白銀の一枝19
(四十三)
一糸纏わぬ若人の身体には、傾きかけた緋色の夕日が透け、儚くも美しい人の心を表している様だった。吸い寄せられる様に、地へと横たわる自身の亡骸へとその身を重ね合わせた種継は、静かに目を開き、ゆっくりと立ち上がるのだ。相対した碧姫はただただ言葉も無く頬を伝う涙も流れるままに、真っ直ぐに種継を見つめていた。
「姫。御無事ですか?」
「・・・ええ。こんなボロボロだけれどね。」
「私は謝らねばなりません。帝から御預かりした神器、先の力の行使にて見失ってしまいました。帝に、御兄上様にこの種継が詫びていたと御伝え下さい。」
「また探せばいいわよ。私と一緒に。」
諦めを肯定するかの如く、力無く左右へと首を揺する。
「・・・私は死人です。姫の神通力にてかりそめにこの身体へと留まっているにすぎません。生者と共に歩む事など・・・最早叶いません。いずれ朽ち果て、人では居られなく成る身で御座います。」
寂しそうに幾分か伏せられた瞳。右手は姫の手に依り胸に張られた札に優しく触れるのだ。気が付けば、種継の回りには未だ光を失ってはいない朱宝珠が二つ、詮無き様相で浮かんでいた。
「散り散りに、残り二つになってしまった宝珠。遠い未来、必ず必要になる時が来るでしょう。だから私は鍵の番人と成りましょう。そして、白銀の一枝。かの神器を追いかけるつもりです。この人の世を存続させる為に。そして・・・」
腰紐に指された愛笛「占月」を慈しむかの如く手にした種継は、ゆっくりと碧姫に向かって差し出すのだ。
「私にはもう奏でる事は出来ません。姫の御側に置いて頂きたく存じます。」
ただ見つめ合い。それ以上何も語らえず。秘めたる想いは永遠に交わる事のない墓標へと沈む。
「・・・お心、頂戴致します。」
奏者の血潮と、天照の神通力。何処までも黒く艶やかな笛身に柔らかな白い指が触れる。そして何物の力以上に深く込められた男の真心。口にする事すら叶わぬ想い。その迸りは、雫の様な暖かな生命の煌めきと成り、占月を通して碧姫へと流れ落ちる。種継の恋心は碧姫の肉体へと染み渡り、心を満たした。
「どうか幸せに。其れだけを切に願う。」
そう言い残した種継は、ひらりと舞い上がり、空間に穿たれた件の穴へと其の身を投じる。漂う二つの朱宝珠と共に、闇の中へと姿を消すのだ。それを見届けるかの様に渦の様に回りの空間を引き寄せながら、穴は永久に消失した。ただそれを見上げている姫の目には、未来を見つめる為の瞳を潤す分の涙だけが残されていた。泣いているだけではいけない。まだ私にも出来る事が残っているわ。その決意と共に、姫の下腹には一つの生命が宿っていた。 処女受胎。二人の真心は一つの実を結び、未来へと希望を繋ぐ存在と成る。
「生家は九条に有ると伺いました。ならば私はこれより九条と名乗りましょう。そしてあの方の想いを成就させましょう。」
そして薄紫色の宵の帳が静かに辺りを染上げて、平穏を取り戻した人の世はただ静かに時を刻む。形見となった占月。その艶やかな笛身を大切に袂へと仕舞い、抱き締めた碧姫、否、九条は静やかに瞬く星々を見上げ遠く未来を見つめていた。
(四十四)
「兄貴。どこだよここ。」
「厳治朗。お前ももう十七歳に成ったからな。」
もう二十年近く前の話だ。俺は兄貴に促される儘に出雲へと来ていた。符術師としての修行を粗方終えた俺はあの日こうして此の場所に立ち、木の根に包まれた巨石を見上げていたのだ。
「此処は俺達一族にとって最も重要な場所「天の磐戸」だ。」
「・・・ここが・・・封印の地・・・」
「お前も知っての通り、この封印を守る事が俺達に課せられた使命なのだ。見ろ。あれが太陽の紋。我らが始祖「天照大御神」の印だ。」
ガキの頃から繰り返し聞かされてきた昔話。その神話の地を目の当たりにした俺は言葉も無くただ見上げるだけだった。
「気を付けろよ。この辺りは「封じられし者」に惹かれてくる鬼が多い。お前の作り出したばかりの式神。管狐だったか。念の為に展開しておけ。」
「うん。分かった。臨兵闘者皆陣裂在前!式符顕現!」
今でこそ、念を絞るだけで呼び出せる式神も、あの頃の俺は九字紋に因る集中と術式の力に頼ってやっとの思いで札を使役して居たのだ。白と黒の管狐は未だ小さく、その大きさは厳治朗の未熟さを物語っているかの如くだった。
「・・・かわいいな。」
「だろっ?だろっ?」
グレーのパーカーに擦り切れたジーパン。その締まらない出で立ちの主に、無邪気に纏わり付く式神達には古の名を借りて、白雪と漆黒と名付けた。
兄、惣一朗は二十四歳。既に一人前の退魔師だった。そして俺は何とか札を扱える様になったばかりの頃だった。此の場所で俺は一族の最重要機密、二つの「鍵」の話を聞いたのだ。封印を解く為に必要なモノは二つ。一つは巨石の内部に有る寝殿への扉を開ける鍵。それは天照の血筋を以てのみ開く事の出来る扉の事だ。そして二つ目が、その寝殿へと奉納する封印を解く為の「鍵」。太古に存在した獣だと言い伝えられているが、未だ正体すら不明だと言う。出来る事ならばその獣を滅ぼし、永遠にこの封印を維持したいと、そんな話だった。
「これから戦いへと出向くお前は、人並みの幸せを得る事は難しいだろう。そしていつか志半ばで命を落とすかもしれない。そうまでして戦い続けても誰の目にも触れず、お前に感謝する者など居やしないだろう。そしてお前はそれを不条理に思う時が来るのかもしれない。それでも俺達にはそれを遣れる力が有る。そして戦う理由はそれぞれの心の中に有るのだ。自分の眼で見ろ。感じろ。そして考えるのだ。お前にとって大切な物が何かを。」
そう俺を諭しながら、腰から下げた黒革の笛袋から彼の愛笛「占月」を取り出すのだ。俺は兄貴の笛の音が好きだった。雅楽師でもある彼の横笛は、遥か昔より我一族に代々伝えられてきた破魔の笛。其れは魔を滅する旋律を奏でると謳われる楽器なのだ。
「兄貴!」
俺は身構えた。未だ満足に鬼を調伏した事すら無かった俺が、その身に恐怖を宿らせるには十分な数の邪気を感じたのだ。此の場所だ。此処へ向かって来ている。集まりつつあるのだ。二体の管狐も緊張を漲らせ、背中の毛を逆立てて主の前へと躍り出る。濃密で重い邪気が直ぐ其処まで迫っている。どうする?恐怖は思考を停止させる。焦りは空白を生む。そうだ札だ。札で戦うんだ。やっとの思いでその思考へと辿り着いた厳治朗の鼓膜へと染み渡ったモノは、美しく、清らかな旋律だった。瞳を伏せて遠く遠く野山に響き渡るその調べは、惣一朗の最も愛する曲だった。彼を中心に円周状に広がった音色は、その止めどない波紋に巻き込むかの様に四方に散らばる鬼達を飲み込んでいった。其れは決して激しい奔流に非ず、むしろ心地よい振動と成り、邪気そのモノを鬼本体と共に、無力化してゆくのだ。
その性質は奏者である惣一朗の心根を反映しているのかもしれない。穏やかで透き通る様な彼の人と也を感じずには居られない調べなのだ。次々と消失してゆく邪気の塊に、安堵と兄に対する尊敬の念をその心に沸き上がらせた弟は、心地よいバイブレーションに其の身を委ねるのだ。これ程の力を持ってしても、占月の本来の能力を引き出せては居ない。最初の遣い手と呼ばれる彼の人は「神鳴」と呼ばれる、強力な振動波を発したと伝えられている。以降その境地へと達した者は存在しない。それでも彼の演奏は素晴らしかった。次世代を担う雅楽師として各界からも期待を寄せられている男なのだ。心だ。心が剥き出しに成ってしまう。其れ程に胸を打つ演奏だった。そして、再び静かな山中へと舞い戻った封印の地には、日々の営みを送る動物達と二人の退魔師だけが残った。あの時の旋律は今でもはっきりと思い出せる。そして俺は一生忘れる事はないだろう。
(四十五)
「産まれ落ちる前にケリを付ける!」
件の「天の岩戸」の御膝下、対峙するは今まさに産まれ落ちんとしている正体不明の鬼。 袂を翻し、退魔師厳治朗がその手にしたのは希少な雁皮の和紙に朱墨にて設えた札だった。優雅な光沢に彩られたその札は、彼がひと月あまり掛けて神通力を封じ込めた、言わば奥の手とも言える代物だ。「天上燐光符」朱で描かれた呪文は、厳治朗の性質を現す暖かなオレンジ色の光を滲ませ、弾け飛ぶ様にその輝きを膨らませた。そして天照の血筋である証、金色へとその輝きを変える。札を縁取る鮮やかな光は激しく波打ちその力の激しさを誇示しているかの如く煌々と輝きを増してゆくのだ。
「天地神明 刀拝武神」
暗闇から縦横無尽に襲いかかる鬼達は得体の知れない鬼を守る為なのかそれともその本能が故の攻撃なのか。間髪入れず次々と迎え撃ち叩き落とすのは、見事なフォーメーションで舞う白と黒の軌跡。主の術の発動に備えての露払いだった。激しい金色の光を溢れさせた厳治朗はこう叫ぶのだ。
「猛き者よ其の力に満ちよ!」
輝きを爆発させた札は、金色の光の濁流となり縊鬼へ、そして今正にこの世に生れ落ちようとビクビクとした胎動を続ける者へと襲いかかるのだ。深夜の閉ざされた樹海には煌々とした光が木々の間を縫って爆ぜ広がり、太陽光の如く辺りを照らした。それは闇に生きる者を滅ぼす神の力の輝きだった。身を捩りくねらせ、何とか生まれ出ようと藻掻く脚は、その影さえも膨大な光の中でかき消される。
はずだった。突如天空より舞い降りた金色のベールに厳治朗会心の術は、ゆるゆると降りる水門の様に無情な遮断力で光の奔流を塞き止めたのだ。
「馬鹿な!天岩戸が起動しているのか!?」
低い低い地の底より響き沸き上がる地鳴り、そして金色の結界に包まれる天岩戸と呼ばれる巨石を見上げた厳治朗が見つけたモノは、巨石の頂上に立つ二つの人影だった。
(四十六)
其処は巨木に守られしアメノイワトの天面だった。ありふれた学ランに身を包んだ少年の心は既に此処には居なかった。夢か現かくすんだ瞳で見据えるのは、広さ二十畳程もあろうかという巨石の頂上、その中心に穿たれた太陽の紋だった。直径3メートル程の彫刻は、その掘り筋に煌びやかな光を沸き上がらせ、既に何らかのシステムの作動を示していた。地中深くより響き渡る地響き、其れに促される様に少年は光溢れる太陽の紋へとその足を踏み入れるのだ。一際輝いた紋を中心に天岩戸を包み込むが如く光の輪が広がる。巨石の側面を伝いやがて地面へと広がった。全体を包む光の結界はユラユラと漂うオーロラの様にその濃さ薄さを様々に変えながら起動した封印の地の守りを固めた。その袂には縊鬼と産まれかけている獣、それに対峙する退魔師は結界の外から、この「始まり」を見上げているのだ。少年の背中を見つめている少女は力無くその場に座り込み、己の役目を終えたとでも言わんばかりに静かに目を閉じた。やがて門の鍵と成る天照の血を認証した天岩戸は、祭壇へ扉を出現させるのだ。少年が立つ紋の正面、巨石の中より巨大な扉が迫り上がって来る。轟々とうなりを上げて、天へと立ち上がりし門は少年の3倍以上の高さを誇り、磨き上げられた一枚石で出来た観音開きの扉、その表層には淡く輝く光球が左右比対処に並んで居る。そしてその間を繋ぐ幾何学的なラインと文様は鈍く漏れ光り、黒く冷たいその体躯は巨木の幹を背に額縁に収まる一幅の絵の様だった。少年はその門へとゆるゆると手を伸ばすのだ。
(四十七)
「くっ!奴の狙いは最初から豪太朗だったと言うのか!」
頂上から迸った光の輪は、大地に横たわる縊鬼を飲み込み、結界の外へと広がる。そして同
じくその光を浴びた厳治朗は膝から崩れ落ちるのだ。左足に走る高熱、己の肉が燃え上がるの
ではないかと思う程の熱。否。激しい痛みだ。
「・・・共鳴してる・・・だと!?」
濃灰の袴は、鬼を封じ込めし傷口より噴き上げる業炎に焼け落ち、男の太腿を露にする。ジリジリと崩れ落ちつつ有る結界符に、新たな札で再封印を施すものの焼け付く様な痛みは衰えもせず、今にもその焰にて更なる札を飲み込もうとしている有様だった。
”コイツ・・・イワトを知っているのか?“
目の前に出現した金色のベールは縊鬼を擁するアメノイワト一帯と、厳治朗が存在する外界とを分つ結界だった。豪太朗の身体に脈々と流れる天照の血に反応して、そのメカニズムを起動したアメノイワトは扉を開くにあたり外敵の侵入を防ぐ措置を施したのだ。図らずも内部に鬼を迎え入れる事になったのは皮肉な結果だった。真っ直ぐに結界内を見据える厳治朗の目の前で、暫しの時を得た件の鬼はだらしなく開け広げられた縊鬼の股の間から、ずるりずるりと生れ落ちるのだ。その異形はゆっくりと天を仰ぎ、獣の咆哮を上げる。
”!・・・こっこれは、まるで・・・アイツじゃないか!“
件の獣は複数の動物を掛け合わせた姿をしていた。百足の身体に沢蟹の爪、背中には鷺の白き翼。釣り上がった狐の面には赤い瞳が輝き、のたうつ長い尾は大蛇の其れだった。その自然の営みを無視した不自然な姿は、かつて厳治朗が見すえた奴を彷彿とさせるのだ。
「・・・やった!やりました主様!!!この縊鬼が天照の血筋を手に入れ、そして新たな鍵を産み落としました!此の子は私の子、母の言う事なら何でも聞きまする。さあもう直きもう直き主様がこの世に復活なさる!あな嬉や!!!はははあははははあははは!!!」
鳴動する己の太腿へと勢い良くその視線を落とした厳治朗の額には驚愕の皺と汗が浮かび上がる。
「鍵だと言うのか!!!」
苦み走ったその表情には激しい焦燥が見て取れた。今此の時。鬼の手によって封印が解かれようとしている。そして起動したアメノイワトに反応した獣、恐らくは悠久の時の中で行方不明だった本物の鍵であろう獣が出口を求めて蠢き出したのだ。コントロールされている豪太朗。お嬢ちゃん。縊鬼と生み出されたスペアの鍵。そして厳治朗の行く手を阻む天岩戸の結界。どうする?どう出る?秒読みの始まった世界の終わりに焦りと苛立が交錯する。絶望と戦う厳治朗の目の前で、今まさにこの世の終焉が静かに舞い降りようとしていた。




