白銀の一枝16
(三十一)
闇に紛れて病院を抜け出した厳治朗は、住み慣れた我が家へと帰り着いて居た。湯を浴び、禊を済ませた厳治朗は真っ白な下帯を締め上げる。逞しい裸身に刻まれた縫合跡も生々しく、自由に動けるはずなど無い事など明白だった。それでも行かなくてはならないのだ。鬼に魅入られた大島智子を救わねばならぬ。そして何よりも気掛かりなのは縊鬼の放った言葉だ。
「・・・いにしえの天照の血、主様を解き放つ獣の血肉にしてくれる!」
まさか奴らは鍵を見つけたというのか?俺達一族が長年掛けても見つけられなかった鍵を。ならば縊鬼の向かった先なら分かっている。薄灰の毛万筋柄の着物に、濃灰の無地袴。そして紅紫の紋お召し羽織り。きりりと仕上げた厳治朗は、袂には幾種類かの札を、そして左手には愛用の杖を携えて、明かりの消えた玄関を後にした。其の足が向かった場所には、狭いながらもガレージが有る。二階建てのマイホームの隣、普段は開く事も無いそのシャッターを上げれば、厳治朗の愛車ルノー4が姿を現す。1981年式のそのボディは古さ故の若干の劣化は見受けられるものの未だ艶やかな水色を保っており、オーナーのこの車への並々成らぬ愛情を感じられずにはいられない。特徴的な格子模様のシートに身を沈めた厳治朗は夜の街へと走り出すのだ。そのハンドルが舵を向けた場所。
”出雲へ!
(三十二)
ふと、携帯が着信を告げた。病室のベッドで気を失っていた豪太郎は買って以来いじった事の無いデフォルトの着信音に、その意識を呼び戻されたのだ。
「・・・はい。」
「あっ。ゴウ君?大丈夫?厳治朗さんの容態はどうなの?」
「おじさん!大丈夫っす。オッサンは頑丈な生き物っすから。」
「それは良かった。それで・・・ちょっと聞きたいんだけど。」
「はい?」
「うちの瑠璃子、一緒じゃないかなって・・・」
「え?来てないっすけど?」
「そうか。じゃあいいんだ。」
「あいつ帰ってないんすか?」
「ああ。大丈夫。心配いらない。ゴメンなこんな大変な時に。ゴウ君は厳治朗さんに付いていてあげて。」
「でも!」
ここで通話の終了を告げる短い電子音の繰り返しが豪太郎の耳へと響く。
「ったくドコほっつき歩いてんだか。」
そう独り言ちながら数少ないアドレスの中から瑠璃子の携帯へとコールするのだ。・・・・・・「現在電話に出る事が出来ま」幾回かのコール音の後、留守電サービスの音声が流れ、伝言を残すのが何となく苦手な豪太郎はその台詞の終焉を待たずに電話を切るのだ。
「・・・何やってんだよアイツ・・・・・・大丈夫かな・・・」
ボリボリと頭を掻きながら未だ醒め切らない脳味噌を巡らせる豪太朗はやっとの思いで今の状況に思い当たったのだ。
「オッサン!」
「重蔵!オッサンの居場所探したいんだ!何かいい方法ないか?」
「はい?何ですか突然。」
電話の相手は五辻重蔵だった。冷静で頭の回転も良い彼なら何らしかの素敵アイデアを提供してくれるのではないかという淡い期待を込めての他力本願人任せの所行だった。
「頼む!何かヤバいんだ!」
「・・・よく事情は分かりませんが、そうですね。GPSを利用したアプリなら叔父さんの携帯を追跡出来るかもしれません。」
「それって瑠璃子の居場所も見つけられるか?」
「豪太郎君、ストーカーは犯罪です。」
「バカヤロウ!何で俺が瑠璃子を追いかけ回さなきゃなんねえんだ!俺はただアイツがまだ家に帰って居ないっておじさんから電話あったからよう!」
「彼女も行方不明なのですか?」
「ああ。何やってんだかアイツ・・・」
「・・・携帯を無くした時の為の追跡アプリですからね。本人のパスワードが必要になります。瑠璃子さんの追跡は難しいでしょう。」
「そうなのかよ・・・」
「叔父さんのパスに心当たりはありますか?」
「ああ。オッサンは単純だからいっつも誕生日にしてるって。」
「分かりました。緊急事態の様ですね。あなたは叔父さんの所へ向かってください。僕は瑠璃子さんの心当たりを探してみます。」
「すまねえ!今度カレーパン奢るからよ!」
「あなたと一緒にしないで下さい。とにかく急いだ方が良さそうですね!」
通話を終えた豪太朗は既に自宅前まで戻って来ていた。瑠璃子の事が心配だけれど此処は一先ずおじさん達と重蔵に任せよう。きっとオッサンは何か途方も無くヤバい事に巻き込まれているそんな気がするのだ。重蔵に教わった通りにパスを打ち込むと、携帯の画面に広がった地図は或る場所を指し示して居た。移動している。追いかけるんだ。目を向けた先は開いたままになっているガレージだった。ガランとした庫内には車が有ったはずの場所に暗い空洞が見て取れる。彼の目的はその奥だ。其処にはオッサン秘蔵の愛車KAWASAKI Z-1が鎮座しているのだ。コレもまた72年製の旧車とは思えない程の力の入った手入具合に厳治朗の入れこみ度が慮られる。しかもフルノーマル。そうだ。やっぱりZはノーマルに限る。止まりやすいエンジンに、反して止まらないブレーキ。そしてピーキーなステアリング。何処をどう取っても素敵過ぎるだろう。加えて印象的な火の玉カラーは男が燃える仕様に違い無い。そして何よりもタンクからシート、そしてテールへと優雅に流れるライン。美しい。完璧だ。そんな美しいボディラインに豪太郎はむさ苦しい股間をゴリゴリと擦り付けるという神をも恐れぬ行為を伴いつつも、沸き上がる様な低音のエンジン音を響かせるのだ。免許はまだ持ってはいない。だがしかし、ガキの頃から叔父の目を盗んでは乗り回していた豪太郎には何の障害にも成りえなかった。勿論その後、しこたま叱られていたのは言うまでも無い。夜の公道へと躍り出した少年の腰には振動に揺れる形見の横笛が街灯の光を鈍く反射していた。
(三十三)
少女は一人漆黒の闇の中で座して居た。辺りには木々の合間を漏れ射す月明かりさえも届かず、彼女の他には生きている者の痕跡など皆無であるかの様な無垢な空間だった。否。人の目では捉えられないだけなのだ。少女の元へと集う草木を揺らす事すら無い虚ろな存在を。銘々に己の手に入れし獲物をまるで供物の様にそして何かに期待するかの如く彼女の前へと差し出し積み上げ、そして影の様に闇に滲みその姿を消してゆく。無造作に手を伸ばす少女は、積散する供物を無作法に掴み取り、際限無く口へと押し込むのだ。か細い喉を無理矢理に押し広げながら殆ど丸呑みにされた供物は、或るモノは生きたまま、そして或るモノは既に骸と化した動物や昆虫、魚など此の付近に生息する生き物達だった。山犬、兎、土竜、家猫、鼬、狸、山女魚、山羊、百足、猪、蜥蜴、蛇、鯉、数え切れない程の供物が次々に押込められた少女の下腹部は臨月に有る妊婦と見紛う如くに膨れ上がり、大地に低く響き渡る明確な胎動を脈打っているのだ。受胎。汚れを知らぬ少女の子宮に禍々しい何者かが宿ったのだ。
「うふふふふ。もうすぐよ。もうすぐだわ。もう一人はきっと役に立ってくれるわ。」
満足げに己の腹を摩るその少女は、人であった時の名を大島智子と言った。
(三十四)
幾重にも連なる山岳地帯、深夜の宵闇を縫って、悠然と座するある山の麓へと一台の自動車が到着した。標高1264M比婆山連峰に含まれる比婆山御陵。其処へと通じる参道は中腹までは車で乗り付けられるのだ。登山客用に山道脇に設えられた駐車スペースへと其の足であるルノー4を停めた男は、艶やかな赤紫のお召し羽織りを翻し闇の中にポッカリと開いた奥の院への参道へとその身を躍らせるのだ。油断などありはしない。当然至極に此の深夜、人の営みなど垣間見えるはずも無く辺りは暗闇と静寂に支配されていた。だがしかし退魔師である男の目には普通の人の目には映らない景色が広がっていた。木々の間、岩の影、せせらぎを背に、様々な鬼がこの邪魔者を排除しようと機を狙っているのだ。数が多い。元来此の場所は「封じられし者」に惹かれて鬼達が集まる場所ではあるものの流石に多過ぎる。間違い無い。アイツはこの先に居る。そして邪魔をされたくないのだ。散れ散れに月明かりの降り注ぐ山道は、上下左右東西南北あらゆる方位から仕掛けて来る鬼達で溢れた。杖を付く男は決して歩を留める事など無く、一歩一歩確実に頂へと進んでいる。その周囲には白と黒に輝く二つの軌跡が、主を守るが如く飛び回る。それは二体の式神だった。襲い来る敵達を蹴散らし薙ぎ倒し、致命的ダメージを与えて無力化するのだ。彼等の歩いた跡には体液を撒き散らしピクピクと痙攣する鬼達が山土を踏み固めた地面へと折り重なってゆくだけだった。生き物とは元々生態の異なる彼等はこの程度では死ぬる事も無く、ただ身動きが取れずにいるだけだった。だが今はそれで十分だ。己の妨げにさえ成らなければ其れでいいとでも言わんばかりに、一瞥もくれず只々坂道を登り続けるのだ。
(三十五)
一時間半程だろうか。無免許でしかもうっかりノーヘルで天下の公道を走り続けた豪太朗は、GPSの導きで見覚えの有る自動車を発見していた。コレに乗っていたであろう叔父は車内に携帯を残したまま、何処かへと向かったらしい。液晶画面上で目的物と己の位置が重なるのを確認しながら、その脇へとバイクを停めた。其の視界に迫るのは暗い山道。あそこに向かった以外無いだろうと考えながら、その方向から上空へと広がる山肌を望むのだ。
木々が生い茂るダークグリーンの絨毯の中に一際目を引く物、其れは巨木だった。山頂近く、
其れは此処からでもその大きさが計られる程の巨体だった。何かしらかは分からない。だが不思議と引きつけられるその存在は、気のせいかその辺りだけ仄かな明るさを感じるとでも言おうか、闇に滲み全体像すらぼやけてしまった森の中でその場所にだけが焦点が合って居る様な不可思議な感覚だった。
”あそこに違いない。”
もとより理論よりも直感を行動理念としている単純明快な男だ。良い悪いは置いておくとして、イジイジと悩むだけ悩んで行動に移せないタイプよりは遥かに使える。勿論程度と頻度には因りけりではあるものの、決断力とそれを後悔しない強い意志、そして何より最後に頼れるのは己なのだ。と胸を張って言える人間を目指して生きて行きたいと常々思う。
向かうは闇に包まれた山道。正直恐いのだ。闇も幽霊も、危険な獣と出くわすかもしれない。そして此処数日の不穏な出来事。何が起こっているのか。分からない事だらけなのだ。恐ろしくて吐きそうだ。家に籠って布団に潜って居れば、明日には全てが何事も無く片付いて今まで通りの平凡な日常が返ってくるのかもしれない。また瑠璃子に叱られて、オッサンには嫌味を言われる。そんなありふれた毎日を何もせずとも取り戻せるかもしれない。でも、そうじゃなかったとしたら、今何かを遣らなければきっと後悔する。一番恐い事なんて分かっている。だから行くのだ。この闇の向こう側へ。




