史香、美青年と接触するの編
そうこうしている内に、ゴールデンウィークがやって来た。
新年度が始まって初の連休に、生徒たちがウキウキと学校から飛び出していく。
史香も足早にバス停へと向かった。
バス停では、溌剌とした印象を受けるショートカットの女生徒が、史香に気づいて手を振った。
以前、史香を優しくフォローしてくれたあの女生徒だ。
史香は尻尾の代わりに、手を千切れんばかりに振り返した。
「史香ちゃん、お疲れー。やっと連休だねー!」
「お疲れ様。うんうん。ホッとするね」
史香はこの明るい女生徒と、座席を共にする仲にまで進展していた。
彼女は史香と同じ学年で、隣のクラスの生徒だった。
名前を陽奈子という。明るくて温かいこの子にピッタリの名前だな、と、史香は思う。
連休前までに、と、目標としていた連絡先交換もやり遂げた。
これで陽奈子ちゃんと連休中も繋がっていられるぞ、と、史香はホクホクしてバスを降りた。
道向かいの九重堂とやらは、視界に入れないように気をつけている。
あんな魅力的なお兄さんの『なにか』なんて、目に入れたらきっと『なにか』起こってしまうに決まっているからだ。
しかし、史香は逃れられない運命だったみたいだ。
あの美青年――ユヅルといったか――が、祖母の屋敷へ続く細道の前に、すらりと立って史香へ微笑んでいた。
今日も着物を着流しにしている。
(うわ、どうしよう)
でも、お家に帰りたい。
仕方が無いので、俯いて早足で通り過ぎようとすると、呼び止められた。
「こんにちは、史香ちゃん」
何気ない挨拶だったのに、史香の耳が、じんと熱くなった。
彼の声は、涼やかで穏やかで、なんとなく大人の香りがする。
耳元でしっとり囁かれているような、そんな……史香の経験した事のない時に出す声みたいだ。
史香は自分の胸の高鳴りに動揺しつつ、ペコリと頭を下げる。
「……にちわ……」
「あはは、相変わらず恥ずかしがり屋さんなんだね」
「相変わらず」と言われても、彼との思い出など何も持っていない史香は、苦笑いしか出来ない。
しかし、面と向かって「あなた何者ですか?」と聞く勇気も無かった。
「史香ちゃん、君のお婆さまに帯留めを頼まれているんだけど、お任せされたので一緒に店の商品を見繕ってくれないかな」
「え、おばあちゃんが?」
思わず顔を上げて、ユヅルの顔を見てしまった。
間近で見る彼は、遠目で見た時の何倍も素敵だった。
凜々しい細い眉に、切れ長の瞳。目尻は優しそうに下がっているから、鋭い印象はさほど無い。
すっと通った鼻筋に、形の良い薄い唇。少し長めの前髪と襟足がやたらと色っぽい。
はわわわ……と、史香は心の中で動転して、顔を赤らめた。
彼は、そんな史香の心情に全く気づかないのか、史香の問いに微笑んで答えた。
「ええ。俳句の会の発表会で、着物をお召しになられるそうで」
「そういえば、ゴールデンウィークに発表会って言っていたような……」
「私では好みの物をご用意できないかもしれないから、孫の史香ちゃんならって思うのだけど……駄目かな?」
じっと見つめられて、史香は変な汗をかく。
彼の蠱惑的な瞳の魅力は、女子高生には良く効きすぎた。
「……はい」
(ああ、バカバカ! なんでOKしているの!?)
今からでも遅くない。この際お腹が痛いとかなんとか言って、小道に逃げ込もう。
史香が慌てて「やっぱり……」と、断ろうとする前に、ユヅルが嬉しそうに笑った。
「ありがとう、助かるよ史香ちゃん!」
(眩……!?)
拍臣の笑顔も相当だけれど、史香はユヅルの笑顔の方が効いた。
史香は年上のお兄さんに弱いのだ。
それに、ホンワカした拍臣の微笑み(偽りの笑みだったが)よりも、こっちの方が直球で史香に効いた。
「さ、危ないから横断歩道を渡ろうね。こっちだよ、史香ちゃん」
ユヅルは史香の手を壊れ物の様にそっと手に取り、少し離れた横断歩道へと誘った。
(手手手手手手手……!?)
史香は、手汗の事ばかり心配して、彼のお店までどうやって歩いたか分からなかった。
歩きながら失神してしまったのかも知れない。
優しく手を引かれて、ユヅルの店の敷居を跨いでしまったのだった。
ユヅルに手を引かれ、彼のお店へ入ると『骨董品店』と名乗るだけあって古めかしい空気が充満していた。
「わああああ……」
煌びやかな物から錆び付いた物、小さな物から大きな物まで、床や棚中に鎮座している。
史香は物珍しさのあまり、店中をキョロキョロと見渡した。
ユヅルはそんな史香を微笑んで見ている。
「素敵でしょう?」
「は、はい。すみません、キョロキョロしてしまって」
「とんでもない。こうして見られるのが彼らの喜びですから」
『彼ら』とは、骨董品を指しているのだろうか、と、なんとなく史香は察した。
ユヅルがうっとりと商品を見つめていたからだ。
彼は底の浅い箱を店の奥から持ち出してきて、史香に見せてくれた。
箱の底には濃い紺色のビロードが敷かれ、色々な帯留めが綺麗に並んでいる。
骨董品を見る目の無い史香でも、並んでいる物が上等なものだと分かる。
「綺麗」
「さて、どれがいいでしょう?」
「で、でも値段がわかりません」
「お婆さまの言い値の物をお見せしているので、どれを選んでも大丈夫だよ」
そんな買い物の仕方があるんだ、と、史香は安心した。
しかし、自分が決めてしまっていいんだろうか?
迷っていると、ユヅルが箱の中から候補を絞ってくれた。
その時見えた、彼の手の綺麗さ、動きの優雅さに思わず見入る。
「紫の菖蒲柄に黄白色の帯を召されるそうだから、この辺かなと思うのだけれど」
迷い無く選ばれた数点の帯留めは、どれも上品な物ばかりだった。
史香はその中の、一つの花に薄い珊瑚色の蝶が三匹集っているデザインの帯留めを選んだ。
「こ、これで……」
「かしこまりました」
ユヅルは微笑んで、「今包みますので」と再び店の奥へ入って行った。
史香はホッとして息をつく。
(何も起きない……)
少し余裕が出来たのと、好奇心で再び店を見て回る。
すると、古い毛筆を見つけた。
とても古そうなのに筆毛は真っ白な筆だった。
史香は「筆だ」と、その筆に釘付けになった。
(これ、私の筆だ)
何故か強くそう思った。
(私の筆でしょ?)
思わず筆に触れる。否、本当は、触れずにはいられなかった。
指先が触れた瞬間、史香の頭の中で大量の意味をなさない文字がうねった。
「ああ……」
(私のご先祖が白菊様の尾を盗んで作った筆)
善悪がスッカリ抜けてしまって、史香は店の商品としてあるその筆を、とうとう勝手に手に取った。
すると真っ白だった筆毛から、じわりと黒い物が染み出てきた。
「え!?」
我に返っても後の祭りだった。
筆からは、滴る程黒い液体がどんどん染み出てくる。
「墨?」
墨はとうとう滴り落ちて、床を汚し始めてしまった。
*
「で、貰ってきたん?」
ガトーショコラが乗ったお皿を持って、拍臣姿のハクが言った。
ハクは最近、オヤツにガトーショコラとストロベリータルトクッキーばかり作る。
先日弓弦からいただいたお菓子に、史香たちがはしゃいで「洋菓子もたまには食べたいね」などと言っていたのを、聞いていたのかも知れない。
よろしい。ならば一生その糞みたいな塊を食っとれ。
彼はあの日の深夜、コッソリとお菓子缶の中を覗き、「フン!」と鼻を鳴らしたのだった。
さておき、史香はハクの問いに小さく頷いて、差し出された手に弓弦から譲られた筆を乗せた。
「君の物みたいだから、どうぞって……」
まるでドラマで俳優が婚約指輪を渡す時みたいに、片膝ついて筆を差し出してくれた。
「あ、そ」
交換でガトーショコラのお皿を貰えると期待したのに、ハクは史香の手が届かない位置にお皿を持ち上げて、筆の匂いをクンクン嗅いでいる。
「……白菊様の匂いだねぇ」
「墨が勝手にポタポタ垂れたの」
店の床を汚してしまって半泣きで慌てる史香に、帯留めを包んで奥から出てきた弓弦は「大丈夫、気にしないで」と優しく言ってくれた。
史香はその時の事を思い出し、居た堪れなくなる。
ハクは「うん」と頷いて筆の不思議を教えてくれた。
「嘘に反応するからな。写本師が偽りを書に留めぬよう、塗り潰す為だ」
「しゃほんし?」
史香が首を捻ると、ハクが筆の柄で彼女を指した。
「フーのこと。写本する者をボクらは写本師って呼ぶ。なんで盗人一族に役名を与えるんか不思議だが……それよか、なんでソイツが筆を持っていたのか聞いたか?」
「珍しい物をコレクションしているんだって。十七年前に買い取ったって……」
多分、九重堂の骨董商品全てが弓弦のコレクションなのだろう。
「これくしょん」
ハクは「なんと恐れ多い」という顔で、筆を見た。
「でも、墨の枯れない筆だと聞いて買ったのに、墨が一滴も出ないからとても残念だったみたい」
「あー、なるほど。大体わかった」
「十七年前に買い取った」と聞いた時、弓弦は誰からとは言わなかった。
けれど、瞳をいたずらそうに細めていたので、史香が答えに辿り着く事を分かっている様子だった。
勿論、史香は「お母さん、筆売っちゃってる!?」と察して眩暈がした。
尾を盗んだ罰としてお勤めをするのに、その為の筆を売るなんて。
(ハク、凄い怒ってるだろうな)
史香は恐る恐るハクを見る。
しかし、ハクは筆に不備はないか淡々と確認しているだけで、怒っていなさそうだった。
「筆を売っちゃったのに、怒っていないの?」
「うん。貧しい時代の時はザラだったし、どうせ買われた場所から消えるし、こうやって戻ってくるしな」
「そうなんだ……」
史香は心の底から安堵した。
「でも、消える物を現世に留めていたんなら、そいつは間違いなくあやかしやけぇ、気ぃ付けろよ」
「タヌキかな?」
「キツネだな。頭も品もいいが掴めんとこがあるけんね、深く関わらんとき」
「それが……写本するところを見たいって……。駄目かな?」
「なんがそら? 約束したんか?」
思い切り訝しむハクに、史香はしゅんとして頷く。
「だって……タダで貰う訳には」
史香が小さな声でそう言うと、ハクは呆れた顔をした。
「……お人好しやなぁ。写本師に向かんぞ」
「そうなの?」
「ん、向かん向かん。でも買った筆を返してくれたんは感謝しないとなぁ。しゃーないき、明日の夜招こう。今夜は初お勤めだけん、ご遠慮願お」
ハクは知らないもののけと会う事に、抵抗がないみたいだった。
何故なら、彼にはそんじょそこらのもののけなど、尾の先を動かすだけで片付けられる力があるからだ。
さておき、『初お勤め』と聞いて史香は気を引き締めた。
一体何をさせられるのだか、少し不安だったけれど、頑張ってこのおかしな力や環境から離れるのだ。