉仮名だき、そんなむずいのでないよ。それにフーには関係ないだろ?」
「あ、そうだった」
史香は文字ならなんでもイケる。
ホッとして巻物を紐解き、墨に筆を浸した。
*
加礼也未仁
比止未幾乃久知奈和安利天
太飛太飛左止部於利
安波礼
於飛也加寸……
……蛇は、住処の枯れた山に辟易していた。
里の者を脅かすのにも飽きて、枯れ山の小さな動物相手に弱い者いじめばかりしては、楽しんでいた。
しかし、蛇の気はちっとも晴れない。
ぐねぐねと腹を見せて悪巧みをする蛇を観て、史香は眉を寄せる。
当然の事ながら、蛇は史香に観られている事に気づかずにいる。
もしも、もしもこちらに気がついたら……史香はゴクリと喉を鳴らす。
ただ蛇だというだけでも怖いのに、史香の観ている蛇は彼女の三倍はありそうな大蛇だった。
史香は、背中に冷や汗が伝うのを感じて集中した。
先ほどの「てんてんの書」と、臨場感が全然違う。
(なにこれ、さっきは絵本を見ている様な感覚だったけど――これは、まるで)
大蛇がシューッと音を立てて、史香の真横をうねり、通り過ぎていく。
その際、大蛇の腹で枯れ葉が磨り潰される音はもちろん、その渇いた香りまで感じられた。
「こわい!!」
史香は巻物から顔を上げてハクに訴えた。
「喰われんけん、へーきよ」
「でもでも、音や風や匂いまで感じるよ!?」
「あのなぁ。あやかしの書だけん、あたりまえじゃ」
「でも『てんてんの書』は……」
「ほらほら、書きぃや」
ぐいっとハクに頭を押さえつけられ、強制的に巻物と向き合わされた。
「ほれほれ、ご所望のくちなわ譚を楽しみまいよ」
「うう……」
史香は唸ってから、再び筆を運び始める。
(こんなに大きいなんて聞いてないよ! 蛇なんて選ばなきゃよかった!!)
蛇は本当に厭なヤツだった。
意地悪だし、残酷だった。
人々を恐れさせ、山の生き物たちを玩具の様に壊していく。
史香は辟易しながら蛇の悪行を写し取っていった。
早く蛇に制裁を加えたかった。
ハクはそういう書を選んだハズだから。
しかし、蛇にはいつしか友達が出来た。
それは小さくて賢いネズミだった。
ネズミは知恵でもって、蛇に甘言をばらまき懐柔していった。
幾年月が経ち―――
月夜の下で、蛇はとぐろを巻いて眠っている。
その大きな頭の上にちょこんと丸まり、ネズミも眠っていた。
まるで、これ以上安心出来る友達はいないよ、とでも言うように。
蛇はネズミの知恵ある言葉に導かれ、やがて悪さをしなくなっていた。
ふと目の覚めた蛇は、鎌首をもたげネズミの姿を探した。
自分の頭の上ですやすやと眠っている事に気がつくと、蛇は目を細めて「ふふ」と笑った。
こんな風に温かい気持ちで微笑むのは、生まれて初めてで、蛇はちょっとだけ戸惑って月を見上げる。
――ああ、俺は寂しかったのだな。いらだちを世間にぶつけていたのだ。なんて悪い事をしたのだろう。
けれど、と、蛇は再びとぐろの頂上に鎌首を休めた。
――もう悪事は働くまい。友とぬくもりを分かち見上げる月の、なんと美しい事か。
洗われていく気持ち。晴れていく悪意。むくむくと湧き上がる罪悪感。
どれもが。
全てが。
蛇の心を締め付けた。
月は明るく蛇とネズミに光を落としている。
食べるものと食べられるものがそうしている様は、極楽浄土でしか叶わぬ夢の風景の様だ。
―――ああ、ああ、俺は、屑だ。心が変わっても、これまでの行いは消えず、この傲慢に育った身体も元の蛇には戻らない。
蛇は目を閉じる。
明日もきっと、清らかで楽しいのだろう。
―――もう取り返しはきかないというのなら、どうしてこんな夢を見せられているのだろう。
蛇の目の切れ目から、涙が一筋流れ出ていたが、手の無い身ゆえ拭う事は出来なかった。
*
(うう……蛇……。駄目だよぉ、ずっと悪役でいてよぉ!)
史香は気が気じゃない。
だってネズミは、その知恵と勇気を持って、蛇に復讐をしようとしているのだから。
史香は、二匹が知り合った時の文脈から、それを知ってしまっていた。
*
そして、とうとうその日が来た。
蛇は痩せ細っていた。
ネズミとの友情の為、そしてまた、今までの償いの為に、木のウロしか囓らずにいた蛇は衰弱して骨と皮ばかり。
さぁ、蛇の力が衰えるのを、ネズミは虎視眈々と待っていた。
ネズミは山の動物たちをこっそりと集め、蛇を退治する計画を丹念に練っていた。
親兄弟、花嫁までも喰われた恨みを晴らす時が近づいて来たのだ。
しかし、蛇が衰弱しているのを察した人間たちが、動物たちより先に蛇を退治しにやって来てしまった。
蛇は、とある縁起の良い日、油を浴びせられ火矢を放たれた。
炎に包まれた蛇は、のたうち回って川へ行き、身から起こる炎を消そうとした。
しかし、ネズミが岸で立ちはだかった。
このまま進めばネズミを巻き込んでしまう。
しかし、もう数十秒で蛇の身は燃え尽きてしまう。
蛇は身が焦げる苦しみの中迷った。そして、迷う事に恥じて更に苦しんだ。
(ああ……蛇、蛇……もうやめて)
―――進まないのか!
ネズミが蛇に叫んだ。
―――全くお前らしくない。俺を引き倒し火だるまにして、川へ飛び込めばいいじゃないか! 枯れ山の極悪大蛇は何所へ行ったのだ!
ネズミは叫ぶ。
―――こんな風に死ぬな。
俺がお前を殺すのだ。でもその前に、お前が俺を道連れに殺してくれ―――
蛇は微笑んで、燃えさかりながらとぐろを巻いた。
炎は蛇の身を燃やし尽くしてもまだ罰が足りぬとばかりに、骨の髄まで燃料として三日三晩燃え続けた。
蛇は夢うつつだった。
ただただ、お前は死んでくれるなと願っていた。
あくまでも、蛇の一生の書である為、書も筆もここで止まってしまった。
*
その夜、史香は中々寝付けなかった。
ハクが布団に入りたがるのを追い払わなければ良かったとすら思って、寝返りを打つ。
「ネズミは生きたのかな」
一人、ポツンと呟けば涙が零れた。
瞼は既に腫れ上がっていて、明日が休みで良かったと思う。
『蛇とネズミ』の写本が終わった後、史香は入り込み過ぎてしまって泣き崩れ、ハクを狼狽させた。
ストロベリータルトクッキーを懐から貰っても、ちっとも慰められなかった。
涙が止まらず、胸が痛かった。
悪い蛇が倒される所を見たがった自分が、なんとも情けなく感じる。
もちろん、蛇は悪い奴だ。冒頭では、炎で焼かれても足りない程の悪事をたくさんした。
けれど何故だろう。蛇は壮絶な最期を迎えた時、幸せそうに微笑んだ。
悪かったヤツが、幸せそうに死ぬ事が許せない、というわけではない。そんなに心は狭くない。けれど、「可哀相」とも違う。何故か胸がつかえて苦しい。
布団の中で、史香はギュッと丸まった。まるで、とぐろを巻くみたいに。
――――どんなに悪い事をしても、最期に善い事をしたら、ソイツは善い奴になれるのかなぁ。
だとしたら、その機会を持てた蛇の事が、羨ましくって仕方が無い―――。




