白銀の一枝4
(六)
「るりちゃん!大島のメアドとかラインとか知らないかな?」
教室を出たばかりの瑠璃子に声を掛けて来たのは大沢紗香だった。何の因果か登校前の不毛なゴタゴタで、折角早起きしてまで用意した巨大な弁当を渡し忘れてしまった彼女は、豪太朗という名の食欲魔人を探しに行く所だった。こういう時には「同じクラスだったら良かったのに」なんて思ってみたりもするのだけれども、正直、四六時中顔を合わせて居るのもどうかと思う。男っていうモノは其れとはまた別の感情で本気で腹が立つ事も多々有り、消耗戦を強いられるはめに成る事も覚悟しなければ成らず、アイツの性格は分かっているつもりでは居るものの、分かっているからと言って許容出来るかと言えば其れはまた別の問題だったりする。つまり複雑な乙女心と言うラインで今日の所は収めておこうと思う。
「さあ。ってか本人に聞いてみたら?」
「あっ、いいのいいの。気にしないで。それよりもソレ。マメよね~旦那の弁当でしょ?」
「そう。餌付けしてるの。世間に迷惑掛けない様に躾だけはしておかないとね。幼馴染みとしてはね。」
「そう来たか。確かにその表現の方がしっくりくるわ。九条くんってなんだか動物に近いわ。無神経なトコとか。」
「でしょ?やっぱそうよね!」
「っていうか男ってみんなそうだよね~女の気持ち全然分かってないんだから!かと言ってあんまり気が回る男もちょっとキモいけどさ~」
「そうそう。程度っていうか絶妙な匙加減ってヤツが何で分かんないかな!」
つまりは自分が気に入るか気に入らないかだけの問題の様な気もしない事も無い。此の手の話題に半端な覚悟でツッコミを入れてもまず勝ち目など有りはしないので、ここはひとつ聞こえないフリをするのが得策だ。例え世間からチキンと呼称されたとしても危険を避けて通るのも人生に於いて大切な事だと思う。つーかどうせ危険を犯すのならばもっと有意義な場面で命を張る様に心懸けたいものだ。
「・・・早く持って行かないと餓死しちゃうんじゃない?九条くん。」
「あら。静かになってちょうどいいわ。」
「ほほほ。ま、結婚式には呼んでちょーだい。」
若干不自然なウインクを投げ掛けながら、盛大な思い違いを訂正する事も出来ないまま去って行く紗香に合流したのはいつもの面々だった。傍目に見ててもあのメンバーと大島さんは仲が良さそうとは思えないのに、と僅かな違和感を瑠璃子は感じたものの、両腕に掛かるズシリとした弁当の重さに現実を思い出し、餓死して居るかもしれない男を探しに行くのだった。人様のお弁当に手を出していなければいいけれど、なんて緩い心配を心に思い浮かべながら。
「やっぱ誰も知らないか。」
「どんだけ友達いねえんだよ。」
「・・・どうする???」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・おっ!あったあった。」
一人俯いたままスマホを操作していた田辺奈々は己の収穫を勝ち誇った様に披露するのだ。
「ツイッターで検索してみたんだよ。そしたら。」
「おおっ!流石ななちん。てか本名でやってんのかよ!」
「どれどれ。」
「・・・野良猫の写真?・・・とコンビニスイーツ・・・。」
「うわっ。・・・そりゃぼっちじゃ書く事ないよな。」
「おっ、自撮りも使えそうなのあんじゃん。」
「任せて!あたしのテクで華麗に変身よ!」
「フォロワー13人って、しかもあからさまに業者じゃん。」
「なんか気の毒になってきた。」
「くじけちゃ駄目!フォロワー数は人格を現すのよ。」
「大丈夫だって。ちょっとしたイタズラなんだから。」
「それもそっか。」
「うん。じゃ今晩レイちゃん家で。」
密かな企みは、こうして莟を膨らませてゆく。
(七)
鼠色のコンクリート、聳え立つは権力の象徴、と言う程のモノでもないけれどこの箱物は少年少女達にはさながら楽園か刑務所か。校舎の屋上に吹き付ける冷たい風を、ただデカいだけのまだ頼りない背中一面に受けて、豪太朗はしっかりと背筋を伸ばした。深く深呼吸。そして瞳を閉じて柔らかく呼吸を整える。愛笛「占月」を横一文字に構え、やおら歌口へと唇を添わせる。精神統一。そして渾身の息吹を注ぎ込むのだ。
無音。
継いで一瞬の間。
ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイン!
音色は聞こえず。だた辺りを切り裂く金属音だけが鳴り響く。そう、俺は笛が吹け無い。ガキの頃から幾ら練習しても音が出ないのだ。其の代わり振動の波が広がり、屋上に設えられた鉄製の柵が共振して振動音を響かせている。此の現象に気が付いたのは中学に入った頃だった。学校から帰ると毎日の様に稽古をさせられていたのにも関わらず、いつまでたっても音を出す事すら叶わぬ俺だった。
そう、あれは中一の冬。もうすぐ日付が変わる時間だ。其れでも俺は家には帰らなかった。学ラン姿の着の身着のまま行く当ても無く座り込んで居たのだ。此処は寒い。水の枯れかけた川、其処に掛かる小さな橋、コンクリート製の古い橋だ。其の袂、橋脚に凭れた俺は何をする訳でも無くただ逃げて逃げて辿り着いただけの場所だった。何もかもが上手くいかない。死のうとかそんなんじゃない。出来るならばこのまま奇麗さっぱり消えてしまいたかった。事の発端は学校での出来事だ。もともと浮いた存在だった俺はちょっとしたイザコザで喧嘩になり相手に怪我をさせてしまったのだ。反抗期。それだけじゃない。あの頃の俺は何もかもに嫌気がさしていた。俺が二歳の時に両親が死んだ。何が有ったのか何で死んだのかすら分からない。そんな不審死を遂げた人達の子供には世間は思った以上に厳しかったのだ。噂が噂を呼び、回りの大人達は俺を遠避け友達も出来なかった。教師達も問題児からは目を背け、当たり障りの無い付かず離れずといった所だ。無責任な噂ばかりが俺を塗り潰し、気が付けば奇異な目に何処までも追い詰められていた。家に帰れば俺を引き取り養ってくれている叔父に気を遣い、親父が勝手に言い残した遺言のおかげで吹けもしない笛の稽古だ。まだガキだった俺には、逃げる場所も方法も自分を納得させる手段も割り切る勇気も誤摩化す知恵も縋り付くモノも何も無かった。自分が何なのか何が起きてどうなったのか、闇雲に叫んでみても無意味に暴れ此の身体を傷付けたとしても答えなんて見つかりはしない。誰にも話せない、巻き込めない、でも一人で抱えても居られない。教室で笑い合うまだあどけなさの残る少年達。何処かよそよそしく俺とは交わらない人達だった。こんな話をする訳にも分かって貰えるとも思えない。アイツらみたいな子供に背負えるはずなんて無いんだ。この俺にすらどうしようも出来ないのに甘やかされて育ったアイツらなんかに・・・そうやって独り大人ぶって見下す事で己の自尊心を支えるしか無かった。だから俺は成る可くして独りに成った。人は一度深く深く穴を掘り始めると少しずつ少しずつ壊れてゆく。分厚い不幸の殻に閉じ籠もり、何も見えず何も見ようとせず、真綿でジワジワと締め上げる様に自分勝手に苦痛だけを増幅してゆく。助けて欲しい。生きていても良いと言って欲しい。誰か俺を必要だと言ってくれ!出口の無い咆哮の渦、抱え切れなくなった想いはやがて凝り固まった心を突き破り、回りに傷を付けるのだ。其れもまた稚拙だけれど確かに存在する人としての叫びなのだろう。
そして俺は家を飛び出した。何の生産性も無くただ心配させるだけの卑怯な手段だと分かっていたのに。
「・・・豪太朗。寒いだろ。こんな場所じゃ。」
煙草に火を付けたライターの赤い光に、焦燥の陰が照らし出される。少しだけリズムの狂った足音と地面を叩く杖の音にはとっくに気が付いていた。オッサンが不自由な足で俺を探し回って居るであろう事も勿論分かっていた。
「・・・何だよ。俺の事なんかほっといてくれよ・・・」
「そうだな。お前がいなくなりゃ俺も好きに生きていけるし、嫁さん貰ってガキ共と暮らすってのも悪くねえな。」
其の通りだ。俺なんて邪魔に決まってる。いくら親族だからって俺なんかの面倒みなきゃいけなくなったオッサンの方が百パーセント被害者だ。俺の親は何で俺も連れて逝ってくれなかったのだろうか。嫌われるのは仕方ないけれど、迷惑を掛けながら生きるのは死ぬよりも厭なのに。
「そうすりゃいいだろ・・・始めっから何もかも間違ってたんだ。」
「バカヤロウ!」
左顎にオッサンの拳が飛び、俺は吹っ飛ばされて地べたに転がる。其の拳の重さは骨を伝い鈍い痛みと成って俺の心を真っ直ぐに貫いた。
「それがつまんねえから迎えに来たんだろ!お前が悩んでんのは俺にだって分かってる。でも俺みてえな男じゃどうしたらいいのかさえ分からねえ。でもこれだけは言っておく。何があろうと俺はお前を命掛けで守って見せる!だからガキはガキらしく大人に甘えろ。俺のこの分厚い胸は其の為にあるんだからな!」
大いばりで己の胸を親指で指し示すオッサンに、何故か笑いが込み上げ、重く縮こまっていた心が軽く軽く膨らみ夜空へと弾けて広がった。星が見える。澄んだ空気。水の流れ。大地を踏みしだく実感。そして俺の頬を伝う熱い軌跡。
「お前の親父もお袋も、世間に後ろ指さされる様な事は何一つしちゃいねえ。これだけは信じてくれ。」
空を見上げ旨そうに煙草を噴かすオッサン。涙でぐしゃぐしゃに成った俺の面を見ない角度で喋る気遣いが嬉しかった。写真で見た両親。どんな人なのかどんな声なのかも知らない。いつでも当たり前の様に携えてきた篠笛。其れを手に記憶の中に有るはずも無い彼の人へと想いを馳せる。「毎日欠かさず横笛を吹く事。」きっとこの篠笛を託した気持ちは真実だろう。それだけは今信じられる。
「・・・時が来れば、お前に全てを話す。男同士の約束だ。だから今は堪えてくれ。その時が来て後悔しねえようにいっぱしの男に成っておけ。どんな運命にも負けないように。お前の大切なモノを守れるようにな。」
甥を気遣う厳治朗の目は先刻より漂う不穏な焰を捉えていた。暗く淀んだ負の感情に呼応するかの様に、豪太朗を中心に闇の中より染み出して来た蠢く者達。人は其れを鬼と呼ぶ。
“餓鬼か・・・”
豪太朗の乾き、強い愛情への飢えが呼び寄せた鬼だ。怒りや悲しみ、そんな負の感情に身を任せた時、奴らは人の心にそっと忍び込み其の鬼の本性のままに人心を操る。厳治朗は愛用の杖を閑かに引き寄せた。肌身離さず携えているのは歩行の補助の為だけでは無い、仕込み杖として設えられた愛杖の握り手の内部には、幾枚かの札が忍ばせて有るのだ。豪太朗にはまだ早い。其の目で捉える事さえ出来ないだろう。悟られる事無く始末しなければ。そんな叔父の思惑など思いも寄らず、暖かさを知り解け出した少年の心は、極自然に愛笛へと向かうのだ。吹きたい。ただ其れだけだった。そう簡単に心の整理なんて付くはずなんて無い。上手くは言えないけれど、言いたかった事、聞いて欲しかった事、迷いも涙も全部此処で吐き出してしまおう。受け止めてくれる。きっと此れが独りじゃないって事だと思う。強い強い想いを全て歌口へと吹き込むのだ。
「スーーー・・・・・・・・・・・・・」
矢張りそう都合良く音が鳴る訳も無く、笛身を吹き抜ける吐息の音が詮無く響く。でも落胆はしない。既に心は満たされているのだから。
ギイイイイイイイイイイイイイイイイイン!
突如鳴り響く振動音。橋の欄干が共鳴しているのか。ざわめき水音を上げ始める水面には、豪太朗を中心にして美しい波紋が広がる。
「うおっ!何だよコレ!」
思わず耳を押さえ占月を取り落とす豪太朗。そして目を見開き驚愕の表情を隠せない厳治朗。其の目には甥の放った振動波で吹き飛ばされ、千々に消滅してゆく餓鬼達の姿が映っていた。
「・・・神鳴か!」
遠く遠く共振は広がり行きて、心地良い振動と成って消えた。後には再び訪れた宵闇の静けさだけが残った。地に横たわる占月をまだ震えの残る人差し指で突ついてみたりしてみちゃったりしつつ、若干の逃げ腰を露呈しながら拾い上げた豪太朗はこの未知の現象に、がっつりと心霊現象や未確認飛行物体レベルの恐怖心を発動しまくっていた。そして暑苦しい事この上ない興奮を隠そうともしない厳治朗は、うっすらと涙まで浮かべて戸惑う甥っ子へと詰め寄る何だかちょっくら危ない中年男と化していた。
「お前か!?お前なんだな?お前こそが!」
「え?あの・・・オッサン?」
恥も外聞も無く野外で号泣し始めたオッサンの勢いに気が削がれ、それ以上聞いてはいけない様な雰囲気に飲まれまくった俺はもう何も聞かなかった。大切な事ならもう分かってる。きっとオッサンは其の時が来れば全て話してくれる。そう信じられる。だから俺は今出来る事をしておこう。
「何一人で黄昏れてんのよ?」
真っ昼間の校舎の屋上に胡座をかいて、ついウットリと昔話に浸ってしまって居た豪太朗は、何時の間にか接近を許してしまった瑠璃子の声で我に返る。さらりと隣に座り巨大な弁当包みをさり気なく豪太朗の膝へと置いた。埴輪柄がプリントされた其れは、可愛いんだか可愛く無いんだか良く分からない彼女らしい微妙なセンスのモノだった。弁当を開けると同時に頬張り始めた豪太朗は思って居た。大好物のトンカツだ!しかもヒレとロースが同時に味わえて尚かつソースはマヨケチャだ。幸せだ。俺は今間違い無く幸せだ!・・・そういえば今まで深く考えて来なかったけれど、瑠璃子には世話に成っちまってるよな。あん時も家出した俺を探し回ってくれてたって後でオッサンから聞いたっけ。あの時はなんだか恥ずかしく照れも有り、礼らしい礼も言えなかったような気がする・・・・・・・・・・・・。
「・・・その、いつもありがとな。」
「!ニセモノ?」
「どういう意味だよ!」
「アンタがそんな事言うなんてニセモノなんじゃないかと。」
「何だとテメー!人がセッカク!」
「はいはい。分かった分かった。アンタはアンタのままでいいのよ。他の誰かになんかなれやしないんだから。無理なんてしなくていいわよ。」
「そっそうか。」
「まっ、最低限の気遣いが出来ない男はモテないけれどね。絶対に。何があろうと。壊滅的に。」
「どっちやねん!」
「とにかく!あたしだって厭ならやらないから。」
「・・・そっそうなのか。」
完全に尻に敷かれてるっていうか掌で転がされているというか、むしろ遊ばれてる感も有る。男ってのはなんて切ない生き物なんだろう。ちょっと中座させて頂いて目立たない場所で泣いて来てもいいだろうか。なんて事をアレコレ考えつつも俺達はなんとか生きている。