史香、筆を呼べと言われ苦戦するの編
乗客全員――殆ど同じ学校の生徒達――が、ギョッとして一斉に史香の方を見た。
「あわわ……」
「次降りるの?」
座席に隣り合わせていた女生徒が、立ち尽くす史香にそっと声を掛けてくれた。
史香はハッとして、慌てて頷く。
運良く、次は自分の降りるバス停だ。
その女生徒は「もう少しだね」と微笑んでくれた。
史香はウンウン頷いて、静かに座り直す。
顔を赤くして俯いていると、女生徒が小さな声で話しかけてくれた。
「私も、居眠りしちゃって慌てた事あるよ」
「ああ、うん、へぇ!?」
(お、落ち着け史香!)
「寝ちゃってた事に気づいた後って、ビックリするよね~」
「うん、うんうん」
壊れた玩具みたいに頷いて、女生徒の優しさにジーンとした。
こんな風に何かを共感するの、久しぶりだなと思ったら、余計に。
*
バス停に到着し、バスから降りるとあの女生徒が手を振ってくれた。
史香は小さく手を振り替えした。
名前も知らないのに、それだけでとても嬉しかった。
(同じ一年生かなぁ。明日もバスが一緒になったら声を掛けよう)
頬を緩めてバスを見送った後、史香はふと道向かいへ目を向け眉を寄せる。
(あ……まただ)
史香が幼い頃からずっと空き地だった場所に、なにか古民家風のお店が建っていた。
(ここはずっと空き地だった。今朝もそうだった)
まただ、と、再度思い、古めかしいお店を眺める。
祖母の家とよく似た木格子の引き戸の前に、『骨董質店』と書かれた緋色の暖簾が揺れていた。
あんなお店、朝は無かった。
(また、わけのわからない事が起きた。今度は何?)
史香は警戒し、そのお店の様子を伺うか、それとも足早に立ち去ろうか迷った。
史香の悪いところは、こうして迷って相手に先手を打たせてしまうところだ。
骨董質店の引き戸がさらりと開いた。
(あ……)
店の中から、和装の青年がスッと現れて、出入り口に『営業中』と書かれた立て看板を運び出した。
史香は彼の、身のこなしの滑らかさに見とれた。
青年は背が高くてスタイルがとても良い。
渋い色の着物も良く似合っていて、少し色っぽかった。
目が離せなくなっていると、彼が顔を上げ、道路向かいの史香を見た。
(ああ……)
史香は彼と目が合った途端、息をするのを忘れてしまった。
遠目からでも、彼が美青年だとわかった。
切れ長の瞳が微笑むと、史香も操られた様に釣られて微笑んでしまった。
彼が微笑みながら、ペコリと深くお辞儀をした。
優美な動きなのに、男らしく見えるのはコレ如何に。
史香は慌ててお辞儀を返す。
顔を上げると、美青年はまだこちらを見て微笑んでいた。
これ以上美青年とのコミュニケーションの術を知らない史香は、ぎこちなく彼へ微笑み、ギクシャクと踵を返して帰って行った。
(こんなのってないよ。あんなに素敵なのに……きっとあの素敵な人も、『なにか』なんだ……!!)
家に帰ると、玄関で祖母がソワソワと史香を待っていた。
昨日の事を心配して、史香が無事帰ってくるのを待っていてくれたのだろう。
史香は申し訳なくなった。
「お帰りふーちゃん」
「ただいま。今日は迷子にならずに帰って来たよ!」
戯けて言うと、祖母は温かく微笑んで頷いてくれた。
「うん、お帰りなさい。今日はね、ハック~のオヤツじゃないけれど、とびきりのオヤツがあるのよ」
「え! ほんと?」
「ふふふ。高級洋菓子店『INARI』のガトーショコラ・その他詰め合わせ缶よ!!」
「わーい!?」
『INARI』は、ここから少し離れた高級デパートにある洋菓子店だ。
祖母は、史香の為にわざわざ出かけてくれたのだろうか?
昨日の事があるから?
励まそうと?
史香は洗面所で手を洗いながら、首を捻った。
「ふーちゃん、お紅茶淹れたからはやくう~」
祖母のウキウキの声が呼んでいる。
本当に、美味しいものに目が無い様子だ。(それは史香もだけれど)
史香は手を洗い終えると急いで部屋に戻り、学生鞄を置いて制服から部屋着へと着替えた。
そして、当然の様に座布団の上で寝こけているポン太にビックリした。
「ぎゃ!? ま、まだここにいたの!?」
『ぬぅ……? もう帰ってきたんか』
目をシパシパさせているポン太の前に正座して、史香はたっぷりとした毛皮をムニッと摘まむ。
『いででででで……』
「後でお話があります」
『……こわ……』
「逃げたら駄目だからね、拍臣君!!」
史香はそう凄んで、部屋をドタバタと出て行った。
残されたポン太こと拍転子こと家政婦になりすましていた拍臣は、伸びとあくびをして一人笑う。
『だから「ここで寝ていいか」っつって確認したのになぁ~』
コワイコワイ、と呟いて、彼は再び丸くなる。
彼は史香なんかちっとも怖くないのだった。
*
祖母は首を長くして(文字通り、居間の襖から首を出して)、史香を待っていた。
史香と祖母は、いそいそと座卓に据えられたお洒落な缶の前に座り、しばしその乙女心をくすぐる美しい缶の装飾を楽しんだ。
「綺麗だねぇ」
「可愛いねぇ」
「ささ、開けよう」
「うん!」
促されて、史香は美しい缶の蓋を開ける。
チョコレートの濃厚な甘い香りと、甘酸っぱい果実の香りが部屋中を包んだ。
缶には、これ以上ない美しさで個包装されたガトーショコラとストロベリータルトクッキー、間を埋めるように小花型の小さなクッキーが散りばめられていた。
「わあああああ」
宝箱を開けた二人は目を輝かせ、ほう、とため息をつく。
「……これどうしたの? おばあちゃんデパートへ行ったの?」
うっとりしながら尋ねると、祖母もうっとりした声と表情で答えた。
「頂いたの……九重堂の弓弦さんに……」
「ココノエドウの、ユヅルさん? だあれ? おばあちゃんの知り合い?」
首を捻ると、祖母が驚いた顔をした。
「あらやだふーちゃん、お向かいの九重堂の店主さんよ? 小さな頃から知っているでしょ?」
「……」
そらきた、と、史香は目を瞑る。
安全圏の家にまで不思議案件が尋ねて来ている。挨拶までしてきて……!
(ど、動揺するもんか……)
「あ、ああ~。ゆず、ユヅルさんね。あ、あの人センスいいねぇ!?」
「そうなのよ。いい男だし、優しくてとってもしなやかで……」
祖母はうっとりとそう言って、両腕で自分を抱く。
ハック~はどうした。ハック~は。と、問い詰めてしまいそうだった。
(いやでも、ハック~もアレなんだよね……もう、なんなの!?)
「あは、あははは。おばあちゃんたら。イケメンに弱いなぁ!」
食べよ食べよ、と言って、史香はガトーショコラを手に取った。
個包装を開けると、更にめちゃくちゃ良い匂いがして、ぐう、とお腹が鳴る。
いつもオヤツを手作りしてくれる拍臣を裏切っている気持ちになったが、抗えない。
「……ん、おいひい!」
「んもーんもーっ!!」
「お、おばあちゃん落ち着いて……」
「久しぶりの洋菓子だわぁ」
幸せそうにストロベリータルトクッキーを頬張って、祖母が言った。
「あ、そういえばそうかも。拍臣君、和食と和菓子ばかりだもんね」
「そうそう。私の身体を気遣ってくれての事だし、もうほんっとうに美味しいんだけど、たまには洋食や中華も良いわよね」
「おばあちゃんも、手料理は和食が得意だしね」
「かたじけない……。ふーちゃんは若いし、年寄りに合わせた食事じゃ物足りないでしょ?」
史香は慌てて首を振る。
「全然! おばあちゃんの料理も拍臣君の料理もすごく美味しいから、大満足しているよ!!」
「良い孫!! 今度年金が入ったら焼き肉でも行きましょうか」
「ホント!? やったー!!」
祖母は昔から外食をあまり好まないので、実家に帰る機会がないと外食はお預けかな、と思っていた史香は喜んだ。
「ふふふ、そんなに喜んでくれると嬉しいわ。そうだわ、弓弦さんも誘いましょ」
「え? 誰?」
「弓弦さん」
「あ、ああ~、ユヅルさんね、うん、え!?」
(待って待って、ユヅルさん、おばあちゃんと私とどんな関係なの!?)
「やややや、おばあちゃんと水入らずで行きたいよ~な気がするな」
「でも、せっかく焼き肉に行くのに、ふーちゃんと私じゃそんなに量を食べられないでしょ?」
やっぱり男の人が旺盛に食べる姿が見たいわよ~。と、祖母が微笑む。
「うう、じゃあ、日頃のお礼も兼ねて拍臣君を誘おうよ!?」
(まだ拍臣君の方が……アレ、ポン太だし!!)
「まぁ、ふーちゃん! 私ったら……そうね。弓弦さんにはまた今度お菓子のお礼をして、焼き肉はハック~を誘いましょ!」
祖母は手を叩いて史香に賛成してくれた。
いつにしようかしら?
と、楽しそうな祖母に、やたらとニコニコ笑顔を返し続けて、史香は……すごく疲れたのだった。
*
『お、待ってたぞ』
ポン太が……否、拍臣……どっちで呼べばいいんだ?
取りあえずポン太がお座りの姿勢で片前足を上げ、部屋に戻った史香を迎えた。
史香は無言で彼に近づいて、タヌキ顔を両手でワシッと捕まえた。
『むぎゅ』
「拍臣君なんでしょ? タヌキのフリして一緒に寝るなんて!」
『逆、逆、人間のフリしたタヌキじゃ、拍臣のほーが仮の姿だけぇ』
「あ、そっか……だけど、だけどぉ!!」
『大丈夫大丈夫、可愛い寝顔だったぞふーちゃん……あだだだだ、痛い!』
史香は拍タヌキの顔の毛皮をぎゅーっと伸ばして制裁を加えた。
「もう一緒に寝ないからね!」
『怖いから一緒に寝てと頼んだのは史香じゃないか』
「タヌキだと思ってたの!」
『タヌキだが?』
「ううううううう……っ」
ニィッ、と笑うタヌキ面を、史香は伸ばしたり振ったりして苛立ちをぶつけた。
「変な事ばかり起こる!」
『これしきでバカを言うなよ、タヌキが化けただけじゃないか。さぁ、勉学に励んできたのなら、そろそろお勤めをしてもらおう』
「本当に『お勤め』が終わったら普通の毎日に戻る?」
『ああ。記憶も綺麗に消えるし、今は夢の中だとでも思っていれば案配良いだろ』
史香は一つ息をして、きちんと座り直した。
「分かった。何をすれば良いの? ポン太」
『ボクは名乗ったき、そのような下等な名前で呼ばんで欲しい』
ツンとそっぽを向くポン太に、史香は唇を尖らす。
『そらそら、ボクはなんと名乗ったのだったかぇ? ハ、ク、テ――? んん、どうしたどうした? ほれほれ』
腹の立つタヌキだ。なんか、一矢報いたい。どんぐり丼を出されたのも忘れていない。
けれど史香は意地悪じゃないから、意地悪を思いつけない。
咄嗟に頑張って、なんとか思いついたのが『ちゃんと呼んであげない』だった。
「あ、あんたなんて、ハクで十分」
『なにをぉ?』
牙を剥かれて怯んだものの、史香はグッと身を乗り出した。
「や、ややこしいんだもん。ポン太とか拍臣とか拍転子とか。統一して登場してきなさいよ!」
『現代で名前が拍転子とか浮くじゃろ? 志乃がひょっとした拍子に思い出してまうかも知れんき……』
史香はドキリとハクを見る。
志乃は史香の祖母の名だ。
(そっか。ハクはおばあちゃんとも『お勤め』で関わった事があるんだ)
祖母はハクの事をスッカリ忘れている様子だった。
(覚えていたら、色々教えて貰えたのかなぁ)
「おばあちゃん……おばあちゃんはどんな子だった?」
『扱い辛かったな。優しげなクセしてちっとも言うことを聞かん娘で、ボクを罠で退治しようとしやがったけぇ、往生した』
「ふふふっ、おばあちゃんだおばあちゃんだ!」
史香は若い頃の祖母を思い浮かべてクスクス笑った。
ハクはちょっと苦笑いしてから、フンと鼻を鳴らす。
『ケド、うまいものと優男に弱かったけぇ、なんとかなったわ』
多分、今のような状況を作ったのだろう。
と、いう事は、拍臣の姿はおばあちゃんの好みなのかも知れない。
ちょっと残念な様な、呆れた様な気持ちになる史香だった。
「うう……おばあちゃんだおばあちゃんだ。ね、ね、お母さんは?」
『似たようなもんだな』
「……」
『ほれほれ、始めよう。まず筆探しだ。今、白菊様の筆は隠れている。先代がお勤め後に「なんだこの筆?」っつって思い出したり、失くしてしまったり、誰にも盗まれないようにな』
史香が顔を歪めた。
『めんどくせぇっつー顔をすんな』
「だって……どうやって探すの?」
『この屋敷にいるだろうから、呼べ』
「ど、どうやって? ハクは呼べないの?」
『フーにしか呼べないから、ボクは手も足も出ない』
(フー?)
多分、「ふーちゃん」の「フー」だ。「ハク」と呼ぶ仕返しなのだろう。
(まぁ良いけど……、ペットみたいなニュアンスが気になる。ポン太と呼ばれるのも、こんな感じなのかも)
史香は名前の事は突っ込まずに(どうせまた喧嘩になる)、筆を呼んでみる。
「筆さーん、出てきてくださーい」
『お前……おちょくってんのか? もっと威厳を持て威厳を』
なんか怒られて、史香はしゅんとする。
「呼べ」と言ったから、史香なりに呼んだのに酷い。酷いタヌキだ。
「い、出でよ! 筆!」
史香の努力は空しく、室内では筆が現れるどころか、チリ一つ変わりなく静まり返っている。
ハクはもの凄い渋い顔をして、パタ、と横倒れになった。
『なんかあったら起こしてくれやぁ』
「ちょちょ、寝ないでよぉ! どうしたらいいか分からないよ!」
『全く同じ気持ち』
ハクは薄笑いして「はぁ」と、ため息を吐いた。
見捨てられた感が満載で、史香は涙ぐむ。
それでも、力なく横たわったハクの冷たい目線を感じながら史香は一晩中筆を「呼び」続けたのだった。
数日経っても、筆はちっとも史香の元へ現れてくれなかった。
祖母の屋敷中を物理的に探してみたけれど、「無駄無駄」とバカにするハクの言うとおり見つからない。
「おばあちゃんやお母さんはどうやって筆を『呼んだ』の?」
『志乃はお勤め後、毎回ヨモギ饅頭を作ってやろうと約束したら、即、手に筆を握っていたなぁ」
「……お母さんは?」
『なんか「あいどるぐるーぷ」の「たつや」っちゅーヤツに化けて応援したら即、手に筆を握っていたなぁ』
「……」
『フーも、そういうやる気になるモノがあれば言うがいいぞ』
(おばあちゃん、お母さん……)
少し目眩がして、史香は物置部屋の隅っこで蹲った。
こうこれ以上、祖母と母の過去を聞くのは止めよう。
史香はそう決めて、自分がやる気になるモノを頭の中で探す。
(私も、ハクの作るオヤツは好き。だけど、おばあちゃん程美味しい物への情熱はないなぁ。アイドルも好きだけど……)
「私の望みは静かな毎日と、偽りのない友達」
よし分かった。と、勝手に了承して、ハクが拍臣の姿に、どろんと変化する。
「ほら、ふーちゃん、友達だよ」と言う声が小声なのは、静かな毎日の演出だろうか?
史香はハクを無視して固く目を閉じ、両手を組む。
(静かな普通の毎日と、偽りのない『人間』の友達が欲しいんです。その為には、筆、筆、筆さん、あなたが必要なんです。お勤めを果たさせて)
結構必死で念じ、手に何か現れないか期待したけれど、何も起こらなかった。
ガックリする史香の肩を、拍臣が慰める様にポンと叩いた。
「ま、なんとかなるさ」
「……うん。もうすぐ連休だから、がんばる」
「頑張り所がわからんけどなぁ~。ボクも色々考えるきに」
拍臣がそう言って、ポンポン、と頭を撫でてくれた。




