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白銀の一枝  作者: 鷹司蒼志
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しろがねのひとえだ

(一)

「豪太朗!何時まで寝てんのよ!」

「うおっ!」


 時刻は朝八時を回った所だった。何時もの如く惰眠を貪る男、九条豪太朗の至福の時は八神瑠璃子の出現によって終焉を迎えようとしていた。


「勝手に入ってくんじゃねえよ!」

「オジ様にはちゃんと許可貰ってるわよ!」

「バカヤロウ!男ってのは朝はいろいろとマズいんだよ!」

「何訳分かんない事言ってんのよ!アンタこれ以上遅刻が続いたら本当にヤバイんだからね!」


 無理矢理布団を引っ剥がそうとする瑠璃子に対し、あたふたと応戦を試みる豪太朗。如何せん悲しいくらいに不利な体勢で思う様に抵抗すら出来ず、男子としてこれ以上無いくらいの無様さを一挙露呈しながらも観念せざるおえない状況だった。


「分かった!分かったって!着替えるから出てってくれ!」

「・・・二度寝したら殺すわよ?」


 そうウインクしながら俺を指す彼女の目は全く持って微塵も笑っては居なかった。現実の厳しさにまたひとつ希望を見失う少年だった。


“しゃーねえ・・・学校行くか・・・”


 全面降伏により辛うじてデリケートエリアの露見だけは免れたものの、こんな生き方で良いのだろうかとふとした不安が頭を過る。未だ閉じられたカーテンに、まだ薄暗いままの男子高校生の部屋には青春期男子特有の男臭がイヤな感じにじっとりと澱み、諸兄男子の御多分に漏れず混沌の様相を呈していた。無造作に脱ぎ捨てられた衣類、床に散らばる漫画雑誌に駄菓子の残骸、有りと有らゆる物が危ういバランスを何とか保ちながらも粗雑に積み上げられた両袖机。此の有様では成績表などは涙で霞んでしまうと言うモノだろう。只、この乱雑さによる恩恵も過分に有ると存じます。家族や女子に見つかっては不味い諸々の趣好品の数々を目立たなくするというカモフラージュ効果がしっとりと御座います。かしこ。否、しかし此処で油断してはいけません。例え視覚は誤摩化せたとしても、嗅覚はそう簡単には騙し通せないモノで御座います。当の本人は無自覚に過ごしているかもしれませんが、意外と広範囲にまで拡散する危険性を孕んで御座います。何の話かなんて野暮な事は敢えて申しませんが、男子の部屋には漏れ無く消臭剤と頑丈な鍵が必須だと存じます。(経験談)


 寝癖の付いた短髪。寝間着代わりの色褪せたTシャツとゴムの緩んだトランクス。其れが部屋の隅に置かれた姿見に映る男の出で立ちだ。先程までは窮地に立たされていた男子の中心部も諸般の事情により既に安らぎの表情を浮かべている。

“せめて勝負パンツを履いていれば・・・”

って見せてえのかよ!という思春期男子に対しては余りにも無粋なツッコミを敢行してみたりしてみる。


「そうなんですよ!いつもいつもロクな事してないんですよアイツ。」

「スマンのう・・・儂の教育が至らないばかりに・・・」

「そんな事無いですよ。悪いのは全てアイツ。そう。あたし達はむしろ被害者・・・」


 遠い目で悲劇のヒロインに陶酔しきった少女が一人。大変厄介なシロモノだ。


「俺ももう歳だからな・・・アイツにはしっかりして貰わねば・・・ゴホゴホ」


 態とらしい咳を振り撒きながら、律儀にも乾ききった目元をそっと拭うフリまでする演技派、九条厳治朗。豪太朗の叔父にあたる人物だ。


「テメーら何好き勝手言ってやがんだ!」


 何の変哲も無い黒の学ラン。それが桜成高校の制服だ。無駄とは知りつつも階段の途中から筒抜けになっていた己の悪口の終息を試みる豪太朗だった。何事にも妥協せず精一杯の努力をする其の姿勢は非情に大切だ。ま、時と場合と種類には因りますが。


「お?お?豪太朗か?珍しく制服なんて着てっから一瞬誰だか分かんなかったぞ。」

「ホント。その制服まだ着れるのね~あっオジ様お茶もう一杯いかが?」

「スマンのう。こんなに優しくされたのは久しぶりじゃ。いい冥土の土産が出来たよ。」


 一階のダイニングテーブルに陣取り、呑気に茶など啜りつつ豪太朗の悪口に興じる二人。ちなみに本日の御茶請けは信州名産の野沢菜だ。心地良い歯触りと適度な塩加減が淹れたての香り高い緑茶にバッチグーな事請け合いだ。


「そんだけ嫌味が言えりゃまだまだくたばりそうにねえな。」


 此の寒空にタンクトップにスウェットパンツ。グレーのワントーンコーデだ。露出した部位にはゴツゴツとした分厚い筋肉の層が幾重にも積み重なり、黒光り照りまで発症している非常に暑苦しい中年だ。例えうっかり世界が滅びたとしても、厳治朗とゴキブリだけは機嫌良く暮らしていけるそんな確証を持った物体だ。只一つの気掛かりはと言えば、握り手に無骨な細工が施された杖。叔父の傍らに静かに寄り添う其れを横目に俺は玄関を抜けようと足を踏み出した。


「あっ!ちょっと待ちなさいよ!」


 スタンダードな紺サージ、白の三本ラインに白いスカーフ。何処から見ても正統派のセーラー服だ。ノスタルジーすら感じさせるその落ち着いた雰囲気は流石の一言に尽きる。シンプルが故に際立つ各々の個性を殺す事も無く、そっと優雅に華を添えるそんなデザインに仕上がっている。其れを身に纏う現役時代にはなかなか其の素晴らしさには気が付かないのが定石ではあるものの、紛れも無く匠の手に因る名品だ。(嘘)スカートのプリーツを嬉し恥ずかしひらめかせ、豪太朗に追従する瑠璃子の脇を静かな裂空音を響かせる黒い物体が掠めて飛んだ。


「忘れ物だぞ。」


 叔父の言葉と共に甥の後頭部に届いたのは尋常成らざる激痛だった。余りの激しさに一瞬、何が何だかどころか自分が一体誰だったのかすらすっ飛んでしまいもうどうにかなっちゃうんじゃないかと心配になってしまうくらいの高みにまで到達したのだ。


「何しやがんだクソジジイ!脳ミソ吹き出してスチャラカピーになったらどうしてくれんだ!」

「大丈夫。吹き出す程入って無いから。」


 気の毒な人を見る様な優しい瞳で、頭が悪い甥へと同情を投げ掛ける心優しき叔父厳治朗。


「何だとテメー!」


 脳味噌が微量なおかげで彼の頭蓋骨にはスムーズかつ大量に無理なく血が上る様だ。此の迅速さをもっと他の事に生かせればなんて無粋な事を考えてはいけない。人間なんて所詮そんなモンなのだ。怒りに我を忘れ無闇矢鱈に掴み掛かろうとした豪太朗の視界には突然の暗闇が訪れた。


「はい。そこまで!玄関で暴れてて遅刻しちゃ元も子もないでしょ?」


 瑠璃子が振り回した鞄のクリーンヒットを顔面で受け止めた豪太朗は、一時の硬直の後、真下へと崩れ落ちた。其の襟首を容赦無く掴み出口へと引き摺る女瑠璃子。大抵の女子の腕力は見た目よりも遥かに強力だ。けれども分かっていても騙されてあげるのが男子の嗜みという物だろう。


「ではオジ様。行って参ります。」


 大和撫子さながらの優雅な挨拶だ。瀕死のデカい男を引き摺ってさえいなければ。


「うむ。気を付けてな。」


 叔父の手に依り放たれた、玄関の足下に転がる物体、其れは豪太朗の父の形見の笛袋だった。黒革で設えられた其れを拾い上げ、軽く埃を叩く。勢い良く開け放った戸口からは、朝の清廉な外気と己の行く末を案じる少年の微妙な空気が漂っていた。


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