侵入者 1
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「マンションの部屋に誰か侵入しているみたい」佐藤夏子があと片付けで忙しいさなかに深刻な顔でいう。怖くて帰れないと。
「どういうこと?」
庄助は鉄板に焼け付いた客の食べ残しのロースを、つまんで口に放り込みながら気のない返事をした。
頼母子講の宴会あとは、食べ残しが多い。しかも上等な肉ばかり。腹を空かせた大学生の荒木も向こうで、カラスのようについばみながら食器を片付けている。
土曜日の夜は忙しい。宴会が重なるとてんてこ舞い。二階の各部屋は煙がもうもうとしていて、大賑わい。二階担当は庄助と、佐藤夏子と、「そこ何話してるの、早くカタして」産み上がった雌鶏のような小太りのおばさんの三人に、大学生の荒木が加わって四人。荒木は夕方六時からの出勤である。
片付けた食器類はリフトで下ろし、代わりに、注文したものが上がってくる仕組み。
佐藤夏子は十九歳の専門学校生で荒木よりは一時間早く出勤するアルバイター。専門学校が休みの土日祝日はファミレスでもパートタイマーをしている。
二十一時を過ぎて少し落ち着いた時、オーナーの身内のおばさんが下におりたのを見計らって、夏子が再び庄助に忍び声をかけてきた。
「だって、毎朝トイレに行ってから出掛けるのに、昨夜―というか、今朝になるけど、マンションに帰ったら、トイレの便座が、便座がよ、蓋と一緒に上がってたの!」
「便座が?」
佐藤夏子は神妙な顔でうなずいた。
男なら忙しい時は便座を上げて立ちションする。庄助は忙しくなくてもパンツ一丁かジャージの時以外は、ズボンを脱ぐのが(そのあとシャツを入れ込むのも)面倒だから、便座を上げてする。
「自分で上げたんじゃないの?」うっかり便座を上げたまま座って便器に尻が嵌まり込みそうになったこともある。
「そんなこと、絶対にない! トイレ掃除と便座カバーの取り換えは月初めと決めてあるもの」佐藤夏子は確信をもっていう。
「だとすると、君の留守中に何者かが侵入し、立ちションして、便座を下ろすの忘れていった―ということになるな。そりゃあ気色悪いわな。失くなった物は?」
「金目のものは盗られてなかったけど」
「けど、何?」
「ほかの物はわからない」
「出掛ける時、施錠はちゃんとした?」
「した。ガラス戸のクレセント錠も毎日チェックしている。親にいわれているから」
丸顔の丸い鼻の頭に小粒の汗を浮かべ、大きな目を見開いていう。髪はツインテール。穢れのない瞳に、庄助が映っている。
「玄関の鍵がどんなものか知らないけど、最近はピッキングなど、鍵はなくても、耳かきのような器具で簡単に開錠されるからな。しかも何の痕跡も残らない」
「怖~い!」佐藤夏子は胸の前で腕を交差させた。
「そうでなくても、合鍵が五分とかからずに作れる。鍵を落としたり、失くしたことは?」
「ないけど 」
「鍵を見せて」
佐藤夏子はお仕着せのハッピを捲り、デニムパンツのポケットからキーホルダーを取り出して見せる。
小さなクマのヌイグルミが付いたキーホルダーには、リングに鍵を四つ付けていて、「これがマンションの鍵。これは車の鍵で、これはチャリの鍵。そしてこれは実家の鍵」という。
いずれも簡単にスペアーが作れる代物だった。
「落としたら大変だなあ。そういうリスクを考えたことない?」
「それぞれスペアーキーを持ってるから」
「でも個人情報の漏洩になる。悪意ある者にかかったら―例えば愛車を修理に出したり、ガソリンスタンドでコーヒーでもいただきながら給油や洗車を待っている間に―量販店なんかで簡単にスペアーキーが作れる。誰かにキーを預けたり車を貸したりしても同じことだ」
困惑した顔で佐藤夏子は正助の顔を見つめた。
そこへ大学生の荒木が、両手にジョッキと大皿・小皿を重ねたトレイを危なかしく持って、カウンターを挟んで向かい合っている二人の横を、後ろ向きにすり抜けて行った。
佐藤夏子はその豊満な後ろ姿を振り返って見た。リフトに積み込む姿まで見届けて振り向いた。
不安の色を滲ませて微動している瞳に映った正助はいう。
「まあ、疑い出したらきりがない。この世は信頼関係で成り立っているけど、今日日はそれが崩れている。油断も隙もならない。でもそう心配したものでもないのかも知れないよ。ルーティーンによる思い違いはよくあることだ。いつもそうするからといって今回もそうだったとは限らない。何気に便座を上げて―」
「だから、そうじゃないんですって!」
「何の話?」荒木が口を差し挟んできた。
二人は荒木の顔を見つめて黙った。荒木のぽってりとした唇の端に赤黒いタレが付いている―のをペロリと舐めて荒木は、「まだ片付けが残っている」と、不満そうにいった。