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侵入者 3


     3


 地下鉄の乗降口駐輪場にチャリを停め、佐藤夏子のアルトに乗り込んで、彼女のマンションに向かった。

「いつもここから?」

「うん。普段だと終電にギリ間に合う。間に合わない時はチャリで帰る」

「車は持たないの?」

「五年前に事故って親父から買ってもらったばかりの車をオシャカにしてからは。免許取り消しにもなって。今のとこ、チャリで充分間に合っている」

「そうなんだ」

 実際は居眠り運転で四人の死傷者を出す重大事故を起こして、自動車運転処罰法での過失運転致死傷罪に問われ、禁固100日、執行猶予五年の実刑判決を受けている。免許欠格期間の五年は過ぎたけど、免許取得の気は今のところない。

「あたしなんかこの車の為にバイトを掛け持ちしている」

 実家は福井で、三人姉妹の末っ子、両親は兼業農家、家が裕福ではないので奨学金を受けて専門学校に通っている、生活費その他はバイトで賄っている。というのが、仕事の合間の会話から得た佐藤夏子の個人情報。健気けなげというか、たくましいというか。

「夜昼働いて、その上専門学校も。それじゃあ満足に眠る暇がないのと―睡眠時間は足りてる?」

「大丈夫、何時でも何処でも眠れるから」

 睡眠障害の正助は一晩中眠れない時がある。そのくせ日中に時と場所を選ばず急激に睡魔が襲って来る。

 ―あの時もそうだった。

 ふいに目の前に大きな交差点が現れて、信号が青だったからスピードを上げて突っ切ろうとした、瞬間に、目の前を黒いワンボックスカーが横切ったかと思うと、ド~ン! と、その後部ボディーに激突。その勢いで車は回転しながら尻から歩道の人々をなぎ倒して道路脇の公衆電話ボックスに突っ込んだ。ワンボックスカーは横転。運転手は死亡。同乗の一人と、横断中の歩行者二人が重軽傷を負った。正助は運よく軽傷で済んだ。そのシーンが折に触れ浮かんできては―夢の中でもフラッシュバックされて、余計に睡眠の妨さまたげとなった。

「着いたわ」

 という声がして正助は我に返った。

 アルトは三階建の茶色い建物に囲まれた駐車場で停まった。今流行のワンルームマンションの造り。学生や出張族向きの割安、敷金・礼金なし(その代わり出る時に補修費名目で金を取られる)ってやつだ。コの字型に三棟あり、佐藤夏子は右側の棟の中央階段を上がる。オートロックではないので誰でも部屋の前まで行ける。

 佐藤夏子は三階の一室の前で立ち止まり、強張った顔を向けてきた。正助はうなずく。ポケットから鍵を取り出してドアノブに―その前に正助は手を伸ばしてドアノブを回してみた。鍵は掛かっている。

 玄関ドアを開けて玄関に入り(スモール灯が点灯)、夏子が恐る恐る上がって、部屋の電気のスイッチを入れた。明るくなって、狭い靴脱ぎ場から六、七畳くらいの部屋が見渡せた。見えない部分は右手と左手と正面のカーテンに遮られたベランダ。左側にキッチンと洗面台が垣間見えている。

 正助も靴を脱いでフローリングの床に上がった。

「何処か違和感はない?」

 佐藤夏子は部屋を見回して、「別になさそう」といった。

 そして、「気のせいかも知れないけど、昨夜は、プンとシナモンの匂いがしたような気がした」という。

「シナモン?」

 シナモンといえば古代からの香辛料で聖書なんかによく出てくる、ニッケイの樹皮から作られる、程度の知識はあった。どういう商品に添加されているか、ネットで調べてみようと思う。

「でも匂いって子供の頃の匂いがふいに蘇ったりするから」

「うん、確かに。だけど、いつもニッケイの匂いをさせている男もいたなあ」

 余計なことをいって不安を呷ってしまった。佐藤夏子は正助の腕にしがみついてきた。「怖~い」

 仄かに焼き肉の臭いのする髪と、年頃の娘の芳香と、ゴムまりのような体の感触が、Tシャツ越しに伝わってくる。正助は足元がふらついた。一体どんな家庭でこんな純朴な娘が育てられたのか。二十歳前の娘はみなこんな風なのか。それともやはり自分は人畜無害な男にしか見られていないのか。

 正助は部屋を見回した。家具は少ないけど、ファンシーグッズで飾り立てられた女の子らしい部屋。男子禁制の聖域である。

 しかし妙に既視感のある部屋だった。白い衣装ケースに、木製の机と椅子と、カラーボックスと、小型テレビと、カーペットの上に、折り畳み式テーブル。

 ―そうだ、妹の部屋に似ている。

 妹の部屋にはテレビもテーブルもなかったけど、年頃の女の子の部屋は似たようなものなのか。中学生の妹の部屋でさえ足を踏み入れるのが憚られた。妹も嫌がった。

 まだ隠れた箇所、バス・トイレや、収納や押し入れの中、カーテンに隠されたベランダなどの点検が済んでいないこともあるが、佐藤夏子は正助の閾値いきちを試すかのようにひっついて離れない。

「それじゃあ、点検を始めるよ」

 ようやく夏子は腕に絡みつけた手を解いて、「コーヒーをいれようか。お腹も空いたな」キッチンに向かった。

 キッチンといってもコンロとシンクが並んだ二人と並べば窮屈なほど狭いブース。

 正助はそこを起点に、反時計回りに点検を始めた。

 食器棚の仕切りで隔てられた左側に洗面化粧台があり、その隣が問題のバス・トイレ。

引き戸を開けるのに若干のためらいがあった。トイレの便座が上がっていたら―その光景が頭に浮かんだ―佐藤夏子はもうこの部屋には住めないだろう。

 だが侵入者も二度とそんなヘマはしないだろう。せっかく手に入れた合鍵で、もっと楽しまねばならない。正助は確信をもって戸を開けた。

 果たして、これまた極端に狭いブースの奥に、クラゲの頭のような白い便器が鎮座していた。(そこに侵入者が座っていたら怖いだろうな)正助は薄笑いを浮かべた。

 半開きの、アコーデオンカーテンで隔てられた右手は、ブルーのユニットバス。侵入者はこの風呂にも入ったかも知れない。佐藤夏子の行動を把握していて、深夜零時過ぎにしか帰宅しないことをよいことに。

 正助は警察の鑑識のように、丹念にバス・トイレに侵入者の痕跡・遺留物を探した。バスタオルや、排水口まで調べたが、それらしき物はなかった。トイレで、一つ気にかかるのは、便器の蓋も閉じられていること。普通、蓋は上げたままにしておくだろう。いちいち開け閉めなんて面倒なことはしない。蓋を上げてみた。裏に可愛いクマ顔の臭い消しが貼られてあった。便座カバーは若草色。この件に関してはあとで彼女に訊いてみようと思う。

 次は、部屋の入口を越えた角、縦長の収納の扉を開けた。そこに侵入者が直立姿勢で張り付いておればお笑い種だが、銀色のパイプに着替えの衣装がぶら下がっているだけの、クローゼットだった。

 その隣はありきたりの押し入れ。上下二段あって、上の段に布団毛布などの寝具、下は段ボール箱などが押し込められていた。人が隠れるスペースはあるので、一応探ってみた。

 そこから左に折れて、壁伝いに、可愛い動物のシールが貼られた白い衣装ケース。引き出しが三つあって、これらには肌着や下着類が入っているに違いない。侵入者にはお宝の引き出し。きっと手を付けているはずである。

 机は使い古しの木製の学習机。椅子もそろいのもの。あっちこっちにアニメのシールやワッペンが貼られていたり剥がした跡がある。机付きの本棚には、可愛い狸と猫の貯金箱が並んでおり(もしかしてこれが金目の物か?)、そのほかにも、ヒャッキンで売られているファンシーグッズがいっぱい置かれてあった。机は中学か高校時代のものだろう。正助はわけもなく上の引き出しを開けてみた。筆記用具が入っていた。

 その横の四段のカラーボックスは、専門書に、小説や漫画本、ファッション雑誌などが並んでいる。専門書は介護福祉士関係、佐藤夏子は介護福祉士の国家試験を取る為の専門学校に通っているのだ。

 そして最後が、侵入者がいれば最後の砦となるカーテンに隠されたガラス戸とベランダ。ここは覚悟を持って臨む。佐藤夏子も何やらテーブルに並べながらこっちを見ている。エメラルドグリーンのカーテンは昼間ならガラス戸ごと人影を映し出すだろうが、今は不気味な膨らみを幾つか作っている。

 正助はそれを、妖魔を払うが如くに両側に引き開けた。ガラス戸のクレセント錠は施錠されていた。ホッと息をついて、錠を外して開ける。夜気が流入し、街の夜景と星空が見渡せた。

 ベランダはごくありきたりの殺風景なベランダ。植木鉢が並んでいるでもなく、物干し竿にぶら下がった何も干されていないパラソルハンガーが夜風に揺れている。三階なので下からの侵入は無理。隣との仕切りも問題なかった。

 もうほかに人が隠れる場所はない。一本足の薄型テレビと小型冷蔵庫とキッチンで、ひと回りとなった。

 今テレビにスイッチが入れられて、「どうぞ」と佐藤夏子がテーブルの脇に立っていった。テーブルの上にはコーヒーのマグカップと焼きそばの盛り皿が並べられてあった。


     

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