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白銀の一枝  作者: 鷹司蒼志
17/21

白銀の一枝17

(三十六)


 大島智子、否、縊鬼は膨らんだ腹にその身を反らしつつ、その背後に聳え立つ巨石へと華奢な背なを預けた。冷たい石の感触にゾクゾクと込み上げる喜びを誰に隠す事も無くその顔に浮かばせた彼女は瞳を閉じ、心地よい子宮の慟哭を噛み締めて居た。其れを受け止める巨石には幾重にも朴訥な木の根が絡み付き、まるでその手指で石塊を掴み取ろうとしているかの如くの様相だった。木の根に抱かれた石肌には何かしら紋章の様な文様が穿たれて、悠久の刻、それは長い年月の風化に蝕まれ今はぼんやりと形を留めて居るにすぎなかった。下界の喧噪は徐々に此処へと近づいて来ている。そう、鬼達の悲願を果たす為に。


 暗闇の中にチラチラと瞬く小さな点が、やがてその足音と共に大きく大きくそして視界へと入る。それは二体の管狐を従えた退魔師九条厳治朗の姿だった。行く手を阻む鬼共を粗方片付けた厳治朗には迷いなど欠片も存在しなかった。眼前に聳え立つ巨石。そしてそれを覆い包むかの様に生い茂る巨木。上空には空一面の星すらも覆い隠してしまう程の隆々とした枝振りとそれを支える逞しい幹。思った通りだ。やはり奴は此処に居たのだ。見上げる厳治朗の目は、石肌に掘られた太陽の紋を捉えていた。鍵を手に入れたとすれば向かうのは此処に決まっている。そう。アメノイワトだ。だが解せぬのだ。此の祭壇への扉は奴らでは決して開けぬ代物だ。鍵だけ手に入れたとしてもこの封印を解く事など出来やしない。だからこの俺を、天照の血を引く俺を誘き寄せたのかもしれんが、媚薫香も効かずそして人質と成り得る少女も取り戻した。彼女の身体には天照の印を施してある。彼奴等には見つけられやしないだろう。奴らめ。何を企んでいる?


 封印の地「天岩戸」俺達一族が代々守って来た聖地だ。何年ぶりだろう。此処へ来るのは。一陣の風に半ば身を任せながら己の敵を見据える厳治朗の眼前では、元は純白で有ったワンピースから無造作に露出した脚部をだらしなくM字に広げたままの縊鬼が、祭壇への入口となる巨石を背に座り込んでいる。土灰色にくすんだ肌はかつてキラキラと若い生命力に溢れた少女の面影は見る影も無く、其の身体を支配した鬼の属性のままに醜悪に変形し、異形の者へと変わり果てていた。死に瀕しているが如く肩で浅い息をして、不自然に膨らんだ下腹部が哀れさを殊更に引き立てる。


「・・・臨兵闘者皆陣裂在前!」


 素早く九字紋を切った退魔師、件の指には既にオレンジ色の光に満ち満ちた一枚の札が握られていた。その呼吸に合わせるかの如く白と黒の管狐は術者の周囲を舞い踊り、それぞれの能力、それぞれの輝きを身に纏い、今ここに札と式神に因る合体術が発動する。これが厳治朗が得意とする退魔術なのだ。風が舞い、空気が震える。力を集約し、張りつめた緊張感が頂点に達する。


「縊鬼よ、闇へと還れ!氷華円舞・斬!」


 高らかに厳かに、低音のよく響く声にて彼の術を解き放つ厳治朗。二体の式神は札のエネルギーを得て、目映いばかりの輝きの中で、片や淡雪のようなしかし頑強な氷の粒をはらんだ吹雪をその口より吐き出し、片や漆黒の毛皮纏う管狐は超高速の鎌鼬をその息吹にて生み出す。二本の奔流は相互にその力を増幅させながら一体と化し、魔を切り裂き粉砕する氷の刃と相成った。そして渦を巻き荒ぶるトルネードの様に大島智子の身体を支配する鬼へと襲いかかる。


「!」


 狼狽えたのは厳治郎の方だった。届いて居ないのだ。唐突にニュルリと出現したモノに遮られ、縊鬼の元へと到達出来ずその力の奔流を無為に散らされてしまうのだ。甲殻類の爪を思わせる節くれ立った脚、妊婦がその目的を果たすように少女の広げられた両足の間、暗く湿った部位から力強くそそり立った一本の脚は、己の生誕を妨げる何者に対しても向けられた防衛本能とでも言おうか、この世への渇望さえはらんだ無邪気で真っ直ぐな至極当然な感情を、目の前の男へと叩き付けるのだ。中空3メートル辺りから叩き降ろされる硬質な爪を、寸での所でかわした厳治朗は独り言ちた。「これ程の鬼がまだこちら側に居るというのか!」本体は未だ少女の体躯に守られて、顕現したたかが爪一本でこの妖気だ。生れ落ちてしまえば殊更に、遥かに強大な力を発現するであろう事は火を見るよりも明らかだった。地表に漂い沸き上がり纏わり付く重く冷えきった奴の気の流れが、厳治朗の身体を包む。背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、切り札ともいえる最強の札をスラリと構えるのだ。


(三十七)


 草木生い茂る山道には街灯などあるはずも無く、仄かな月明かりだけが豪太朗の足下を照らして居た。叔父はきっとこの道を行ったに違い無い。そう信じ、足跡を辿るのだ。時折足が重く何も無い場所で躓いてみたり、疲れと斜面のせいだろうと特には気にも留めなかった彼の足下には、未だ蠢き体液を撒き散らす鬼達が散らばっているのだ。豪太朗の目では未だ認識する事さえ叶わない闇の者達、知らず知らずそれらとの戦いに身を置こうとしている事など、今の彼には知る由も無かった。岩が剥き出しになった段差、木の根が露出した小道、小さなせせらぎ、暗闇に支配された山道を一心不乱に歩む彼の視界に、先程遠景にて捉えた巨木が其の距離を詰めて、ぽっかりと開いた木々の隙間から突然の様に現れた。気配。確かに誰か居る。オッサンに違いない。やっと追いついたのだ。そう顔を上げた豪太郎の視界を占めたのは、見慣れた人物だった。


「るっ瑠璃子!お前何やってんだよこんなトコで!皆心配して・・・」

「ねえ。豪太郎。」


 理由なんて考える余裕も無かった。人里離れた仄暗い山中の、行方不明だった彼女の存在なんて。艶っぽいのだ。いつもと違う鼻に掛かる声で、少し伏せた瞳を潤ませながら豪太郎のゴツい体躯へとそのしなやかな両手を絡める。


「おっ!おいっ!ななななななんだよ!あのっそのっ・・・どーしちまったんだよ・・・!」

「うふふっ、かわいい。」


 耳まで深紅に染上げ、何だかんだ言ったってイザと成れば意外に純情な思春期男子は、この降って湧いた状況に動揺を隠せず、童貞感全開でただただ硬直してしまう事しか出来なかった。早鐘の様に打ち鳴らす心の臓が飛び出さんばかりの胸板に、瑠璃子は静かにその顔を埋め、じれた様にこう聞くのだ。


「あたしの事好き?」

「えっえええええええっと・・・・」

「あんたって何も言ってくれないから、ずっと不安だったの。苦しくて切なくて・・・こんな思いをさせられるくらいなら、いっそ死んでくれたらいいのに。って。」

「!」


 己の耳を疑う言動に一瞬だけ正気に戻った豪太朗の唇に、瑠璃子のそれが押当てられる。彼女の唇は甘く官能的な香りに満ち溢れ、優しく体内へと吹き込まれた気怠い息吹に心まで犯され始めた豪太郎の目からは、ゆっくりと生気が失われ深い深い微睡みの中へと落ちてゆく。二人の記念すべきファーストキスは愛を確かめ合う行為などでは無く、狂気へと落ちてゆく死の儀式だった。






 眼前に広がる富士山系。巨大な土煙を上げる、元は風穴だった場所には一人の女が立っていた。黒く長い髪に映える青みがかった白い肌。極彩色の毒々しい赤と金の十二単。ニヤリと厭らしい笑みを貼付けた唇は紅く、嘲り笑っているようにも見える。辺りには整然と並ぶ鬼達、まるでその美しい女にかしづいているかの様に、静かに厳かに息を潜めている。


「天照の娘も容易いものよのう。妾の手に入れし銀笛の力の前には蛆虫も同然じゃ。」

「は・・・い。姫・・・巫女さま。後は・・・掘り返して、鍵を。」


 近衛兵の様に女の後ろへと控える巨大な鬼は、姫巫女と呼ばれた女の手に握られた朱宝珠を見つめていた。これで我らが悲願、憎っくき天照に封じられし主様をお助け出来るのだ。目の前には天照の結界ごと破壊し尽くされた山野が土色の荒野を晒していた。そこには動くもの一つ、生きている者一つ見つけられなかった。音も無く静かに整然と、地下空間を押し潰し平らに成った瓦礫へと鬼の一個隊が進み出る。こんもりと盛り上がった瓦礫、吹き抜けた風の仕業かその一欠片が乾いた音を伴い崩れ落ちる。そして一瞬だけ地面が膨らんだ気がした。


 轟音を共に地を割り中空へと躍り出したのは、碧姫の式神、土を司る土竜だった。焦げ茶色のゴツゴツとした鱗に覆われた其れは、鰐にも似た体躯、背中には鳥盤目装盾類を思わせる背板が立ち並び、厳つい両腕の爪は大地の中を縦横無尽に掘り進む為の物だ。背板の間にその姿を潜め、絶望に押し潰された地中より生還したのは紛れも無く件の二人だった。間髪を入れずに周囲に拡散する破魔の笛の音は、周囲にかしずき突然の襲来に備えすら整わぬ鬼達を弾き飛ばし、その一角を瓦解させる。


「五神が一、鎌鼬!その刃を揮え!」


 其の手に鈍い銀の輝きを湛えた珠を携え、舞う様に優雅に袂を翻した碧姫は良く通る声で命を飛ばす。顕現した淡い光を放つ一体の獣、其れは光の軌跡と成り、慌てふためく鬼達を切り刻むのだ。其の先の梢にて一時動きを止めたその獣は、山吹色の毛皮に包まれた鼬の如き出で立ちで、長い尾には紫の毛色にて雷にも似た文様が張り付いて居た。俊敏なるその動きは人の目などでは捉る事叶わず、口から発する超高周波にて造り上げる真空の刃、それが鎌鼬の正体だった。


 さらりと身をかわした姫巫女は優しく瞳を閉じつつも、口の端を捩じ上げた冷淡な笑みは決して崩さず、軽々と振るわれた紅い袂は、波状に襲いかかる鎌鼬も破魔の旋律でさえもいとも容易く去なすのだ。その姿は皮肉にもまるで舞っているかの如くだった。


「奴だ!」

「ええ!やっと追いついたわ!」


 碧姫は素早く己の五体の式神を展開していた。宙を舞う極楽鳥の背へと飛び移った二人は、上空より姫巫女と対峙するのだ。品格を蒼白の顔面に貼付けた姫巫女は、まるで五条大橋の欄干を飛び回る牛若丸宜しく軽やかに後方へと跳躍し、その足下を黒い邪気に満ちた大波が溢れ出してくる。


「くっ!数が多すぎるわ!」

「奴を見失ってしまう!」


 其れは漆黒のベールの様に、不意に襲いかかる望まぬ絶望の様に、二人を、否この人の世全てを押し潰そうとしているのだ。際限無く溢れ出してくる鬼の大群に、姫は件の木札を宙へと放ち、瞬時に具現化した天浮舟へと乗り込む。種継は猛々しい雄牛の背へとその身を置いた。


「やるわ!暫く凌いで!」

「はっ!」


 力の限り楽を奏でる種継。蠅の様に闇雲に集る鬼達の攻撃に、常時展開されている天浮舟の結界すら揺るがされ、次第に視界すらも黒に霞む。伴う轟音に姫の声すら届かなくなっていた。隙間を縫い掠める攻撃に、切り裂かれた狩衣からは汗ばんだ素肌が覗き、あちこちに赤い枝垂が浮かび上がる。痛みから意識を反らし一心に集中した種継は、体内の全ての息吹を使い切るかの如く戦う。だがしかし彼にも限界が有る。そう長くは保たないだろう。それでも、姫を信じて戦うのみだ。


 極度の集中に入った碧姫はうっすらと金色の光を纏い、五体の式神へと神通力を飛ばすのだ。

白鯨、極楽鳥、土竜、鎌鼬、猫又。軽やかに宙を舞いつつそれぞれの力へと具象化した式神達は、碧姫の心へと応じ華麗に飛び去り、富士山の側火山である宝永山、その今は休眠しているであろう火口へと集う。火口を中心に規則性を以て並んだ五体の式神は、臨界を湛えつつ主からの命を待つ。


「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」


 厳かに、そして高らかに。白魚の様なしなやかな指は中空へと九字紋を描き、その光の軌跡を棚引かせて神秘的な情景を醸し出している。


「天照の御名に於いて、我は命ずる。」


 其の刹那。五体の式神を繋ぐ様に光の矢が駆け巡る。各式神を頂点とする光の五芒星が描かれるのだ。その中心には宝永山の火口が位置し、低くしかし力強い地鳴りが地中深くから直ぐ其処まで沸き上がって来る。


「地竜よ。荒ぶる力を此処に解き放て!」


 轟音。激しい振動に山全体が軋む。大地震。富士山を中心とした地脈の流れに添って爆大なエネルギーの奔流が流れ込むのだ。一点に集中した荒ぶる地竜は、堪え兼ねたかの如く爆裂し、天を裂くような爆音と共に真っ赤に燃える岩石を、焰を灰を水蒸気をその燃え滾る口より吐き出しながら、己の頭上高く噴き上げるのだ。激しく続く地震は永遠とも思える絶望を運び、阿鼻叫喚の地獄を生んだ。上空にまで達した噴煙は日の光を遮り、仄暗い風景はやがて火口を溢れ地裂に添って濁々と流れ落ちる赤に染まった。灼熱の溶岩流に薙ぎ倒され燃え上がる木々、降り注ぐ礫に其の形をも変える大地。


 種継は姫の力の凄まじさに息を飲んだ。呆然と見つめる瞳の先では、降り注ぐ火山岩塊に押し潰される異形の群衆、巨大な赤い河と化した溶岩流が逃げ惑う鬼達を飲み込みその清浄なる炎にて焼尽くしていく。辺りはジリジリとした高熱に因る上昇気流が発生し、積乱雲を形作る。やがて降り出した鉛色の雨は、煙で霞む富士山系を冷たく濡らしてゆく。水分を含んだ火山灰は重く重く降り積もり、雨水によって冷やされた溶岩流からは朦々と湯気が立ち上る。極度に上昇した湿度に、まるで亜熱帯の様な不快な空気が激しい対流を生む。火口から上空へ十五キロ程の高さまで急上昇した天浮舟からは、眼下に広がる火山灰の雲が際限なく沸き上がり、上空の強い風に流されて南の方へと流れて行くのが見える。此の分では広い範囲に重い火山灰が降り積もる事に成るだろう。だが幸いにも此の辺りには人が営む集落は存在せず、加えて押し寄せる鬼の大群に元々樹海に住む動物達は既に逃げ出した後だった。ドロドロの溶岩や火砕流に飲み込まれ、燃え尽きてゆく木々や草花、その姿に胸を痛めている事は種継にすら悟られてはいけない。今はただひとつひとつの判断が全てを決するのだ。躊躇が隙を生み、全てを台無しにする。其れだけは許されないのだ。


 二日後、二人が地表近くへと降下した時には既に噴火は収まっていた。雨も上がり、極度に上昇した湿度に不快感を隠せない種継の眼前には、凄まじい光景が広がっていた。元はどこまでも続く樹海であったはずの場所には冷え固まりつつあるゴツゴツといした溶岩の道が富士の裾野まで続き、燃え尽き黒く焦土と化した大地には炭化した太い幹などが散在していた。そして重度のダメージを負った鬼達が蠢き咆哮を漏らす。樹海を埋め尽くすかと思えた大群の大半は、恐らくこの溶岩の下へと塗り込められた事だろう。宙を舞う飛鬼達でさえ燃え盛る岩の弾丸に打ち抜かれ、同じ末路を辿った事は想像に固くない。未だ赤い亀裂が其処彼処から高熱を裂き漏らす地表を見渡す碧姫の潤んだ瞳は、風に舞う黄金に燃え上がる焔を捉える。


「ありがとう。」


 それは力を使い果たし、燃え尽きた五体の式神の札だった。巨大な術を使うには其れ相応の対価が必要に成る。この絶体絶命の窮地を脱する為に、長年共に戦った式神達の全エネルギーを使わざる逐えなかった。それは同時に最も信頼できる仲間を失った事になる。気丈にも可憐な唇を噛み締めた碧姫は、一枚の札を取り出す。「天永封爆霊奏符てんえいふうばくれいそうふ」巻き込んだ鬼の大群を広大な溶岩石ごとこの霊峰に封印してしまうのだ。金色の光を漂わせながら、ゴツゴツとした岩の割れ目へとその札は吸い込まれる様に消え、封印は成就される。ぶすぶすと残り火が燃える大地へと、天浮舟はふわりと舞い降りた。二人はおずおずと富士の山へと降り立つのだ。


「・・・これで、終わったのですか?」

「ええ。銀笛は取り戻せなかったけれど、鍵と一緒に封印したから。」


 一陣の爽やかな風が二人を包む。傷だらけの種継と、解れ焦げ跡まで着いた十二単を纏った碧姫は顔を見合わせ、込み上げる安堵と生きている実感に心は躍るのだ。種継はそっと姫へと手を伸ばす。煤けてボロボロになってもなお其の凜とした美しさは失われず、内面から滲み出る気品に圧倒されそうだ。だがしかし、それすらも包み込む熱い想い。焦がれる様に愛おしい姫君をこの胸へと・・・一心に碧姫へと向かう種継の意識はほとんど無意識下の領域で、想うが故に反応し得たのだ。


(三十八)


 種継の手に依り突き飛ばされ、地に倒れ込んだ碧姫が見た物は、絶望だった。後ろのめりの不自然な体勢で静止した種継の胸には、背後から伸びたどす黒い手が貫通し、中空を掴むそれには陽炎の様に揺らめく球体が握られていた。ぬるりと引き抜かれた手は、確かに確実に種継の中にある物を奪い去った。岩影から伸びた其れは、瞬時にその長さを縮める。ほんの僅かの時間に過ぎない。碧姫にとっては永遠とも思えるその時間は、容赦無く大切な物を奪い去ってゆくのだ。


 静かに無慈悲に呆気なく、無抵抗に崩れ落ちた種継は既に事切れていた。その表情は変わりなく、何が起きたのかも分からぬまま魂を抜かれ、ただの肉塊と成り果てた。徐々に失われゆく温もりがその死を確固たる物へと定着させた。


 声すら出せず、ただただ目を見開いている事だけしか出来なかった碧姫は、泣く事も沈む事もなく、その場でただ全てを失ったのだ。気力も使命感も闘争心も心強い味方も心の安寧も、そして恋心も。一瞬の凶行が二人の全てを消失させてしまった。抜け殻になった碧姫は力の入らぬ身体を地に投げ出したままだった。

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