白銀の一枝9
(十五)
華やかな酒宴は幕を降ろし、それぞれがそれぞれの帰路に着いた。大路には艶やかな牛車が連なり、漆黒の宵闇の中で轍を刻む車輪の音と、従者達の持つ松明だけが赤く揺れていた。今夜は満月だった。私は牛車諸共従者達を先に帰した。月見がてら川辺を独りで歩く事にしたのだ。都の外れ、気に入りの野山にて美しい月の光を浴びながら我が愛笛「占月」を奏でたいと思う。動きやすい狩衣に着替え、最後の牛車を見送った私は気ままに歩を進めた。辺りには人影も無く静まりかえり、屋敷から漏れこぼれる明かりだけが星空の様にきらきらと綺羅めいていた。一人、羅城門を抜け郊外へと花見心地で歩を進める。都とはいえ外郭を出てしまえば意外なくらいに長閑な風景が広がる。月明かりだけがその足下を照らし、虫達の鳴き声が雅な夜を演出していた。もう少し歩けば小高い丘の上に出るだろう。月の美しい宵にはそのお気に入りの場所で笛を奏でる事を楽しみにしている。木々が生い茂り、見通しは暗く未だ目的地は見ては取れない。ふと頬に感じる風。その重さに不穏な陰を感じた種継が訝しい表情を浮かべた其の時だった。
ギャッ!グオッ!ガルガルガル!ゴギャーッ!グシャッ!
断末魔。獣の吠吼。そして肉塊が潰れる音。即座に反応した種継は踵を返し、音の発信源に当たりを付けて走り出した。下級とはいえ種継も役人だ。不測の事態に対する備え、鍛錬だけは積んできたつもりだ。腰に携えた剣の冴えも鈍ってなどいない。
「なっ、何だあれは!」
其処は野山を分けて形ばかりの道路網が敷かれた場所だった。闇夜が支配し、月明かりすら無い夜には行き交う人影など皆無に等しい、そんな寂しい場所だった。視界に捕らえ、距離を詰めてゆく先には一両の牛車。此の暗がりの中、其処だけが不可思議に明るく其の惨状は手に取る様に確認出来た。血溜まりに点在する肉塊、舞い上がる朱色の染みた布片、そして宙を切り飛翔する異形の化け物の姿。
「鬼か!」
牛車に設えられた御簾越しに人影が見える。未知との遭遇に沸き上がる混乱と恐怖心。冷たい汗が背中を伝い足が震える。しかし私も殿上人の端くれだ。例え相手がどの様なバケモノだろうと、襲われている人を見捨てる事など無い。萎えかけた心を奮い立たせ、すらりと太刀を抜く。精神一到。鮮やかな太刀筋で中空を交う鬼を一刀両断に処す。充分な手応えだ。件の鬼は分断され、其の生命活動を停止している事だろう。そう確信し振り返った種継の目には、辛うじて四肢が繋がり断ち切られた断面から瘴気と鈍色にぬめりを放つ体液を巻き散らしながらも、奮然と襲いかかって来る異形の姿が映った。
「なにっ!」
振り下ろした太刀は既に死に筋と成っている。破壊力どころか防御にすらその用を成さない事だろう。油断だった。この世の者ではない鬼を人の常識の範疇で計ってはならなかったのだ。己の浅はかさを後悔する間も無く、異形の牙が種継の腹を抉る。目の前が真っ赤に染まる。崩れ落ちる種継の目に強い光が見えた。そして、何も感じなくなった。
(十六)
その夜、碧姫は急いでいた。姫の得意とする星視により、今宵悪鬼の急襲を予見したのだ。彼奴等の目的なら分かっている。独り屋敷を抜け出した碧姫は目立たぬよう質素な牛車で星の導きを辿るのだ。
「ギャッ!」
「グオッ!」
従者達の悲鳴と共に牛車は静かに歩みを止めた。其れでも碧姫は落ち着き払っていた。そう知っていたのだ。襲われるであろう事も想定していたのだ。辺りには禍々しい妖気が漂い此の世の者では無い何かの到来を告げていた。従者達が肉塊と成り果てた今、次ぎは姫の番で有る事は容易に想像できる。否、姫自身が本来の標的であろう。碧姫は御簾越しに、宙を漂う物の怪と毅然とした態度で静かに対峙していた。
「窮奇か。」
醜悪な顎、乱雑に剥き出した鋭い牙を晒した窮奇と呼ばれた鬼は、地響きの様な重い唸り声を上げながら、海鷂魚にも似た身の丈二メートル程の体躯を撓らせ、牛車の中央に座する碧姫に襲い掛かる。
バチバチッ!
鋭い閃光。其れは光の壁だった。迫り来る悪意を阻むが如く出現した其の障壁は、窮奇を牛車の寸前で押し留めている。激しい衝突。光の破片を振り乱しながら、なおも姫に悪意を叩き付ける窮奇。舞い踊る光の中で碧姫は静かに瞳を閉じ、袂より一枚の札を取り出すのだ。複雑な文様が書き込まれた其の札は姫の華奢な指に優雅に絡み、仄かな光の縁取りさえ纏っている。
「鬼か!」
前触れも無く、暗闇の中から男の声が響く。しまった!目の前の事象に集中していた碧姫は、部外者の存在を感じ取る事叶わなかった。姫の心に初めて生じた焦り、其れが対処を遅らせる結果に成ったのだ。札に念を凝らす所作が乱れ、通りすがりの男に窮奇が襲い掛かる隙を与えてしまったのだ。間に合わない!渾身の念を込められた札は今、神々しい光を発し降魔必殺の刃と相成った。時は満ち、姫の手より離れ神速の一撃が如く鬼の元へと馳せるのだ。
「千刃桜花・かさね!」
しかし刻既に遅く、碧姫の目には走馬燈の様にゆっくりと崩れ落ちる男の姿が映った。一瞬。たった一瞬だった。もう少しだけ早ければ確実に救えたのだ。姫の放った札は的確に窮奇を捕らえていた。光の爆発の中で無数の刃と成り縦横無尽に負の者の魂を切り刻む。そして負の力、悪しき力を神通力にて串削るのだ。符術。此が姫の得手とする闘法だ。複雑な文字と文様の組み合わせに依り、様々な事象を和紙で設えた札へと焼き付ける。姫の類希なる神通力に起因する其れは、時には結界と成り、時には魔を薙払う武器と化す。そして牛車を飛び出した碧姫は、血に染まり動かなくなった男の元へと走った。