白銀の一枝8
(十三)
「本当に大丈夫?」
「うん。ちょっと寝てれば大丈夫。だから先生は行って行って。職員会議あんでしょ?」
「それはそうだけど・・・」
養護教諭の加藤先生は心配そうに大沢紗香の顔を覗き込んだ。スレンダーで優しい加藤先生は面倒見のいいお姉さんタイプだと生徒達からは人気が高い。もちろん良からぬ事を企む青春期男子の無粋なアプローチなんかもあったりはするものの、持ち前の明るさで難なく裁く強者である。その加藤先生が支配する保健室に大沢紗香は居るのだ。混乱に乗じてこっそりと教室を抜け出したものの、ショックから来る気分の悪さに堪え兼ねた彼女は皆と別れ一人保健室で休息をとる事にしたのだ。ただ何もかもが白いだけの味も素っ気もないベッドの上で、セーラー服のまま乱れた裾も生々しく寝っ転がり次第に楽になってゆく気分に伴い「制服が皺になってしまう。」なんて呑気な事を考えられるまでに回復していたのだ。
「じゃあ先生行ってくるわね。もし気分悪くなったら枕元の呼び出しボタン押すのよ。先生の携帯に繋がってるから。」
「は~い。」
加藤先生の後ろ姿を横目で見送りながら暫し目を閉じ、もう少しだけ休んだら家に帰ろうと、漠然とした思考を巡らせていた。そんなゆったりとした昼下がりだったのだ。其の雷鳴が鳴り響いたのは。
「えっ?雨?最悪・・・やっぱ無理してでも帰ればよかった・・・」
同級生の死というセンセーショナルな現実も、目先の最大の不幸である「傘が無い」という事実には敵うはずも無い。むしろとても人間らしい感性だと思う。どこか頭の奥の方で「私のせいじゃない」と既に都合良く情報を処理してしまった彼女はもう普段の顔に戻っていた。
「・・・そうよ。あの程度で自殺なんてする方がおかしいのよ。ホント迷惑な女。」
布団に潜りそう呟いた。いつの間にか重くなった瞼を閉じた彼女は赤子の様に丸くなり少しだけ眠るつもりだった。次第に曖昧に成ってゆく意識の中で、キナ臭さを感じた。夢だったのかもしれない。微睡む意識の境界線を漂う少女、其の視界は突然に開けたのだ。加藤先生だろうか。誰かが布団を捲ったのだろう。もしかして放課後まで眠ってしまったのだろうか。そんな他愛も無い事をぼんやりと思い浮かべながら、ゆっくりと瞼を上げた大沢紗香は悲鳴すら上げられなかった。ベッドの中の自分を見下ろしていたのは絶望だった。それは恐怖のあまり動けなくなった彼女にこう告げたのだ。
「次はあなたの番よ。」
「あら?大沢さん帰ったのね。顔色も良くなってたものね。」
そう一人呟いた加藤教諭は無人になっていた保健室で、職員会議でも議題に成っていたこれからの生徒達のメンタルケアについて考えていた。やはり校外から専門の先生に来て頂くのが最適であろう。後日行われる保護者説明会にも同席して頂いた方がいいわね。生徒の死を悲しむ時間も満足に取れないこの教師という役職に些かな疑問が過るものの、生徒は一人では無い。ショックを受けた生徒達のケアや、保護者の方々に安心して頂く事も看過できない大切な事だと思う。そう結論付け自分を納得させた養護教諭はメンタルケアの適任者をピックアップする作業へと次第に集中していった。
(十四)
翌日は臨時休校だった。早朝からの全生徒への連絡メールの一斉送信によりその事実は迅速に告げられた。しかしながら明確な理由は記入されておらず、不審がる者や受験への影響を心配する者、そして大多数を占める事になるであろう深く考える事無くこの幸運を享受する生徒達と銘々の休日となった。豪太郎は未だ布団の中で携帯の画面を眺めていた。昨日、部屋に忘れたままになっていた携帯にはオッサンからの着信が入っていた。滅多に電話なんてして来ないオッサンだけに気には成ったものの、何度掛け直しても繋がらずそしてそのままついにオッサンは帰っては来なかった。何だろう。嫌な予感がする。いい加減なオッサンではあるものの連絡もせずに帰らないなんて事は一度も無かった。もしかして帰らないんじゃ無くて帰れないのかもなんて、不吉な事ばかり浮かんでは消えてゆく。大の大人の事だ、警察に届けるのも何だか気が引ける。今にもデリカシーの無い大声を上げながら帰って来るんじゃないかという気さえする。そんな事を延々と考えてた豪太郎は一睡も出来ないでいた。そう言えばオッサンは大島の事を気にしていたっけ、と思い出しネットニュースを検索してみる。
「何だよコレ!」
其処に表示された文字列は無気力な豪太郎の目を覚まさすには十分な内容だった。
[十七日、某私立高校の女子生徒三人が死亡しているのが発見された。各々が自宅の自室にて縊死しているのを家族らが発見。自殺と見られている。先日不審死を遂げた大島智子さんと三人はクラスメートで有りこの二つの事件は何らかの関係があると見て捜査を続けています。]
そして其れは豪太郎だけでは無く、多数の生徒達の知る所と成り推理ごっこが始まったのだ。瑠璃子のスマホ、某リアルタイムメールアプリはフル稼働の面目躍如、其れはクラスメートのコミュニティに大量の書き込みが殺到したのだ。もちろん論点と言えば「誰が死んだのか」と「大島智子は本当に自殺だったのか」と、この二点だった。自殺をした生徒の方は直ぐに分かった。それぞれの近所に住む生徒達の証言だ。朝から警察や救急車が乗り付ければ誰でも不審に思うのは当然だ。水島郁美、佐藤令、田辺奈々の三人の家だった。「そういえば昨日三人共いなかったよね」「俺、教室出て行くの見たぞ。」「大島さんと仲悪かったメンバーよね」「何で自殺なんて」「どうなってんだよ!」「うちのクラスばっか」「そういえば大沢も居なかったんじゃ」「そうそう」「呪われてる~!」「さあちゃんは大丈夫なの?」「電話してみる」「ダメだ。出ない。」「コール音は鳴ってるのに」「まだ寝てんじゃないの?」「俺も二度寝したし」「あっそういえばアタシさあちゃんに大島のメアド聞かれた。」「あたしも。でも知らないし。」「やっぱ繋がらねえ」「いつ?」「大島さんが亡くなった日」「メールも返事なし」「何であの三人が自殺すんだ?」「大人しく自殺するようなタイプじゃないと思うけど」「大島さんもよね」「でも人の中身なんて分かんないわよ。特に追いつめられた時とか」「俺もいざとなったら自信ない」「あたし、さあちゃん家に行ってくる」そう打ち込んだ瑠璃子は手取り早く準備を済ませ、勢い良く玄関のドアを開けた。
「うぐわっ!」
まるで漫画かよ!っと思わず突っ込んでまう程のベタさで扉に衝突する男。それが豪太郎だ。そしてその衝撃が一瞬だけ彼の意識を飛ばしてしまうのだ。
「・・・姫様がなかなか返事を下さらなくて・・・」
「噂では才色兼備、深窓の姫君らしいですな。しかも降家なされたとはいえ、帝の妹姫、血筋も一流ときている。」
「一度でいいから文を頂きたいものよのう・・・」
「私達程度の身分では到底相手にはされぬだろうな・・・」
時は平安時代。雅と紫、金雲とロマンスに彩られた時代。携帯もメールも無い此の頃、専ら貴族の婚活と言えば、意中の姫君に恋の和歌をしたためた求婚の文を送り、お気に召した殿方にはお返事の文が頂けるという非常にシンプルかつ遣り方次第では幾らでも誤摩化しが利きそうな、女子に敬遠されがちな男子にも此処ぞとばかりに付け入る隙が伺えるというステキなシステムだ。勿論、顔も知らぬ男女が結婚相手を選ぶ訳なのだからそれなりの基準というモノが有る。1身分。2和歌のレベル。3筆跡や墨付き。それに加えて人柄に対する噂。というほとんどギャンブル級のあやふやさで、昔の人はかなり肝が座っていると見た。
「・・・種継殿。種継殿!」
「はっはい!」
「種継殿はどちらの姫君の御執心で?」
「いやあ・・・私はどうも女子が不得手なもので・・・」
「貴公ももう十八。幾ら名手といえども横笛と添い遂げる訳にもいかないであろうに。」
「はあ。面目次第も・・・」
只でさえ飲酒により赤みのさした頬を更に上気させながら、此の話題からの脱出を試みる種継だった。
此処は京の都、平安京。まだ寒さも残る三月初旬、毎年恒例と成っている帝主催の花見の酒宴での事だった。若い男達が集まれば、今も昔も大差無く行き着く所は女の話。そして此れ以上の酒が進めば此処ではとても書く事すらはばかられてしまう下世話な話へと突き進んでしまう。つーかぶっちゃけ皆下ネタ大好物だべ?若さ故のたぎりと言おうか、熱い恋の話と言おうか、ただの性欲とでも言おうか、つまりは残念ながら色恋よりも下半身の人格が優先されちゃってしまうのが青春の正体なのだ。超余談だけれども恋愛に此れは絶対に切り離しては語れない大切な事だと思う。
御所には梅が盛りと咲き誇り、美しい女房達が甲斐甲斐しく酒を運ぶ。高低問わず様々な役職や身分の方々と合間見栄、舞を舞い声高らかに笑い合う。普段の激務を労うそんな酒宴だった。私は右衛門府大志種継。右衛門府大志と言うのは私の役職だ。有り体に言えば警察官と警備係の兼任といった所か。京都の下級貴族の家に生まれた私には此以上の出世は望めないだろう。宮中では家柄や血筋が尊とばれる為だ。でも、私は其れでも良いと思っている。私には冴えたる才も無ければ、出世の為に身分の高い姫君を娶ろうという野望も無い。只静かに笛でも愛でながら、日々穏やかに過ごしていければ其れで良いと思っている。其の様な私に懸案事項が出来たのは今日の午後の事だった。酒宴を前に帝から突然の御召しがあったのだ。私は取り急ぎ鴛鴦殿へと参上した次第だ。
「貴公が右衛門府大志種継か。」
「はっ!御拝謁恐縮至極に存じます!帝におかれましては・・・」
「堅苦しい挨拶はその辺にしておこう。」
鴛鴦殿上座。其処には帝の座する御座があり、私が控える場所とは御簾によって仕切られていた。私は未だ嘗て帝の御尊顔を拝見させて頂いた事も無い。つまりは其の程度の身分なのだ。
「人払いを。」
厳粛な帝の声に答え、控えていた女房達がさやさやと衣擦れの音を響かせながら退室してゆく。やはり御所に遣える女房達は立ち振る舞いが優雅だ。何れも名家の娘達で気遣いも礼儀作法も心得ている者達なのだ。最高権威である帝に遣える事を誇りに、例え何があろうと帝の信頼を裏切る事は無いと容易く想像できる。張りつめた空気と重い沈黙。緊張のあまり私は動けず頭を垂れたまま冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。帝とは何処までも強大で眩しく、一個人など其の威光の前には消し飛んでしまいそうな存在だった。私の様な身分の者が直接の接見などとはきっと私は大変な事をしでかしたに違いない。琴線に触れたともなれば無事では済まないだろう。只恐ろしく、縮み上がり押し潰されそうな重圧に消滅してしまいそうだった。寝殿には御簾の向こうに御座せられる帝。其の腹心、左近少将成彬様だけとなった。低く良く通る声を響かせ、此の沈黙を破ったのは成彬様だった。
「種継。お前は笛の名手だそうだな。」
「えっ、いえ。その様な・・・私は只・・・」
予想外の質問に、些か面を喰らった種継は気の抜けた声を絞り出すだけで精一杯だった。
「そう堅くならずとも良い。お前の名は帝も御存知で有らせられる。此の平安京一の名手だと聞き及んでいるぞ。」
「はっはい。その・・・恐縮です!」
「良いか?此度は帝内々の頼み事なのだ。決して他言は無用だぞ。」
「・・・はい!」
叱責では無い。其れだけで種継の心は和らぎ、初めて声に艶と力強さが灯った。安堵の余り身体の力が抜けそうになるのを感じながらも何とか気力を持ち直したのだ。やはりふにゃふにゃは最低だ。だって男の子なんだもん。てへっ。
「此を。」
成彬様から手渡されたのは一枝の横笛だった。質素な麻の笛袋、由来は分からぬがかなり古い物のようだ。封を解き、慎重に横笛を取り出した私の目に映る其の笛は、形こそ龍笛ではあるものの笛身は白銀に輝き、うっすらと光さえも放っている様にも見て取れる。其れなのに此の軽さたるや篠竹の如く。私にはとても此の世の物とは思えない代物だった。憑かれた様に笛を見つめる私に、帝からの御言葉があった。
「種継。奏でてみよ。」
「・・・御意に。」
姿勢を正し、丹田に意識を集中する。最早緊張は無かった。此の不可思議で妖しく、恐ろしいまでに美しい此の笛を奏でてみたい。只其れだけだった。もしかしたら私は此の刻既に妖しい魅力を放つ銀の輝きに魅入られていたのかもしれない。
フオッッ・・・・・・・・・・
束の間、ほんの一瞬。弱々しくか細い音だった。渾身の息吹を吹き込んだ種継は、明らかな動揺を隠せずにいた。幼き頃より横笛を愛し、共に育ったと言っても過言ではない。其の横笛を満足に鳴らす事さえ叶わなかったのだ。失態だ。帝の御前で何という大失態を演じてしまったのか!
「見事!」
意外な言葉に一瞬己の耳を疑い、顔を上げた種継の瞳には驚愕と期待が入り交じり上気した右近少将成彬様の顔が映った。