甲子園の空の色
「……それで、サヨナラ満塁ホームランを打たれちゃって、試合終了。あの時は号泣したねえ。今でも、あの日のことを思い出すたびに、悔しさが蘇ってくるんだよ」
北村は眼の縁に浮かんだ涙を拭った。
「あ、あの、北村様、病院に戻られるお時間は大丈夫なんでしょうか」
遼太郎の言葉に壁の時計を見上げると、1時間が過ぎていた。
「あれ、もうこんな時間なの? 早く言ってよお」と櫂は悪びれずに言った。
映見は途中で「ちょっと車を見て来ます」とうまく長話から逃れていた。
遼太郎はグッタリした表情で背もたれに身を投げ出し、志乃はガスマスクを外してテーブルに突っ伏してしまっている。
「そ、それでは、脳波を測定させていただきますので、想い出測定ルームに移動いたします。その前に、ちょっと準備して来ますね」
遼太郎と志乃は応接室を出て、大きく息を吐いた。
「長かった……私、途中で3回ぐらい、『それじゃ、そろそろ』って話を切り上げろサインを出したのに。決勝の日の朝から話が始まると思わなかった……」
志乃はつぶやくように言う。
「3回裏で30分経ってたから、この調子だと2時間はかかるかと思った……」
「よく我慢しましたね」
「お客様を怒らせちゃいけないって、遼太郎さんが言うからさ」
「よく学習してますね。偉い偉い」
「子供扱いしてるう」
志乃はぷうっとふくれた。
想い出測定ルームでは、櫂の額に脳波を測る小さなセンサーを貼った。
さらに、心拍数を測るためにパルスオキシメータを人差し指にはめる。
櫂が座ったリクライニングチェアは、ゆっくりと背もたれが倒されていく。
「この椅子は、サーモカメラにもなっているんです。たいていの方は、一色を見ると体温が上昇します」
「へえ」
ヒーリングミュージックが流れて、照明も暗くなった。
「目を閉じて、甲子園の決勝の場面を思い出してみてください」
遼太郎は椅子の後方にあるモニタをじっと見ている。
「これから、目の前に色が次々と現れます。それを10秒ずつ見つめてください」
櫂は空中に映し出される色をじっと見つめた。
遼太郎は、途中で何度も首を傾げる。
***************
「お待たせいたしました。こちらが夏空の色になります」
櫂の前に、細長い銀色のチューブを差し出す。
「こちらのパレットをお使いください」
白いパレットも櫂の前に置く。
小さなキャップを開けて中身をパレットにちょっと絞り出すと、鮮やかな青色の絵の具が広がった。
「いいじゃないか、まさしく、これが夏空の色だよ。あの時見た、甲子園の空の色」
櫂は興奮する。
遼太郎は、櫂の前に画用紙と絵筆を置いた。
「それでは、こちらに試し塗りをしていただけますか」
櫂はいそいそと筆に絵の具をつけると、画用紙にサッと線を描いた。
真っ白な紙に、一筋のコバルトブルーの線が描かれる。続けて、2、3回、線を引いた。
志乃が「あれ?」と首を傾げた。遼太郎は「何も起きませんか?」と尋ねた。
「何もないねえ。何も見えない。もっと塗ったほうがいいの?」
「いえ、何も見えないなら、その色じゃないのかもしれません」
「え?」
「青でも濃淡がありますし、黄色がかったり、黒味が強かったり、いろんな種類があるんです。その色がドンピシャの夏空じゃないのかもしれません」
「そんなことあるの? 脳波で強く反応した色なんでしょ?」
「そうなんですが……ちょっと反応が弱かったので、気になっておりまして」
「弱い? どういうこと?」
「通常の一色に対する反応を100としたら、北村様の場合、80ぐらいしかなかったので……その日、雲が多かった記憶はございませんか?」
「そこまでは覚えてないけど……オレの記憶では、雲一つない、気持ちのいい晴天なんだけど」
「いつだったか、覚えてる?」
志乃が聞くと、櫂は「え?」と眉を寄せた。
「その試合の日、何年の何月何日か覚えてる? そしたら、その日の天候を調べられるけど」
「いや、昔のことだから、詳しくは覚えてない」
櫂はタメ口で話しかけられたことに、明らかにムッとしていた。
「学校名は?」
「常盤夢が丘校」
「じゃ、その学校が決勝で負けた年を調べればいいのか」
志乃はタブレットで検索を始めた。
「あった。2027年の8月20日。この日じゃない? 常盤夢が丘校のピッチャーは北村櫂ってなってるよ」
「じゃあ、それだ。その日だ」
「その日の天気は……朝から晴天で、30℃を超えてたって。午後は37℃まで上がって、湿度は75%だって。殺人的な暑さだね。あ、でも、試合開始時間が1時からだって。終わったのは夕方6時を過ぎてたって出てるよ」
「えっ」
櫂は腕組みをしてしばらく考え込んだ。
「そうか、あの日は延長したから夕方に終わったのか。準決勝の日と記憶がごっちゃになってるのかもしれない」
「じゃ、夕焼けの色かもしれないね」
志乃は測定ルームにさっさと戻ってしまった。
「すまん、オレの記憶違いだ」
「いえいえ、記憶は案外あやふやなものなんです。それでは、もう一度、測定しなおしてみますか」
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「こちらでいかがでしょうか」
銀色のチューブを絞ると、燃えるような赤色の絵の具がパレットにニュルリと顔を出す。
「その日の天候のデータを調べてみたんですが、おそらくその色の夕焼けだったんじゃないかと思います」
「いいじゃないか、キレイな赤だ。この色だったら、100あったんでしょ?」
遼太郎はためらったが、「いえ、100ではなく、95ぐらいの反応でした」と言う。
「まあ、5ぐらいなら誤差でしょ」
櫂は嬉しそうに筆に絵の具をつけると、画用紙に勢いよく線を引いた。
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「ダメだ、全然、何も見えない」
櫂は一面に真っ赤に塗られた画用紙に筆を放り投げた。隅から隅まで塗ったら何か起きるんじゃないかと塗ってみたが、何もなかったのである。
「そうですか……やはり、見えませんでしたか」
「やはりとはどういうことなんだ? 見えないって分かってたってことか?」
櫂は苛立ちを隠せない。
「やっぱり、こんなのインチキじゃないか。小野寺さんが感動して、何回も話してくれたから、ついその気になって来てみたけど。私には何も見えやしない」
「あのおじいさんは、最初から成田にあるひまわり畑って詳しく話してくれたから、どんな種類なのかを調べられたんだもん。だから、一発で見つけられたんだよ」
志乃の言葉に、櫂は目をむく。
「つまり、何かっ、オレの伝え方が悪いって言いたいのか!?」
「いえいえ、そうじゃありません。言葉足らずで申し訳ありません」
遼太郎は慌てて志乃の前に立った。
「そろそろ病院に戻らなきゃいけないのに」
「最初の話が長かったから、余計に時間がかかっちゃったんだよね」
「緑川君」
遼太郎は志乃を困ったように見る。
「戸塚様は、1時間ほど前に、『1件用事を済ませてから戻って来る』っておっしゃっていました」
「そんなの、どっかでサボってるんでしょ。呼び戻さないと」
櫂が腕時計で電話をかけようとすると、「申し訳ありませんが、北村様、もう一度、脳波を調べさせていただけませんか」と遼太郎は申し出た。
「また? これで3回目じゃないか」
「本当に申し訳ありません。今度は、それほどお時間はいただかなくて大丈夫かと」
「そんなにお金は払えないよ」
「もちろんです。想い出絵の具研究所は、想い出が見えた時だけ、料金をいただくシステムです。見えないまま終わった時は料金をいただくことはありません。先ほど、北村様の脳波を調べていた時、気になった点があったんです」
「気になる点って?」
「青でも赤でもない色で、100に近い反応を示している色があったんです。一瞬だけだったので、気のせいかと思ったんですが。それを確認するために、もう一度、調べさせていただけませんか」
「え~?」
「普通は、想い出の場面を思い浮かべていただくんですが、北村様の場合、強く反応する色を探したほうが早いかもしれません」
「そんなこと言ってもねえ」
「このまんま、何も見えないまま帰っちゃったら、今までの時間がムダになるよ」
志乃はケロっと言う。
「緑川君、もう一度、お茶をお出しして」
遼太郎は慌てて志乃を部屋から出した。
それから、櫂に向かって深々と頭を下げる。
「北村様、最後にもう一度だけ、お願いいたします」
「分かったよ」
櫂は渋々と承諾した。
***************
「お待たせいたしました、北村様。新たに作った絵の具はこちらになります」
櫂は面倒そうに小さなキャップを開けて、白いパレットに絵の具を絞り出した。
「これは……」
櫂は絶句する。
それは、灰色の絵の具だった。しかも、限りなく黒に近い灰色である。
「これじゃ、夏空じゃない。冬空だ」
「ハイ、この色が北村さんの脳波が一番強く反応している色なんです。100どころか、120ぐらいの強い反応を示していました」
「そんなこと、あるはずない。私が一番見たいのは、甲子園の決勝の空なんだ。あの時が、一番自分の人生で輝いていた時なんだ」
「北村様、もう一度だけ、この絵の具で描いていただけませんか? お願いいたします」
遼太郎は筆を差し出す。
櫂は大げさにため息をつき、「仕方ない」と絵筆をとった。
絵筆に絵の具をつけ、画用紙に二、三度、サッサと絵筆を走らせる。真っ白な画用紙に、暗い灰色がにじんでいく。
「なんだ、やっぱり、何も起きないじゃないか」
つぶやいた途端、鋭い閃光が走った。櫂は思わず目を閉じる。