侵入者 5
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大学を中退してネットカフェ難民になって以来、彼の安住の地はそこしかなかった。
つまりホームレス。
職を転々とする際の履歴書には、現住所を千種区天満通2丁目の『覚王山荘』にしてあるが、そこにはイラン人が住んでいる。同じ大学の留学生だった“マナカ”の日本定着を手助けしたことから、木戸御免の仲になっている。アパート入居の際の保証人にも(随分無謀なことに思われたけど)なっているのだ。マナカは今、地元テレビ局で裏方をしながら映像クリエイターの勉強をしている。
一時期、アイデンティティークライシスに陥っていた正助は、片言の日本語を操り、異国の地で、大地に平伏しながら真摯に生きる中東の青年に救われた。交通事故の後始末など迷惑のかけ通しだった父親を、膵臓ガンで亡くして―母親は彼が七つの時に他界しているから―三人兄弟ともども、大地に投げ出されたような正助に、砂漠の青年が生きる勇気を与えてくれた。荒涼とした不毛の大地と、白熱の太陽のもとでも人は生きてゆける。もっかのところ、忌憚なくものがいえる友達は彼しかいない。
ネットカフェのリクライニングシートで目覚めた正助は―腕時計を見ると八時前、計ったように三時間しか眠れない―まずシャワーを浴びた。
それから無料のココアを飲みながらSNSを始める。他人のブログやツイッターを観る。アカウントを作成しても、そのコミュニティーに参加する気はないけど、孤独は癒される。そこには淋しい人間のつぶやきやコメントがあり、気が紛れた。気になる人のツイッターなどは毎日(何度も)覗いてしまう。
それに飽きると、UBSメモリーをパソコンに差し込んで、ワードを読み出し、書き物を始める。
父親に内緒で、大学を中退した当初はまだ司法試験をあきらめてはいなかった。事故のショックからようやく立ち直り、バイトしながら独学していた。父親の期待を裏切りたくはなかったし、自分にも意地があった。父親も死ぬ間際まで挫折した息子の再起を信じていた。そういう手紙を何度か受け取った。だけどその思いは、ネットカフェをネグラに、食うのが精一杯のバイト生活をしているうち、次第に蝕まれて―司法試験にも二度失敗した―父親の死と共に、ついに空念仏と化した。浪々としたアルバイト生活の空しい言い訳となった。
父親は自慢の優等生の息子がそんな生活をしていようとは思いもよらなかっただろう。ある時、五つ年下の妹が夏休みに遊びに来るといった時にはあわてた。あとでわかったことであるが、父親が様子見によこしたものだった。その時はマナカのアパートで誤魔化し、三ヶ日、名古屋見物をさせて帰した。妹は気安くできないほど成長していた。お父さんが日増しに痩せていくと嘆いていた。
やがて父親が急死し―代々の建具屋を守りながら男手一つで三人の幼子を育ててくれた父親の死は、大いなる悲しみであったが、解放でもあった。ようやく正助は自分の人生を得たような気がした。犀星の“よしやうらぶれて異土の乞食となるとても”の心境だった。高卒で家業の建具屋を手伝いながら父親を看取った弟に、死に目に会わなかった親不孝をなじられたけど―“ふるさとは遠きにありて思ふもの”―正助は葬儀・初七日が済むとさっさとネットカフェ難民の生活に戻った。
実家は弟が継ぎ、寡婦の叔母とで妹の面倒をみることになった。叔母は思春期になった妹の為に、父親が上飯田から呼び寄せたもので、父親が入退院するようになってからはその世話もしていた。弟が嫁をもらうことになったら姑格で居座ることだろう。
いずれにしても実家に正助の居場所はもうなかった。
空念仏さえなくなった正助は、そのかわり、生きている証として、岐阜の片田舎では秀才と謳われた、建具職人自慢の倅の、挫折した生き様を綴り始めている。そうすることでアイデンティティーファイするかのように(ほかに何もする意欲が湧かないのだった)。職を転々とする間に色んな人と出会い、世の中には色んな事情を抱えた人間がいて、その観察だけでも充分足りるのに、なぜか、そういう人間に限って、向こうから関わってくるから、書く材料には困らない。
どういう結末になるかわからないけれど、佐藤夏子のこともいつか書くことになるだろう。今書いているのは居酒屋でバイトしていた頃のこと。その時同僚だった明大卒の男が、同じように、公認会計士の資格を得る為に、バイトしながら勉強していた。年齢は三十九歳、どう見てもパチンコの方が忙しそうだったけど―。
いつまでもこんな生活をしていて良いのだろうか、という思いは常にある。何の目標もなく、気任せにただ生きているだけ。父親の期待に応えたいという焦慮がなくなったのを良いことに、自由気儘な、食べて寝て排泄するだけの、ミミズのような生活。嫌気がさしたらすぐに転職する。息苦しくなったら住む環境を変える。ケッタマシン(自転車)さえあれば、免許証も車も要らない。荷物はリュク一つに収まる。寝床は最寄りのネットカフェだ。
書き物に厭きると―自分のことを書くのは嫌になる。父親のことはもっと気が滅入る。ネット記事を見たり、ユーチューブで、動画を観たり音楽を聴いたりして、六時間パック1650円プラスアルファ―を消化、108円のランチを食べ、無料飲み放題のコーヒーとココアを飲んで、十二時過ぎにネグラから這い出した。