夏空
ガラガラガッシャ―ン、ドン!
腹に響くような轟音に、櫂は息を止めた。
――なんだ!? 何かが爆発したのか? やっぱりガスが漏れてたのか!?
ややあって、聞こえてくるのは、激しい雨音。
恐る恐る目を開けると、目の前で滝のような激しい雨が降っていた。
「今のは、近くに落ちたね」
どこかで聞いたことのある声。
横を見ると、セーラー服にポニーテール姿の少女が立っている。
その少女は見覚えがある――幼馴染のみちるだ。
櫂は慌てて自分の身体を見る。
学ラン姿に肩かけ学生カバン。しわしわでシミだらけの手は、日焼けしたゴツゴツした手になっている。そして、手の平はバットを振ってできたマメだらけ。
――これは……中学生の時の私、か?
どうやら、ここは家の近所にある商店街のようだ。夕立に襲われて、本屋の軒先で雨宿りをしている。そういうシチュエーションらしい。
軒先から空を見上げると、真っ黒な雨雲が空を覆っている。まだしばらくは、やみそうにない。
また閃光が走り、みちるは耳をふさいだ。地面を揺るがすような重い音が響き渡る。
「怖いね。ここには落ちないかな」
「まあ、たぶん」
櫂はぶっきらぼうに答える。
蒸し暑くて、みちるはハンカチで顔や首筋をぬぐっている。その白いうなじ――。
櫂の鼓動が早くなった。
――そうだ、聞きたかったことがあるんだ。
「あのさ、隣の組の斎藤とつきあってるって、ホントなん?」
みちるはビックリした顔で櫂を見る。みるみる、顔が赤くなっていく。
「えっ、なんで、なんで、そんなこと」
「いや、みんな、噂してるからさ」
「ウソっ、そうなの!?」
みちるはあきらかに動揺している。
――あー、やっぱ、つきあってんのか。
櫂が落胆しかけた時、
「つきあってなんて、ないよ」
と、みちるはつぶやくように言った。
「斎藤君からは告白されたけど……」
「えっ、そ・そうなんか!?」
櫂は思わず声が上ずってしまった。慌てて咳をしてごまかす。
「断った」
「そそそう。なんで、断ったん?」
みちるは軽く櫂をにらんだ。
「あ、ごめん、言いたくないなら」
「他に……好きな人がいるから。だから、断った」
「へへへえ。それって、誰?」
勢いで聞いてしまった。みちるは真っ赤な顔をしたまま、じっと櫂の顔を見る。その瞳は潤んでいる。
――えっ、いや、まさか。
みちるはプイと横を向いた。
――どうしよう。ここで言うべきなのか? それとも、誰が好きなのかを聞いてからにしたほうがいいのか……。
しばらく二人は、無言で雨音を聞いていた。
――手をつなぎたい。
櫂はそんな欲求に駆られていた。
――いきなり、手を握ったら怒られるだろうか? それとも……。
少しみちるに近寄ってみる。
手の甲が、みちるの手にかすかに触れた。
みちるは手をよけるそぶりはない。
――このまま、手を握ってしまうか?
意を決して手をつなごうとしたとき。
「雨が小降りになったね」
みちるはポツリと言った。
「あ、ああ」
「これぐらいなら、走って帰れるかな」
みちるは学生カバンを頭に載せると、「それじゃ、今度の試合、頑張ってね」と櫂の眼をまっすぐとらえた。
かすかな笑顔。櫂は「お、おう」と思わず目をそらしてしまう。
雨の中、駆けて行くみちるの後姿。手の甲に、雨が降りかかる。
むわっとするような、雨の匂い――。
――言えなかった。言えないままだった。ずっと好きだった、と。
その後、高校で離ればなれになり、ほとんど会うことはなくなった。
みちるは短大に入るために東京に行ってしまい、卒業後に結婚したと、風の便りに聞いた。
***************
櫂は嗚咽を漏らしていた。
手の甲に、大粒の涙が降りかかる。
遼太郎は黙ってティッシュケースを差し出す。
「こんな……こんな想い出、忘れていたっ……あの時が、私のっ……」
テーブルに突っ伏して号泣する櫂を一人にするため、遼太郎は志乃とともに、そっとその場を離れた。
***************
「北村様の人生の一色は、こちらで間違いありませんね」
銀色のチューブには白いラベルが貼ってある。そのラベルには『北村櫂 夏空』と印刷してある。
「絵の具はお持ち帰りいただいても構いませんし、研究所で保管しておくこともできます」
ひとしきり泣いてようやく落ち着いた櫂は、しばらくチューブを手に取って、呆けたように眺めていた。
「……私は、女房にはずいぶん前に愛想をつかされてね。子供たちも、子育てで忙しいからって、あんまり見舞いに来てくれないんだ。人生の最期を、こんな寂しく終わらせるのかって、病院の天井を毎日空しく眺めてたんだけど。自分にもこんな想い出があったなんてねえ」
「こちらのスケッチブックが特典でついておりますので、絵の具でスケッチブックに描けば、いつでも今の想い出が蘇ってきますよ」
遼太郎は茶色い表紙のスケッチブックを差し出した。
櫂は受け取ろうとして、「いや、やっぱり、この絵の具はここで保管してくれないか」と絵の具を渡した。
「そうですか。かしこまりました」と、遼太郎は穏やかな笑みを浮かべる。
***************
「夏空の絵の具を使いたくなったら、いつでもいらしてください」
そう声をかけると、櫂は「ありがとう。いいものを見させてもらったよ。今日はホントに、来てよかった」と遼太郎の右手を強く握った。
志乃と握手をしようと手を伸ばすと、遼太郎の背後に隠れてしまった。
「すみません、人と接触するのは苦手なので」
遼太郎が代わりに弁解する。
「まあ、いいさ。お嬢ちゃん、元気でな」
北村は映見に助けられながらワゴン車に乗りこむ。
「ガスマスクをつけなくていいんですか?」
映見が志乃に聞くと、「そのおじいさんの匂いは認識したから大丈夫。いっぺんに、何人もの匂いを嗅いだら、混乱するだけだから」と早口で答える。
映見は、「北村さん、ホントに晴れ晴れとした、いいお顔になって。ここに来たときとは、見違えるようです。今日はここに来てよかったです。本当にありがとうございました」と二人に頭を下げた。
「いえいえ、戸塚様も興味がありましたら、ぜひご利用ください」
「そうですねえ。私はまだ、再現したいような想い出ってないんですよ。いい想い出が全っ然なくて」
映見は明るく返す。
「子供」
志乃はポツリと言った。
「そのリュックから、子供の香りがかすかにする」
「え?」
映見は背負っていたリュックを下ろした。ファスナーの留め具に、ヒヨコのフェルトマスコットがついている。
「もしかして」
「うん、そのマスコットから」
映見は言葉をなくして志乃を見つめる。
「戸塚さん、早く帰らないと、夕飯の時間に間に合わないんじゃないか?」
櫂に急かされて、映見は我に返る。
「そ、それじゃ。これで」
ペコリと頭を下げると運転席に乗り込む。
去っていくワゴン車に向かって、遼太郎は深くお辞儀をした。志乃はバイバイと手を振る。
ツクツクボウシの合唱が風に乗って流れていく。
「あのおじいさん、もう研究所には来られないね」
志乃は抑揚のない声で言う。
「そうですか。そういう匂いがしたんですか?」
「うん。たぶん、一週間もしないで亡くなると思う」
「そうですか……それなら、最後に一色を見つけられて、よかった」
遼太郎は志乃を見た。
「前は、話がつまらなかったら、思いっきり騒いでたのに。今日ガマンしてたのは、死の匂いがしたからですか」
「うん」
「そうですか。あなたも、思いやりを示せるようになったんですね」
「これが思いやり?」
志乃は首を傾げる。
「まあ、そのうち分かります。あなたは、本当は優しい女性なんだから」
志乃は納得できてないようだ。
「さ、今日は夕方にもう一人いらっしゃるんだから、準備しましょう」
「オーケー」
木立を抜ける夏の風が、二人をやわらかく包んだ。