白銀の一枝18
(三十九)
暗い暗い天鵞絨の様な闇だった。しっとりと絡み付く空間は上も下も左右も分からぬ儘だった。ただ無為な闇に抱かれし種継は、ぼんやりとした意識の中で自分は死んだのだと確信していた。産まれた儘の姿、否、魂そのものの姿で漂う彼の回りをさらさらと水の様に、空気の様に流れる奔流があった。其の流れのに浮かんでいるかの様にふわふわとした柔らかな居心地だった。何も聞こえない。流れが紡ぐ音以外には。何をしていたのかも、何をするべきなのかも次第に薄れて彼の意識は闇に溶けようとしていた。一瞬、深く沈んだ気がした。光。その流れの中で、光を見たのだ。しっかりと閉じられた瞼越しに、頭上から近づいては足下へと流れて行く様々なヴィジョンを見たのだ。光。その光の中に広がる風景・・・。
それは金色の光に満ち溢れる空だった。見覚えの有る山の上には天浮舟が浮かび、だがしかし先程まで搭乗していた物とはどこか違う。そして金色の光の源は疑いようも無く其れだった。圧倒的な力。だけれど恐怖やプレッシャーなどではない。何故か懐かしく、全てを委ねていたいそんな力だ。神だ。これは神の力に違いない。そして天より静かに舞い降りる巨石。地響きを立てながら山肌へと着地した巨体は、神の力である金色の光を受け、鏡の様にその光に輝く。山裾に立込めた燃え上がる焰の様に蠢き漂う黒き靄、不吉な胸騒ぎを覚える霞んだ風景はその金色の光に押し潰される様に、低く低く地表へと追いやられ逃げる様に地面へと地中へと染み込んでゆく。やがて金色の光一色に染上げられた山麓は一切の不浄を許さず、純粋な聖域へと変化を遂げたのだ。
「要石よ。我が式神を鍵と成し、悠久の封を今ここに成し得ん。」
天浮舟の主はそう言霊を放ち、淡く朱を帯びた銀の宝珠を中空へと放つのだ。五つの宝珠は一つとなり、式神本来の姿を現す。巨大な獣。光の加減か細部までは見ては取れないものの、幾体かの見知った動物の複合体の様に見えた。その巨体は要石と呼ばれた巨石へと舞い降り、その石の中へと吸い込まれる様に消えた。一瞬強い光に包まれた要石からは、五つの宝珠が弾き出され、それぞれが虚空の彼方へと其の姿を消す。
「封を破る事なかれ。幽冥界への扉、開く事違わず。彼の者を御する一枝を残さん。」
前触れも無くふんわりと上昇を始めた天浮舟は、金色のカーテンを纏いながら天へとその姿を消し、其れと共に空は淡い碧へと色を還る。
薄れゆく景色は、種継の足下へと流れてやがて見えなくなった。幾多も流れ続ける光の粒達は彼の頭、心の中を通過して様々な風景を垣間見せるのだ。また一つ光の中へとその意識は入り込みまた別の景色を眼前に展開するのだ。
小さな少女。ここは見覚えが有る。平安京だ。碁盤の目の様に走る大路を、可憐な桃色の着物が汚れるのも構わず走り回る少女。どうやら何かから逃げている様子だ。辺りを行き交う人々。銘々に日々を送る町人達。笑い。怒り。泣き。想い。小さな逃亡者を避けながら、ある者は顔をしかめ、またある者は微笑みで見送る。そんな街角の風景だった。
「姫様。御逃げ遊ばれても無駄で御座いますよ。」
「うっ・・・」
ついに追いつき、にこやかに声を掛けたのは一人の公達だった。知っている。その顔に見覚えがあるのだ。
「ずるいわ!陰陽師の術を遣うのは反則よ!」
「ほっほっほっ。ではそろそろ脱走は御止めくださいますかな?」
「・・・!」
小さな声だった。すぐ近く、辛そうに鳴いている声。犬?そうだ子犬の声だ。細い路地。あっちだ。小さな姫が見つけた物は茶色い子犬だった。後ろ足には赤い血が滲んでいる。
「ほう。怪我をして歩けなくなってしまったのですな。」
小さな姫は躊躇無く子犬を抱き上げる。血液は桃色の着物を容赦なく汚すのだ。
「ねえ。怪我を治してあげて。」
「宜しいですとも。しかしながら姫様。あなた様にも出来るはずですよ。」
「だって、神通力って難しいんだもん。」
「大丈夫。大切なのは、想う心です。術式は形にすぎないのですよ。」
「・・・よく分かんない。」
「では、其の子犬を助けたいですか?」
「もちろん!」
「あなた様には其の力が有ります。其れをお遣いになられますか?」
「うん!」
「大変結構。それで良いのです。天照大御神の力とはすなわち、誰もが持つ優しさなのです。
傷に手を当ててごらんなさい。」
そっと当てられた小さな手。
「余計な事は頭から追い払って。傷を治す事だけを考えるのです。そして願うのです。」
小さな身体からは次第に柔らかに金色のオーラが滲み出る。口の端を引き締め、額に汗する姫君は掛け値なしの純粋な心、それが奇跡を顕現させるのだ。
「キュン?」
不思議そうに自らの後ろ足を見つめる子犬。先程までの痛みは消え去り、未だ残る血液の跡の臭いを嗅いでみるのだ。そしてピルピルと動かしてみる。動く。痛くない。最大限の喜びと感謝の念を現す子犬は、兎にも角にも姫の顔を嘗め回すのだ。
「ちょっちょっと!くすぐったいってば!」
「ほっほっほっ。そうです。あなた様の血筋、帝の血族の力は、想いの強さなのです。強い意志がなければすぐれた神通力も引き出す事は叶いません。いやはやしかし御見事で御座います。将来が楽しみですな。」
「よし!お前の名前は吉野だ。」
「は?」
「剛賢。この者の世話を命じる!」
「え?私がで御座いますか?」
「そう。第三皇女碧の名に於いて命じます!」
「・・・・・御意。」
見覚えのある金色のオーラ。そして何よりも面影の残る顔立ち。そうだったのか。あの御方が碧姫様で非せられる。私の主の妹姫様。複雑な想いは種継の心を過る。しかし自分は死んだのだ。何もかも過ぎた事なのだ。
急速に縮んだ光の粒は、緩やかな流れに乗り種継の足下へと流れてゆく。幾つもの輝きながら流れてゆく光の粒は何処から来て何処へ向かうのだろうか。そんな考えが頭に浮かぶ間もなく新たな光が広がるのだ。
横たわるのは素朴ながらも輝きを持った女性だった。見慣れない額の二本の角が明らかな人外の者だと告げていた。全身に漆黒の力を纏ったその女の傍らには、金色の力を輝かせる男が寄り添い、決して混ざり合わぬ二人のオーラは渦を巻き反発すら示している様相だった。しかし二人の瞳は互いを見つめ合い、穏やかな心地よい空気が通い合っていた。一糸纏わぬ二人の姿は美しく、愛し合っている事など最早疑う事など出来なかった。
「ワカヒコさま・・・」
愛し合う二人の向こう側には何れ産まれるであろう、黒と金の力を兼ね備えた赤子が透かして見えるのだ。そしてその先には幾重にも重なり連綿と続くであろう二人の子孫達が続いてゆく。果てしなき未来。そこに何処か見覚えの有る女がいた気がした。毒々しい美女。あの女だ。あの鬼女に違いない。そして次第に広がる視界には、荒れ果てた地表、横たわる己の亡骸、対峙する碧姫、美しい十二単は切り裂かれ泥に塗れ痛々しくも儚げに見える。厭らしい笑いを其の顔に浮かべた鬼女の前に、膝を付き今にも倒れ伏しそうな姫の姿が種継の心を覚醒させる。
「碧姫!」
(四十)
まるで降り注ぐ流星群の様だった。強い金色の光を放つその力は紛う事無き神通力、神の力だった。鬼であるはずの姫御子が嬉々として神の力を揮う姿に、ただただ結界を張り攻撃を凌ぐ事だけしか出来ぬ碧姫だった。決して力で劣っている訳ではない。心だ。今の姫には何ものに変えても遂行するだけの強靭な意思が欠けているのだ。例えようも無い重い悲しみと孤独感、そして何よりも種継の死を受け入れられない彼女の心が、外界への扉を閉じつつあるのだ。荒廃した地面を砕き荒ぶる土煙が、ほんの僅かな時間だけ視界を奪う。無情にも姫巫女の接近を許した間合いには、セピアの無音映画の様に硬質な刻が満ち、力無く項垂れ乱れた碧姫の袂からは、澄んだ音色を伴う宝珠が輝きを放ち、姫御子の持つ其々と惹かれ合うように共鳴を始める。袖は突風に煽られるが如く翻り、合わせからは赤みを帯びた銀の光が岩に打ち付ける滝の奔流の様に吹き出すのだ。邂逅は目覚めを呼ぶ。同じく光の迸りを噴き上げる姫巫女の掌、そして銀光が五つの宝玉を繋ぐ。それは一つに、元有る姿へと戻ろうと胎動を刻み始めた証であった。
「しまった!」
其れはつい口を付いた本音だった。こうも容易く封が解けるとは思いもしなかったのだ。これではどちらにせよ、全て集め終われば鍵は復活してしまうではないか。焦燥は何も産まず、何かを、誰かを恨み呪った所で現実を変える力になどなりえはしない。それは己の与り知らぬ事実を夢想する事さえも阻むのだ。真実は、強力な神通力に、己の主が迎えに来たのだと信じた件の獣は、自ら活動を再会したのだ。
「ひひひひひひひひっ!これで主様の封印は解ける!鍵となる獣、奴を制する銀笛、そして其れを遣う奏者の魂。全て手に入れたわ!妾の勝ちじゃ!」
光棚引く五つの宝珠は宙へと舞い上がり、円を形作り回転を始める。強烈な光は辺りを包み、今一つの命へと昇華するのだ。
”いけない・・・世界が終わる・・・“
(四十一)
「・・・妾の勝ちじゃ!」
その声は確かにあの鬼女の物であり、それはまるで荘厳なサロンで奏でられるピアノの様に反響している。
“此処はあの女の中なのか?・・・だとしたら・・・“
そうだ。戦いは終わってなんかいない。例え死したとはいえ、こんな所でおめおめと寝ているなど潔しとせず!手を伸ばし、足を踏ん張る。ゆるゆると闇に、姫御子の体内で溶解され崩れ始めていた身体にありったけの力を込める。動く。まだ動ける。集中するんだ。姫のお言葉の通り、精神集中、感じるんだ。その存在を。この闇の中でもきっと答えてくれはず。
”白銀の一枝よ!!!“
遠く遠く仄かな淡い光だった。果てしなく続く暗闇の中で、月明かりの様に儚く、しかし力強い銀色の光だった。種継の声に答えた銀笛は脈動するかの如く明るく暗く、己の居場所を知らせるように点滅するのだ。
”見つけた!“
種継は走った。身体は崩れ出し、思うように制御出来ず、 ぼやけた輪郭は墨色に滲み、力という力全てが溶け出してゆくのだ。それでももう立ち止まりはしない。私に出来る唯一の事、白銀の一枝を取り戻すのだ。そして・・・。
闇は更にその濃さを増し、空間に物質化し始めた抵抗が彼の行く手を阻むのだ。次第に形を現した其れは黒く、ビッシリと棘を蓄えた茨だった。身体に絡み付き、崩れそうな体躯を傷つけ削り取る。もうすぐだ。もうすぐ手が届く。それは茨の鞠。幾重にも触手の様に絡み付く黒い茨が球状に形作る繭だ。その内に籠る様に、茨の幌を通して漏れ光る白銀の光。鳴動。私には分かる。波紋の様に広がる鼓動が、己を手に取れと私を呼ぶのだ。守りたいのだ。大切な物を。
”碧姫!!!!!“
無数の茨の刺など種継の問題には成り得なかった。己の魂を傷つけようとも躊躇など有り得なかった。指の先まで力に満ち溢れた逞しい腕が、神の武具である銀笛を掴むのだ。姫巫女の体内で、神器の力を吸い喰らう為の触手の役割を果たしていた茨には、奏者の力を持つ種継の魂をも喰らい銀笛を扱う力までもその身体に宿そうと襲いかかるのだ。暗闇から無限に現れ、種継の素肌にその刺を、有刺鉄線の様にビスビスと突き刺し全てを支配しようと体内を抉るのだ。静かに瞳を閉じる。固く握りしめた右手、その指の間から漏れ輝く白銀の光は次第にその光度を増し、目映いばかりの光を溢れさせる。極度の集中。余計な事は何一つ心から追いやり、一番大切な事だけで満たすのだ。強い光に当てられた黒色の茨は張りを失い萎びてゆく。輝く歌口にそっと唇を添わせた種継は、息吹を、否、己の願いを白銀の一枝へと吹き込むのだ。
(四十二)
高笑いを響かせながら中空へとその身を躍らせた姫巫女だった。勝利を確信したその歪な笑顔は、件の宝珠群へと白い手を伸ばすのだ。碧姫は立ち上がり背筋を伸ばした。姫に残された選択肢はそう多くは無い。自分の弱さが終末を呼び起こしてしまった。個人的感情で大局を見失ってしまったのだ。暫し目を閉じ、心を研ぎ澄ます。ありったけの念を凝らし、全てを賭した最後の抵抗へと打って出る。
”兄様。碧は此処までのようです。言いつけに背く私を御許し下さい・・・後は御任せします。“
神通力の源はその霊格だった。神の御霊を受け継ぐその魂を爆発させ超常的な力で現状を打破しようと碧姫は覚悟を決めたのだ。無責任かもしれない。逃げかもしれない。それでも今、止めなければならないのだ。
”私の命で、今暫くの猶予を作る!・・・あの人は私を迎えに来てくれるかしら。そうね。きっと大真面目な顔して私を叱るわね。“
僅かに口の端を上げて微笑んだ碧姫は、全身に金色の光を纏い、静かに己の限界までその魂を燃え上がらせるのだ。そして厳かに顔を上げ、姫巫女を見据えたその刹那。
弾けたのだ。爆弾がその爆圧にて己を封じる枷を引きちぎる様に、姫巫女という名の枷を内部より弾けさせたのだ。其れに因り空間へと広がった強大な衝撃派は、燦々と宙を舞う朱宝珠をも吹き飛ばし、ふいに千切れた真珠の首飾りの様に、バラバラと地上へと不揃いな澄んだ音を響かせる。碧姫の目には一瞬だけ目を見開き固まった姫巫女の最後の顔と、飛び散った肉片であったであろう塊は砂の様に塵の様にふんだんに空気を含み、ハラハラと詮無く地上へと降り注ぐだけ。かと思われた。そう。それはまるで古いキネマの逆回転の様だった。碧姫の視界の中で元有った場所、爆心地であったであろう件の場所へと向かい吸い込まれる様に集結してゆくのだ。穴だ。姫巫女の心の臓の辺り、今は中空と相成ったその場所に、チリチリとイオン光を纏う黒色の穴が浮かんでいるのだ。ぽっかりと空間に穿たれた拳大の其の穴が、姫巫女の全てを鬼の悪意を残さず奇麗に此方の世界から吸い出してゆくのだ。其れは爆発に因り破れた空間の綻びだった。其の先には何があるのか、何処へと通じているのか。そして何処へと向かうのか。暗黒の宇宙空間に燦然と咲き誇るブラックホールの様に、堂々と片時もブレる事無く、ただ当然の行為と言わんばかりに其処に存在していた。事の顛末をただ見つめる事しか出来ずに居た碧姫はふいに瞳を潤ませるのだ。
最初に手が、そして腕が続く。質量を増した暗黒の重力の塊、その穴を押し広げ、向こう側から姿を現したのは紛う事無く彼だった。
「種継!!!」




