侵入者 15
15
十日を待たず意外と早くその時は来た。
金曜日の朝六時過ぎに夏子からショートメールが入った。
《侵入者有り!」
正助は例によってネットカフェで目覚め、シャワーを浴びて、コーヒーを飲みながら書き物をしている最中だった。
《何があったの?》
《トイレの便座がまた上がっていた。バイトから帰った時はちゃんとしていたのに。寝てる間に》
《寝ている間に?》
《うん》
《チェーンロックはかけてなかったの?》
《それが…かけたと思うんだけど、気が動転していて、ドアを開けて外を見た時に外したのか、かけ忘れていたのか、覚えていないの。そのあとかけたのは覚えている》
《カブトムシは?》
《無事》
《よしじゃあ―といっても、僕は十時から仕事だし、君は八時から専門学校だろう? 夜のバイトも出る?》
《うん、両方とも出る》
《それじゃあ、帰ってからだな。車で一緒に帰る?》
《うん》
《でもそれからまたネットカフェに行くのもなんだし、僕はチャリで行くよ。友達にノートパソコンとポケットワイハイを借りて行くから、監視カメラの録画は部屋で一緒に観よう》
《わかった(^_-)-☆》
意気消沈しているようだけど、それほど心配はなさそうだった。
正助はいつも通り十時に出勤して、夏子が出勤して来る夕方五時まで、気を揉みながら仕事して何度か失敗をやらかした。注文の取り違えの初歩的なミスをしてマネージャーの叱責を買った。
「何をやってるんだ!」マネージャーの口振りは露骨で、はっきりいって追い出しにかかっている。
しかし正助は夏子を置いて自分から辞めるつもりはなかった。夏子を先に辞めさせなければならないと思っていた。それまでは耐えなければならない、
五時過ぎに夏子がひどく落ち込んだ姿で現れた。相当ショックを受けているように見受けられた。
そして正助と同じようにミスを連発。「どうしたのよ、ホントにもう!」とおばさんに何度も叱られた。
只事ではない、とうとう二人は一線を越えてしまったか―という目でみなに見られた。
その執拗な視線に耐えながら仕事を終え、夏子は逃げるように帰って行った。正助はそのあとをチャリで追い掛け、途中からマナカのアパートに向かった。
マナカは寝ずに待っていてくれた。イラン人の同胞がまだいたのかどうかわからない。下駄箱を見れ良かったけど、マナカはドアを半分しか開けなかった。
マナカに借りたパソコンバックを荷台にしっかり縛り付けて出発。西空には明るく大きな満月が輝いていた。月に帰るかぐや姫を追い掛ける思いで、月影の中、正助は深夜の街路を縦横無尽に疾駆した。
最後はやはり坂道だった。長い坂道を喘ぎながらチャリを押して歩くしかなかった。
マンションに着いて階段を一つ飛ばしに駆け上がり息を切らして玄関に飛び込めば、靴箱の上の壁に木の形をしたフェルトが貼られてあり、両面テーが剥がれた痕跡があった。そこにカブトムシはとまっていなかった。
カブトムシはテーブルの上で腹を見せており、突っ伏した夏子がいた。
「どうした?」正助が声をかけると、空ろに、涙をためた目で振り返った。
が、何もいわず、頬を、しんなりとテーブルにつけてカブトムシを見た。
正助は手にしたパソコンバックからノートパソコンを取り出し、テーブルの上に置いて、ケーブルの端子をパソコンに差し込み、もう一方をカブトムシの腹の蓋を開けて、中の小さな長四角の受けに接続した。
それからポケットワイハイを横に置き、パソコンにUBSメモリーを差し込んで、開いて立ち上げた。ワードを読み出して、ビデオをクリック、昨日の日付をダブルクリックした。
午前零時から始めて、次々に開いていく。夏子は0時27分51秒に帰宅していた。その時にはチェーンロックは掛けていた。夏子は体を起こしてこれを観た。そして次々に開かれていく映像を見つめた。
5時42分46秒に白っぽい夏子のパジャマ姿が現れて、白っぽい顔が大きく映し出された。つまり侵入者は誰もいなかったことが証明されたのである。だけど夏子はなお納得がいかない顔をした。
その横顔に正助はいう。
「これでわかっただろう、君の勘違いだということが」
「勘違いなんかじゃない。便座が上がっているもの」
「まだ上がったまま?」
「そのままにしてある」トゲのある言い方だった。
「見てきていい?」
「別に―」
正助は立ってトイレに向かった。かくなる上はテントウムを開いて見せるしかない。夏子には受け入れ難いことだろうけど、現実を知らしめるにはそうするしかない。
便座は上がっていた。ところが、フラワーバスケットの何処にもテントウムシはいなかった。夏子に見つかってしまったのだ。
正助が戻ると、「カメムシならここにあるよ」といって夏子がテーブルの上に置いた。「専門学校から帰って見つけたの」
「見つかってしまったか」
正助はきまり悪そうにいって腰を下ろし、「これを観ればはっきりする」と開き直った。
「そんなの観たくない!」夏子はそっぽを向いていった。「どうせあとでコッソリ観るつもりだったんでしょう。信じられない」
「そんなつもりじゃないよ」
「ドアノブを取り換えさせてあたしを安心させ、今度は監視カメラで盗撮。合鍵がなくったってこうして入れるものね」
「違うってば! 君の恥ずかしい部分は映らないようにしてある。観ればわかるよ」
「観たくない!」
「現実から目をそむけたら大変なことになる。君の睡眠不足は深刻な状態なんだ。慢性的睡眠不足は、きっと、心身に異常をきたす。無意識にそういうことをしてしまう。そのうち幻覚を見るようにもなる。僕の場合は信号が青に見えた。そのまま突っ走ったから大事故を起こしたんだ。幻臭はその前触れなんだよ。シナモンの香りがそうだ。君も車を運転するから極めて危険だ。―いうことを聞け!」
妹ならぶん殴るところだ。
夏子は正助の剣幕に気圧されてしぶしぶ承諾した。
「勝手に観れば―」
正助はカメムシ(とはよくいったものだ)をパソコンに接続して、監視カメラのビデオを開いた。
夏子は横を向き、顔を伏せながらも横目で観た。恥ずかしい映像だったらただちに中止させる構えだ。
3時29分03秒に、トイレの引き戸が開いて白っぽいパジャマ姿の夏子が現れた。上半身しか映っていない。便器の所へ来て少し腰をかがめた。この時に便座を上げたものと思われる。音声は拾わないから想像するしかない。
それから当然のことながら回れ右をしてパジャマのズボンを下ろし、便器に腰を―アッと、夏子は小さく声を上げた―下ろしたかに見えたけど、それにしては背中から上の位置が高過ぎる。かがんでいるように見えた。音はしないけれども、そのまま用は足されたと思われる。
つまり、後ろ向きに立ちションしているように見えたのだ。
夏子は両手で顔を覆い、「イヤだ! もう信じられない。あんたなんか嫌い! 絶交よ! 出てって!」と叫んだ。
いよいよ、次回で完結となります。