アルビノの青年とガスマスクの少女
その日は、まさに雲一つない青空だった。
木立にはツクツクボウシの合唱が広がる。
「こんなに蝉の声を聞いたのは、久しぶりだよ」
北村櫂はつぶやく。年のころ70の老人で、頭はすっかり禿げ上がっている。
「ええ、都会ではなかなか聞けませんからね」
車椅子を押す戸塚映見も答える。映見は小太りの中年女性である。
「ホントに、こんなところにあるの?」
「地図ではこの辺なんですけど……」
森の小道を進むと、ほどなくしてレンガづくりの建物が見えて来た。
「ああ、あった」
その建物はアンティーク調の鉄柵で囲まれ、門には「想い出絵の具研究所」と書かれた銅の看板が掛かっている。
都心から車で30分。人里離れた深い森の中に、その研究所はあった。
「なんでわざわざこんな不便なところに研究所をつくるんだか。物好きだな」
櫂は眼鏡を取って、顔の汗をハンカチで拭う。
「戸塚さんも、大変だったね。駐車場から20分ぐらいかかったでしょ」
「ええ。この辺は国が定めた自然保護地域だから、車を乗り入れられないそうなんです」
映見は背中のリュックからペットボトルを取り出して、水をゴクゴク音を立てて飲んだ。
「北村さんも水、飲みますか?」
「いや、オレは結構」
映見は門についているインターフォンを押す。
「……ハイ?」
「あ、予約していた北村です」
「こんにちは、北村様、お待ちしておりました。今、鍵を開けます」
インターフォン越しに若い男性の声がする。ガチャ、と鍵が開く音がしたので、映見は門をギイイと開けた。
玄関のスロープを上がると、自動ドアが静かに開いた。
中からガスマスクをした小柄な少女が出て来たので、二人はギョッとする。
「こんにちは」
くぐもった声が聞こえる。
「え、なん、なん、何ですか? ガス漏れでもしてるんですか?」
「いえ、違います」
シューシューと、不気味に呼吸音が響く。
「北村さん、かか帰りましょうか」
「そ、そうだな」
映見が車椅子の方向を変えて帰ろうとしたとき、
「すみません、驚かせてしまって」
と、男性の声がした。
見ると、白衣を着た男性が少女の後ろに立っている。男性は真っ白な髪の毛で、肌もまるで雪のように白い。眼鏡の奥の瞳は、ブルーグレー。
「私が、想い出絵の具研究所所長の青柳遼太郎です。この子は、助手の緑川志乃。緑川君は特殊な体質で、ガスマスクをつけてるんです。館内には何も問題はありません」
「は、はあ」
「遠方からいらしたんですよね。まずは、中に入っておくつろぎください」
遼太郎はやわらかく微笑みかける。
ためらっている映見の代わりに遼太郎は車椅子を押して、建物の中に入った。その後を志乃がちょこまかとついていく。映見はだいぶ遅れてから、恐る恐る中に入った。
館内は照明が抑えめで、薄いグレーの壁とウォールナットの床で構成されている。
映見は怪しいニオイがしないか、クンクンと嗅いだ。気になるニオイは何もしない。
「あ、あの、特殊な体質って」
ためらいながら聞くと、「緑川君は、犬並みの嗅覚を持っているんです」と遼太郎が代わりに答える。
「犬並み?」
「20年ぐらい前に、遺伝子操作でいろんな体質の子供を生み出すのが流行った時期があるんですけれど、覚えていらっしゃいますか?」
「そういえば、ありましたね。鷹の視力を持った子供とか、イルカの聴力を持った子とか……確か、問題になって、廃止されたんじゃ」
「ええ、今は。緑川君は、その時に生まれて来た子供の一人なんです。どうしてもいろんな匂いを嗅ぎ取ってしまうので、ガスマスクをつけなくてはいけなくて」
「そうなんですか」
「所長さんは、どこの国の人なんですか」
櫂の問いに、遼太郎はかすかに苦笑して、「日本です」と答えた。
「え、でも、その髪と眼は」
「私はアルビノなんです。生まれつきメラニン色素をつくる機能が損なわれていて、だから髪も肌も瞳も、こんな色なんです」
「はあ……」
櫂は黙り込んでしまった。
アルビノの青年に、犬の嗅覚を持った少女。ここ、大丈夫か?
そんな目で映見のほうを見た。
映見も困惑気味に、
「アルビノの方は、確か目が見えづらいって聞いたことがありますが……」
と聞いた。
「ええ、そうなんです。私も子供の頃から、視力は0.1もありませんでした。だから、この眼鏡を開発したんです」
遼太郎は黒い縁の眼鏡を指した。
「この眼鏡はウェアラブルセンサーなので、色の明暗や濃淡を自分の目に合った状態に瞬時に調節できるようにしてあるんです。この眼鏡をかけると、視力は1.0ぐらいにはなるので、不便なく仕事をできています」
「そうなんですか」
映見はそれ以上深く突っ込まなかった。
応接室に通されると、志乃は小走りで出て行った。
「あの子、まだ子供でしょ?」
櫂がいぶかしげに言う。
「いえ、ああ見えて、19歳です。背が小さいから、いつも子供に間違われるんですけど」
「それはやっぱり、遺伝子操作の影響で?」
「そうだと思います」
「はあ、大変ですなあ」
まったく同情していない声音で櫂は言う。
「彼女は色に関しての感度は抜群なので、絵の具をつくるのは彼女に頼りっぱなしなんです」
遼太郎はさりげなく志乃をフォローする。
「今日は、小野寺様のご紹介で、ご予約を入れてくださったんですよね」
「ああ。同じ病室の小野寺さんが、もう何回も何回も話してくれたんだよ。子供の頃に遊び回ったひまわり畑が見えたって。最後にあの風景を見られてよかったって、毎日言ってるからさ」
「ハイ。小野寺様は、大変喜んでいらっしゃいました」
「だから、それならオレも、一度体験してみたいって思って」
「ありがとうございます。それでは、当研究所のご説明をいたします」
テーブルのスイッチを押すと、空中に映像が浮かび上がった。
ベビーベッドに寝ている赤ちゃんの映像から、つかまり立ちをしている様子、友達と駆けっこをしている様子と、人が成長していく映像が次々に流れていく。
「想い出絵の具研究所は、人の記憶に残っている色を絵の具で再現する研究所です。それも、記憶でもっとも強く輝いている色。それを当研究所では、『一色』と呼んでいます」
「それは、青とか赤とかではなくて」
「ハイ、小野寺様のように子供の頃に遊んだひまわり畑の色とか、卒業式の桜の色とか。先日は、引退したテニス選手が、初めて優勝したコートの色をリクエストされました」
「そんなざっくりしたリクエストでいいの?」
「ええ、脳波を測る機械をつけていただくんですが、それでその光景を思い浮かべていただくと、一番強く反応する色があるんです。その色で絵の具をつくります。ちなみに、テニスコートの色は緑でした。グラスコートで、その方は勝った瞬間にコートにキスをしたんですね」
「はあ、なるほど」
そのとき、志乃がお盆を持って入って来た。
コップに入った麦茶を無言で3人の前に並べて、さっさと部屋を出て行ってしまった。
櫂が眉をひそめてその様子を見ていたので、遼太郎は「彼女は極度の人見知りなんです」とフォローした。
「それで、その絵の具をつくるのに、時間はどれぐらいかかるんですか」
映見が麦茶を飲んでから尋ねた。
「測定で30分前後、その色を元に絵の具をつくるのに30分ぐらいです」
「そんな短時間でできるんですか」
「ハイ。その前に、色のメカニズムについてご説明しますね。私たち人間は、世界に色がついていると思っています。たとえば、この部屋もそうですね。テーブルは木の色をしていて、壁はグレーに見えます。実は、世界に色はついてないんです。色は私たちの目と脳がつくりだして」
「あー、そういう難しい説明はいいから。早く測定してくれないかな」
櫂が話を遮ったので、遼太郎は戸惑いの表情を浮かべた。
「病院を抜け出して来てるから、そんなにゆっくりできなくて」
映見が代わりに答える。
「そうですか。かしこまりました。それじゃあ、こちらのカルテに記入していただけますか」
櫂にタブレットとペンを差し出す。
櫂がカルテに書き込んでいると、志乃が自分用のミネラルウォーターを持って戻って来た。
書き終えたカルテを、遼太郎と志乃はのぞき込む。
「リクエストは夏空、ですか。どんな夏空でしょうか」
「それは、甲子園で見上げた夏空だね。オレはこう見えても、小学校から高校まで野球に明け暮れていてね。私の高校は、甲子園で決勝まで行ったんだ」
「そうですか、お強かったんですね」
「ポジションはピッチャーでね……野球のことは分からないかな、今の若い人は」
「そうですね、あんまり。昔は甲子園という野球大会があったという話は聞いたことがあるんですけれど、僕らの学生時代にはなかったので」
「少子化で、野球やサッカーはできなくなっちゃったんだよなあ。もったいない」
櫂は大げさにため息をついた。
「それで、決勝の日は、晴れていた、と」
「そうそう。あの日見た空の色は忘れられない。オレは延長の15回まで投げたんだ。忘れもしない、あの日、オレは朝から肩に違和感があって――」