白銀の一枝12
(二十)
「・・・何やってんの?豪太朗。変わった趣味ね。」
「つっ・・・趣味な訳ねえだろ!ひょっとこかえるくらい痛てえじゃねえか!」
「何語?」
「うるせえ!うるせえ!」
豪腕な瑠璃子に因る玄関ドアの直撃を受けた豪太朗は暫し意識を失い、長い夢を見て居た。様な気がするけれど一瞬で忘れてしまっていた。夢には有りがちではあるものの、一応言ってはおくが、記憶力に問題が有るから忘れた。なんていう邪推は止めてあげよう。可哀想な人には優しくね。
「っていうかウロウロしてないでさっさと呼べばいいのに。」
「べっ別にウロウロしてた訳じゃねえって・・・」
「もーしょうがないわね。何か食べる物持ってくるからいい子でお座りしてて頂戴。」
「メシ・・・って!俺は犬じゃねえ!」
「分かってるわよ。それくらい。だって犬はもっと可愛いわよ?」
「・・・・・・」
いついかなる時だろうとも女子に口で勝とうだなんて思うだけ無駄なのだ。伊達や酔狂で普段から喋りまくっている訳では無い。奴らは普段から鍛錬して居るのだ。そう。男共の悪口で。そして虎視眈々と狙っているのだ。馬鹿な男達を言い負かし頂点に立つ瞬間を。ま、何の頂点に立って何をするつもりなのかは皆目謎だらけで穴だらけの持論を展開してみたものの、本音を言えば女子は皆素敵な生き物だ。と、今更ながら自己保身に走ってみたりみなかったり。という所でお手柔らかに。そして我らが豪太郎と言えば、瑠璃子宅の居間のソファに座り込み目の前に出された炊き込みご飯のおにぎりを口へと押し込んでいた。そういえば今日はまだ何も食って無かったな、とか呑気な事を思い浮かべるよりも格段に速いスピードでどんどんと喉へと流し込まれるおにぎり。犬以下ですな。なんて事は知ってか知らずか、インスタントではあるものの若布の味噌汁と奈良名物の奈良漬けを添える瑠璃子。流石だ。猛獣も幼い頃から世話をすれば手懐けられる。つまりは良く心得ているのだろう。諸兄男子。無駄な抵抗は止めましょう。
「で?何があったの?あんたが家に来るなんて。」
「それは・・・その・・・」
残念な事に非常に友達の少ない豪太郎君は、相談できる相手が思いつかずとりあえず此処に来てはみたものの「オッサンが帰って来ない」そう何となく子供染みた話のように思われてやって来ておいて今更ながら恥ずかしくなっちまっているシャイボーイなのであった。何て面倒くさい男だ。
「まあいいわ。あんたどうせ暇でしょ?なら付き合ってよ。」
「えっ!?つっつきあう?」
「そう。さあちゃんと連絡取れなくてちょっと心配だから家に行ってみようと思って。」
「えっ、ああ・・うん。別にいいけど。」
「昨日かなりショックだったみたいだし。念の為にね。」
一通り餌付けを済ませた瑠璃子は先程コート掛けに掛けたオレンジ色の薄手のダウンを羽織った。ちなみに豪太郎は休校なのは百も承知の上でガッツリと学ランだった。本人曰く「買いに行くめんどくせえ」という非常にシンプルな理由により彼のワードローブは絶滅寸前だった。しかもオッサンが勝手に買って来る狙ったとしか思えない訳の分から無い、むしろ根性を試されているのか?なんて疑ってしまう様な衣類だけが静かにそして確実に其処を占拠しつつ有るのもまた不幸だが目を背けてはいけない現実だ。何とか対抗策を考えねばならない所なのだが、如何せん所詮はまだお子ちゃまだ。有効な手立てを手に入れられないまま今に至る。きっと一生オッサンの玩具にされる未来予想図が容易に描けてしまう、不憫な立ち位置だ。
不安に覆われ縮こまっていた瑠璃子の心とは裏腹に空はどこまでも快晴だった。もうすっかりと芯までひんやりと冷えた空気に心が引き締まる。大沢紗香の家までは自転車で十分程。同じ中学出身の瑠璃子は何度か行った事が有るのだ。九時を回り忙しない朝の混雑は既に解消され、幾ばくかの行き交う人々の姿に本来の休日とは違う空気感を新鮮に感じるのだった。そして思いもかけなかった豪太朗の出現により少しだけ張りつめていた緊張の糸が解れ、二人で出かけるというこの状況に「楽しさ」さえ感じ始めていた。何時もそうだった。何のかんのと面倒臭い男では有るもののイザという時には意外に頼りに成る。普段のグウタラとはひと味違う姿を瑠璃子は知っているのだ。そして豪太朗は絶対に裏切らない。幼馴染だからこそ見て来れた特権だ。
“そうだきっとさあちゃんはまだ寝てるんだ。すぐに悪い方へ考えちゃうのはあたしの悪いクセね。”
軽快に自転車を飛ばし続けた瑠璃子とその脇で全身汗だくで息も絶え絶えでへたり込んでいる豪太朗は、目的地である大沢紗香の自宅前へと辿り着いていた。
「・・・なんで俺だけ走りなんだよ!」
「だってうち自転車一台しかないし。」
「だったらお前も歩けばいいだろ!」
「んも~!デカい図体して細かい事気にしないの!さっさと行くわよ!」
「・・・・・・」
「おはようございます!」
ピンポンピンポンと意外な乱暴さで小さな門に備え付けられたインターホンを連打する瑠璃子。其れに答える様にゆっくりと扉が開き、遠慮がちに顔を覗かせたのは紗香の母親だった。勿論瑠璃子も何度か会った事も有り、親しみのあまり声が大きくなる。
「あっ!おばさん。御無沙汰してます!」
「ああ・・・瑠璃ちゃん・・・」
其れだけ口にするのが精一杯だった。一瞬押し黙ったかと思うと、関を切った様にボロボロと涙を溢れさせた。「何かあった」と勘ぐるにはそれだけで十分だった。
(二十一)
そして話は1日前へと遡る。校門で豪太朗と別れた厳治朗は行き着けの定食屋で昼飯を食っていた。緊急時では有るもののどうしてもこの店「はつせ」のサバ味噌定食が食べたくなったのだ。はつせの女将さん手作りのサバ味噌、其れは絶品だった。数種類の味噌を合わせた煮汁が此れまた素晴らしく、脂の乗った大振りのサバの切り身に煮汁が染み込み完成したソレは何度食べても飽きさせない旨さだ。
「おばちゃん!今日も旨い!旨すぎる!」
「誰がおばちゃんだって?あんた確か同い年だろ!?」
「ふっ、男に年なんて関係ないのさ。」
「下らない事言ってないで、いい加減お嫁さん貰いなよ。いい年なんだからさ。」
「うるさし。」
腕を組んで傍らに立つやや逞しい女将さんにため息をこぼされながらも、鋼の精神力で受け流し完食へと向かいラストスパートをかける。これぞ漢だ。そして最後には熱い焙じ茶をグイっと喉に流し込む。うん。間違い無く至福の時間だ。ヤツはきっと学校に現れる。若く未だ迷い多き魂を贄に選ぶだろう。豪太朗のケツが学校を守っていてくれている今の内に栄養と英気を養っておく必要がある。今回の仕事は簡単に片付くだろう。依頼主の意向に添えるかどうかは分からんがな。そんな厳治朗が腹一杯心も満タンに緩みきった顔を晒していた時だった。件の雷鳴が轟くのを確かに聞いたのだ。
「来たか・・・ごっそさん!おばちゃんまた来るわ!」
「次は嫁さん連れといで!」
「でっかいお世話様だ!」
間違いない。あの雷鳴は豪太朗の尻に貼付けた結界符とヤツの力が干渉した証だ。店を出た厳治朗は今までのソレとは別人の様相を呈していた。鋭い眼光に深く刻まれた眉間の皺、其処にはもういつもの呑気な厳治朗はいなかった。学校まではもう目と鼻の先だ。ヤツの力ではあの結界は決して越えられやしない。俺が到着するまで結界が生徒達を守ってくれるだろう。杖をつきながらも急ぎ足で次第に精神の集中を高めてゆく厳治朗は、突如目に飛び込んで来た想定外の出来事に凍り付いた。
「馬鹿な!・・・結界が破られているだと!」
其処では先程までは確かに張られていた結界が消滅していた。魔の者を押し止める頑強な牙城が無くなった今、生徒達が危険だ。そんなはずはない。有り得ぬのだ。だがしかし目の前の現実は立ち止まって居る事など許しはしない。研ぎすまされた厳治朗の感覚は、ユラユラと燃える様に立ち上る禍々しい妖気を痛い程に感じていた。校内だ。ヤツは既に侵入している。この不自由な足では間に合わぬかもしれぬ。
「白雪!漆黒!頼む!」
左手で握った無骨な杖へと向かいそう声を掛けた。その杖の握り部分には空洞が有りそこには常時幾枚かの札を忍ばせて有る。そして其処から主の声に答えた白と黒の二つの軌跡が風を逆巻きて校舎へと飛んだ。
小さな中庭。一年棟と二年棟とを繋ぐ渡り廊下、其れを挟む様に設えられたその場所には何種類かの広葉樹と、庭石、そして生徒達により管理されている花壇がある。通路として確保された小道には砂利が敷かれ、こざっぱりとした印象に仕上げられている。尤も生徒達からは必要性を理解されていない施設という印象が否めないのは確かだったりする。
そんな場所に面した幾つかの教室の一つに保健室があった。先程までは安楽なベッドの中で大沢紗香は微睡んで居たのだ。開け放たれた窓。風を孕みユラユラと揺れ動くアイボリーのカーテン。全てがひと時の夢だった。気を失い、引き摺り出された彼女は今は中庭の冷たい砂利の上で身動き一つせずに横たわっている。未だ成長途中であろう細やかな胸が微かに上下しているのは見て取れる。そして傍らには彼女を見下ろす一人の少女の姿が有った。夏を彷彿とさせる白のワンピースを纏った其の少女は何処か不自然に感じられた。肩が上がり立ち上がった獣のような姿勢にまるで死人の様な血色の悪い青灰い肌、そして下腹部には異常な膨らみを湛え、元々華奢な彼女の体型とも相まって地獄の底で飢餓に苦しむ餓鬼を思わせる風貌だった。彼女の瞳には生気は無くくすんだ鈍い光が奥深くまるで滲み出るが如くに透けて、ただただ血の様に赤い口元だけがニヤリと口の端を上へと押曲げ、歪な(いびつ)喜びを表現していた。待ち切れず大沢紗香へと明確な悪意をぶつけるかの様に手を伸ばす少女。
だがしかし其の手は横たわる紗香の身体へと届く事は無かった。其れは白と黒の軌跡。突如飛来した其々が悪意の腕を弾くのだ。敵だ。そう瞬時に判断した少女は憤怒の形相を浮かべ、と時を同じく其の瞳は放物線を描く白と黒の残像を捉えていた。その本体は、己の手を阻んだ黒くイタチの様に細長い身の丈40cm程の狐に似た獣と、紗香の前に盾の如く立ちはだかる同じく白い毛並みの獣だった。其れは厳治朗が使役する式神「管狐」。符札に特定の組み合わせの書式を施した、彼専用の式神がこの二体なのだ。それは時に主を守り、時に邪を滅ぼす刃と成る。
「この臭い、やはり縊鬼か。どうやって結界を破ったかは知らんが、この俺、退魔師九条厳治朗が封じてくれる!」
若干のタイムラグで滑り込んだ厳治郎。辺りには仄かに甘い魅惑的な香りが漂っていた。精神を集中していなければ鍛錬を積んできた厳治朗とて心をかき乱されてしまうそんな危険な香りだった。短期決戦だ。縊鬼と呼ばれた少女と紗香の間に其の身を割り込ませた厳治朗は、一陣の風に和の衣を靡かせて杖の握りより一枚の札を抜き出した。同時に揃えた二本の指で中空へと九字紋を描く。身を翻し十分な距離を取ろうと地面を蹴った縊鬼。しんとした校内では今まさに粛々と授業が行われている事だろう。誰にも気づかれ無い迅速さが求められるのだ。普通の日常を生きていける人々には知る必要など無い。長い歴史の中で先人達はこうして悪鬼どもから人々を守ってきたのだ。此れが厳治朗の仕事だ。今は職業退魔師として裏の世界では有名な存在なのだ。眼前の敵、縊鬼。人心を惑わす甘い香り媚薫香を振り撒き、自ら命を断たせるそんな狂気へと誘う鬼だ。油断さえしなければどうと言う相手では無いだろう。
「白雪!漆黒!やるぞ!臨兵闘者皆陣裂在前!」
内に秘めた煌々とした輝きを滲み上がらせた札は、其の輝きが弾け飛ぶが如く溢れ出した橙色の光に包まれる。風が舞う。力の中心へと吹き込む風が厳治朗の着物を乱すのだ。二頭の管狐は主である術者の元へと馳せ参じ、術の発動に備える。符術。其の中でも厳治朗は式神を扱い、それと札による術との合体技を得意としていた。幾種類の札と式神の組み合わせにより様々な術を行使する事が可能なのだ。此れで終わりだ。力を削いだ鬼を封じれば今回の仕事は終わる。縊鬼は古来よりの宿敵である符術師の出現と目的を阻まれた事への怒りが臭い立つ程の殺気を滾らせて正面から襲い掛かって来る。やはりそうだ。知能はあまり高くないハズ。鋭い爪を立て力押しの物理攻撃で来るだろうとそう踏んだ。力の集中。高まる鳴動。今まさに調伏されようとしている刹那、縊鬼は嬉しそうに笑った気がした。
「きゃああああああ!助けて!」
「!」
極度の集中。一種のトランス状態に入っていた厳治朗は気が付かなかったのだ。己の背後で目を覚ました紗香に。恐怖に取り憑かれた少女はただ縋り付く依り代を求め厳治朗の背中へと抱き付くのだ。怯える少女の力は意外に強く、身体の自由を奪われた彼は驚きと焦燥に心を乱すのた。ぷつりと途切れた集中力が一瞬にして札に漲る(みなぎる)光を消失させ、只の紙片に戻った札に迫り来る縊鬼の一撃が触れ、細かな紙吹雪と成り宙に消える。厳治朗の反射神経は殆ど無意識の内に鍛えられた右腕で敵を捉えようと拳を唸らせる。
「怖い怖い怖い!いやあああああ!」
絶妙なタイミングで右腕にしがみ付く少女に其の拳は標的を捉える事も無く空しく立ち往生するのだ。そして返す刀で叩き込まれた縊鬼の二撃目が、厳治朗の左肩を貫く。鋭敏な爪は肉を抉り筋肉の束を引き千切り、赤く滑った血液を中空へと撒き散らす。力が抜けた腕からはカラカラと乾いた音を立てながら杖が転がるだけだ。燃える様な激痛に低い呻き声を吐き漏らす厳治朗。
「助けて!助けて!助けて!」
狂乱の激流に、結果的では有るものの厳治朗の枷と成ってしまった少女。今は此の娘の身の安全の方が先決だ。そう判断した厳治朗は「スマン」と小さく呟いて、鋭い当て身を放つ。倒れ込む少女を抱留め、間髪入れず命を飛ばす。
「白雪!漆黒!結界だ!」
瞬時。主を取り巻く白と黒の軌跡が強力な結界を展開するのだ。二体で発動する此の結界は小規模ながらも堅牢な防御力を誇る。此れで暫くは凌げるだろう。巨大な庭石の袂に張った小さな球状の結界の中で、一時的では有るものの休戦状態を得た厳治朗は未だ血液の溢れ出る肩の傷を帯で縛り止血を試みる。そして確かに聞いたのだ。縊鬼の、少女の喉から絞り出されるか細い声を。
「其の女を渡せ。私を殺したその女を!」




