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想い出絵の具研究所  作者: 凪
3/3

夏空

 ガラガラガッシャ―ン、ドン!


 腹に響くような轟音に、櫂は息を止めた。


 ――なんだ!? 何かが爆発したのか? やっぱりガスが漏れてたのか!?


 ややあって、聞こえてくるのは、激しい雨音。

 恐る恐る目を開けると、目の前で滝のような激しい雨が降っていた。


「今のは、近くに落ちたね」

 どこかで聞いたことのある声。

 横を見ると、セーラー服にポニーテール姿の少女が立っている。


 その少女は見覚えがある――幼馴染のみちるだ。


 櫂は慌てて自分の身体を見る。

 学ラン姿に肩かけ学生カバン。しわしわでシミだらけの手は、日焼けしたゴツゴツした手になっている。そして、手の平はバットを振ってできたマメだらけ。


 ――これは……中学生の時の私、か?


 どうやら、ここは家の近所にある商店街のようだ。夕立に襲われて、本屋の軒先で雨宿りをしている。そういうシチュエーションらしい。

 軒先から空を見上げると、真っ黒な雨雲が空を覆っている。まだしばらくは、やみそうにない。

 また閃光が走り、みちるは耳をふさいだ。地面を揺るがすような重い音が響き渡る。


「怖いね。ここには落ちないかな」

「まあ、たぶん」

 櫂はぶっきらぼうに答える。

 蒸し暑くて、みちるはハンカチで顔や首筋をぬぐっている。その白いうなじ――。

 櫂の鼓動が早くなった。


 ――そうだ、聞きたかったことがあるんだ。


「あのさ、隣の組の斎藤とつきあってるって、ホントなん?」


 みちるはビックリした顔で櫂を見る。みるみる、顔が赤くなっていく。


「えっ、なんで、なんで、そんなこと」

「いや、みんな、噂してるからさ」

「ウソっ、そうなの!?」


 みちるはあきらかに動揺している。


 ――あー、やっぱ、つきあってんのか。


 櫂が落胆しかけた時、

「つきあってなんて、ないよ」

 と、みちるはつぶやくように言った。


「斎藤君からは告白されたけど……」

「えっ、そ・そうなんか!?」

 櫂は思わず声が上ずってしまった。慌てて咳をしてごまかす。


「断った」

「そそそう。なんで、断ったん?」

 みちるは軽く櫂をにらんだ。

「あ、ごめん、言いたくないなら」

「他に……好きな人がいるから。だから、断った」

「へへへえ。それって、誰?」


 勢いで聞いてしまった。みちるは真っ赤な顔をしたまま、じっと櫂の顔を見る。その瞳は潤んでいる。


 ――えっ、いや、まさか。


 みちるはプイと横を向いた。


 ――どうしよう。ここで言うべきなのか? それとも、誰が好きなのかを聞いてからにしたほうがいいのか……。


 しばらく二人は、無言で雨音を聞いていた。


 ――手をつなぎたい。

 

 櫂はそんな欲求に駆られていた。


 ――いきなり、手を握ったら怒られるだろうか? それとも……。


 少しみちるに近寄ってみる。

 手の甲が、みちるの手にかすかに触れた。

 みちるは手をよけるそぶりはない。


 ――このまま、手を握ってしまうか?


 意を決して手をつなごうとしたとき。

「雨が小降りになったね」

 みちるはポツリと言った。

「あ、ああ」

「これぐらいなら、走って帰れるかな」


 みちるは学生カバンを頭に載せると、「それじゃ、今度の試合、頑張ってね」と櫂の眼をまっすぐとらえた。

 かすかな笑顔。櫂は「お、おう」と思わず目をそらしてしまう。


 雨の中、駆けて行くみちるの後姿。手の甲に、雨が降りかかる。

 むわっとするような、雨の匂い――。


 ――言えなかった。言えないままだった。ずっと好きだった、と。


 その後、高校で離ればなれになり、ほとんど会うことはなくなった。

 みちるは短大に入るために東京に行ってしまい、卒業後に結婚したと、風の便りに聞いた。


***************


 櫂は嗚咽を漏らしていた。

 手の甲に、大粒の涙が降りかかる。

 遼太郎は黙ってティッシュケースを差し出す。


「こんな……こんな想い出、忘れていたっ……あの時が、私のっ……」

 テーブルに突っ伏して号泣する櫂を一人にするため、遼太郎は志乃とともに、そっとその場を離れた。


***************


「北村様の人生の一色は、こちらで間違いありませんね」


 銀色のチューブには白いラベルが貼ってある。そのラベルには『北村櫂 夏空』と印刷してある。


「絵の具はお持ち帰りいただいても構いませんし、研究所で保管しておくこともできます」


 ひとしきり泣いてようやく落ち着いた櫂は、しばらくチューブを手に取って、呆けたように眺めていた。


「……私は、女房にはずいぶん前に愛想をつかされてね。子供たちも、子育てで忙しいからって、あんまり見舞いに来てくれないんだ。人生の最期を、こんな寂しく終わらせるのかって、病院の天井を毎日空しく眺めてたんだけど。自分にもこんな想い出があったなんてねえ」


「こちらのスケッチブックが特典でついておりますので、絵の具でスケッチブックに描けば、いつでも今の想い出が蘇ってきますよ」

 遼太郎は茶色い表紙のスケッチブックを差し出した。


 櫂は受け取ろうとして、「いや、やっぱり、この絵の具はここで保管してくれないか」と絵の具を渡した。

「そうですか。かしこまりました」と、遼太郎は穏やかな笑みを浮かべる。


***************


「夏空の絵の具を使いたくなったら、いつでもいらしてください」


 そう声をかけると、櫂は「ありがとう。いいものを見させてもらったよ。今日はホントに、来てよかった」と遼太郎の右手を強く握った。


 志乃と握手をしようと手を伸ばすと、遼太郎の背後に隠れてしまった。

「すみません、人と接触するのは苦手なので」

 遼太郎が代わりに弁解する。

「まあ、いいさ。お嬢ちゃん、元気でな」

 北村は映見に助けられながらワゴン車に乗りこむ。


「ガスマスクをつけなくていいんですか?」

 映見が志乃に聞くと、「そのおじいさんの匂いは認識したから大丈夫。いっぺんに、何人もの匂いを嗅いだら、混乱するだけだから」と早口で答える。


 映見は、「北村さん、ホントに晴れ晴れとした、いいお顔になって。ここに来たときとは、見違えるようです。今日はここに来てよかったです。本当にありがとうございました」と二人に頭を下げた。


「いえいえ、戸塚様も興味がありましたら、ぜひご利用ください」

「そうですねえ。私はまだ、再現したいような想い出ってないんですよ。いい想い出が全っ然なくて」

 映見は明るく返す。


「子供」


 志乃はポツリと言った。


「そのリュックから、子供の香りがかすかにする」

「え?」


 映見は背負っていたリュックを下ろした。ファスナーの留め具に、ヒヨコのフェルトマスコットがついている。


「もしかして」

「うん、そのマスコットから」

 映見は言葉をなくして志乃を見つめる。


「戸塚さん、早く帰らないと、夕飯の時間に間に合わないんじゃないか?」

 櫂に急かされて、映見は我に返る。

「そ、それじゃ。これで」

 ペコリと頭を下げると運転席に乗り込む。

 去っていくワゴン車に向かって、遼太郎は深くお辞儀をした。志乃はバイバイと手を振る。


 ツクツクボウシの合唱が風に乗って流れていく。


「あのおじいさん、もう研究所には来られないね」

 志乃は抑揚のない声で言う。

「そうですか。そういう匂いがしたんですか?」

「うん。たぶん、一週間もしないで亡くなると思う」

「そうですか……それなら、最後に一色を見つけられて、よかった」


 遼太郎は志乃を見た。

「前は、話がつまらなかったら、思いっきり騒いでたのに。今日ガマンしてたのは、死の匂いがしたからですか」

「うん」

「そうですか。あなたも、思いやりを示せるようになったんですね」

「これが思いやり?」

 志乃は首を傾げる。


「まあ、そのうち分かります。あなたは、本当は優しい女性なんだから」

 志乃は納得できてないようだ。


「さ、今日は夕方にもう一人いらっしゃるんだから、準備しましょう」

「オーケー」


 木立を抜ける夏の風が、二人をやわらかく包んだ。



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