日常の始まり
連載版を書きました。
よろしければご一読ください。
―――リリン。
白と青、それから黄色を基調としたデザインになっている王立図書館に、涼しげな音が響き渡る。大きな窓から差し込む朝日が、館内の気温をわずかに上げていた。
鈴の音を聞いた年若い女性が司書室と書かれたプレートがぶら下がっている扉から出てくる。彼女の足取りはどこか荒々しく、まるでその鈴が迷惑だと言わんばかりである。歩くたびに揺れる彼女の長い髪は、一つに結ばれている。図書館のデザインに似た白と青の制服は、背の高い彼女のスタイルの良さを強調させていた。
彼女の名前はソアリ。ソアリ=ミオルト。代々王立図書館の司書長を継ぐミオルト男爵家の次女として、王城の近くに設置されたおよそ100年の歴史を誇る図書館で仕事をしている。長いウェーブのかかった赤い髪が歩くたびに揺れ、同じ色の瞳は眠たげに細められている。彼女の子の姿を見れば十人が十人「機嫌が悪い」と診断するだろう。
荒々しげに―――もっとも貴族出身なのでそこはかとなく淑女らしく―――図書館入り口の開閉扉を開ける。ロビーに居座るのは、我が国の生きる国宝とさえ呼ばれた超有名人、魔術師テオドール=ベルガンドだ。漆黒の髪に映えるエメラルドグリーンの瞳は見たものすべてを魅了する神秘的な何かを感じさせる。が、そんなものがソアリに通じるはずもなく。
「テオドール様、また開館時間ではございません」
「それでも君は来てくれるじゃないか」
煩わしそうに話しかけるソアリと対照的に、ニコニコと返すテオドールのやりとりは、もうここ数年で当たり前の光景となっている。
「だいたい、今何時だと思っていらっしゃるんです?」
「そうだなぁ、君と僕の間には時間なんてものが必要かい?」
「朝の4時ですからね。少なくとも私の睡眠時間はこの上なく重要です」
とりあえず起きてしまったものは仕方ない、とソアリは司書室に設置された給湯設備を利用して朝食代わりにコーヒーを入れる。テオドールも飲むということで一応二人分用意する。
開館前の図書館に利用客を入れるわけにはいかないので、やむを得ず、彼を自分のプライベート空間である司書室に招き入れたのだが、何がうれしいのかとても上機嫌だ。それを嫌そうに見つめるソアリの瞳には、もはや尊敬や畏怖の感情はない。ただの面倒な客をいやいやながら相手してあげているだけだ。
「あ、お砂糖10ね」
「それはもうコーヒーじゃないんで、牛乳でも飲んでてください」
「ソアリは優しいなぁ。未来の旦那様のためにコーヒーを淹れてくれるなんて、まるでもう結婚しているようじゃないか」
「あなたが勝手についてきたのでしょう?」
もう数年とこういう関係だが、偉大なる魔術師である彼を適当にあしらい、あまつさえ目立つ王立図書館の前で放置、なんてことを世間に知られたら我がミオルト家はおしまいである。それをわかっているくせにわざとらしくそう言ってくるのだから、テオドールという男は質が悪い。
「ところでソアリ。君は先日開かれた夜会のことを知っているかい?」
「最近開かれた夜会といいますと、あのデュパン公爵家主催の夜会でしょうか」
「さすが司書長といえど貴族のご令嬢だね。そう、あのデュパン家の夜会だ。今の当主には随分前からお世話になっていてね」
「まあテオドール様もお世話になるという経験がおありなんですね」
「君のその僕への評価はいったい何が根拠になっているのかな」
「あら、いつもの言動以外に何が?」
ニコニコとテオドールの言葉を見事に返り討ちにするソアリの会話術は、ミオルト家直伝のものだ。本来ならば夜会で発揮されるはずのその会話術も、ソアリにとってはこのテオドールとの会話でしか使えない。まさに宝の持ち腐れ状態である。
テオドールはため息をつきつつ、話を進めようと司書長のデスクに腰を掛けた。それを見て席についているソアリが若干眉を細めるが、もはやこれも日常的な光景である。
「デュパン家の現当主は、どうやら自分の娘を僕に渡そうとしているみたいなんだ」
「まあ、ついにテオドール様もご結婚ですか。確か今は20代だったかと聞いていますが」
「ああ、27だ。ちなみに君は23歳と聞いているが?」
「女性に年齢を聞くのは失礼だと、誰かに咎められることはございませんでしたの?」
「失礼、レディ」
やや大袈裟に頭を下げ、ソアリの左手をとり、軽く口づけする。騎士でもない魔術師テオドールが一介の男爵令嬢にこんなことをしているところなんて見られたら、翌日にはソアリは貴族社会から抹消されていることだろう。だがそれを振り払うこともせず淡々と儀式を見るように眺めているのは、それがもう当たり前のようになってしまったからだ。それはお互いにとって。
「君はこの話を聞いてなんとも思わないのかい?」
「そうですね、おめでたい話だとは思いますが。お嫌ですか?」
「あぁもちろんだとも!確かに僕は天才的魔術師でありながら奇人だ。僕に一目惚れはすれど長い恋はしないだろう令嬢たちと結婚かい?この上なく面倒だ!」
バッと大きく両手を広げ、さぞ不幸のヒロインのように語り始めるテオドール。それを煩わしそうに眺めもせずコーヒーを一口喉に通すソアリは、完全に面倒だから受け流す姿勢だ。
しかしテオドールの語りは終わらない。
「だいたいデュパン当主、彼も彼だ!私の気持ちを知っていながら自分の娘を押し付けてきた!自分のこともわからない未熟な子供をだ!」
「ご令嬢は16歳でしたか。そろそろ婚約者がいないと難しい時期ですわね」
「焦らなくてもあの押しの強い令嬢のことだ、私以外にいくらでも候補がいるだろう!ああ、なんて嘆かわしい!」
かなりオーバーな語り手にため息をつくソアリはコーヒーを飲み干し、時間を確認する。まだ30分しか経過していないじゃないか。自分の体感的には1時間以上経ってるように思えたんだけどな、と一人心の中でごちている間にも、ソアリの目の前の大魔術師は延々とその令嬢の批判を口にしている。
「嫌ならお断りになられればいいじゃないですか」
「そういうわけにもいかないのだよ、ソアリ。君と違って私は優秀な人材だからね、国益につながる婚約とも言われてるらしいのだ」
といっても、僕は政治には興味ないからなんともいえないがね。とため息交じりに呟くテオドール。
ソアリにしてみればこの男がどこの誰と結婚しようが関係のない話で、むしろさっさと結婚でもしてくれれば自身の睡眠時間を確保できるのではないかと考えてさえいる。
「なんでもよろしいですが、私はそろそろ開館前に仕事をしなくてはいけませんので」
「おや、何をするのだい?」
「図書館の貸出期間の更新です。掲示板に行って書き足してこなければ」
「なるほど。じゃあ僕も一緒に行こう。いくつもある掲示板を君一人でこなすのは大変だろう」
「いえ結構です。もう慣れていることですし。…それに、」
先ほどからツカツカと足音を立てて司書室に近づいてくる人物の気配を感じ、ちらりと部屋の扉を見る。同時にその扉が開き、現れたのは王城で大魔術師の優秀な子守――もとい側近を務める男性が疲れた様子で立っていた。
「やはりこちらにいらっしゃいましたか、テオドール様」
「早かったな、タチバナ。こいつに見つかったことだし、仕方ない。君との掲示板巡りは次の機会にしよう」
「タチバナ様、お願いですから手綱くらいしっかり握ってください。この人朝の4時にこちらに来ましたからね」
「本当に申し訳ない、ソアリ殿。さぁ、テオドール様!行きますよ!!」
テオドールと並ぶと映える真っ赤な髪色が、どこかしんなりとしているのは朝から苦労があったせいか、それとも積み重なったストレスのせいか。どちらにせよ苦労性の彼が心休まるときはそうそうないだろう。
ようやく過ぎ去った嵐にソアリはふぅとため息をつく。彼のお話は興味深い時もあるが、今のように話の終着点がわからない時もある。というか、大半が後者だ。いったいソアリにどのような言葉や気持ちを求めているのか、彼女には皆目見当もつかなかった。
「さあ、行きますか」
飲み終わった二つ分のマグカップを流しに置き、必要な荷物をもって司書室を後にした。
ソアリが開館の準備を終え、図書館の大きな扉の前に開館中の札を下げる。コトリ、と重めに作られたそれは、先代の司書長が丹精込めて作り上げた手作りの木彫りのものだ。
司書のカウンターの席に座り、昨日の昼間から読み始めた新作の小説を手に取る。この本は自分が個人的に市場から取り寄せた物で、まだ貸し出しにはしていない。あともう少ししたら申請が通るので、この本も時期にあの書棚に並ぶことだろう。
読書に耽っていると、スッと暗くなった視界。驚いて本から目を離すと、そこには来館者と思しき貴族の男性、いや、その貴族の使いの者か。穏やかな表情ではないことは、社交界から離れたソアリにもわかった。どちらかというと敵意を含むような視線に逃れるように、本を閉じ、「いらっしゃいませ」と声をかける。
「その本は」
短く問われた内容に、思わずその本を両の腕で抱きしめてしまう。
「あ、と。こちらはまだ貸し出しのできない書籍でして」
「我が主君は、特別な書物をご希望だ。その本を貸してもらおうか」
「あの、申し訳ございませんが、こちらはわたくし個人の書籍です。来館者様がお借りになられるのは、あちらの書籍から、」
「しつこいぞ!その本をよこせと言っているんだ!期限には返すだろう!」
丁寧に説明しようとした矢先に、怒号が飛んだ。その大きさに慣れていないため、ソアリは思わず体をすくめてしまう。そんな彼女の反応が期待通りだったのか、優越感を与えたのか、余裕そうな顔に笑みを浮かべて、そのまま彼女の抱える本へ向けて手を伸ばした。取られる―――そう自覚し、一層本を抱きしめる力を強めた瞬間、パシッという乾いた音が鳴った。
「来館者は館内のルールを守るのがマナーだ」
その言葉に目を見開いたソアリの前には、カウンダ―越しに立つ金髪の騎士。
「ラク、セル様…」
安堵と共に零れた声で彼の名前を呼べば、彼は振り返ってソアリに笑顔を見せた。
「貴様、私は、バジリオ侯爵家の使いの者だぞ!無礼が許されると思っているのか!」
今にも掴みかからんとする勢いで金髪の騎士に詰め寄る男。そんな男を軽い動作でいなし、腕をつかみ捻り上げる。スキのないその動きに、そばで見ていたソアリは感嘆の声を上げる。
「私はわが国第一王子の側近のラクセル=ゲオリカだ。バシリオ家は図書館のルールも守れない者を使いの者としていると我が主君に報告する、ということでよろしいか?」
「ひぃっ」
一瞬にして形勢逆転。それは政治や貴族社会についてよくわからないソアリから見ても圧倒的な権力差だった。慌ててその場から逃げるように去ったバシリオ家の使いの者を見送り、ソアリは改めてラクセルに感謝の言葉を述べた。
「ラクセル様、危ないところを助けていただきありがとうございます」
「お怪我は?」
「いえ、大丈夫ですわ」
先ほどの厳しい表情とは打って変わった優しいまなざしに、思わず顔が赤くなる。だがそんなことを気にしないラクセルは、人懐っこい笑みを浮かべて、「今日のおすすめはありますか?」といつもの合言葉のように告げた。
実に三日ぶりの来館だった。三日ごとに本を2,3冊借りて、返しに来る。その繰り返しだ。ラクセルは自身で紹介していた通り、この国の第一王子であるキリエス殿下の側近の一人で、もともとは王宮騎士団に所属していたという。彼の素晴らしい剣術と実績を考慮したうえで殿下の側近になったと聞くが、殿下と年の近いことで仲が良かったというのも理由になったとか。
「殿下は、毎度難しい古書をお読みになられますわね」
「ええ、本は知識の宝である、というのが最近の口癖でしょうか」
嬉しい言葉の限りだ、とソアリは笑う。自分も同じようにして本に惹かれたからだ。
ソアリの隣に並び、二人で書棚を歩く。ふと、ラクセルの目が一冊の本に止まった。
「この本、」
「まあ、魔法と冒険の世界を描いた児童書ですわ」
「ええ。幼い頃、私も読みました」
「美しい姫がさらわれ、その姫を助けるために立ち上がる勇者のお話、でしたわね」
「当時はこの勇者になりたいと思った日もありました」
照れたように笑う彼は、今はそうではないのだろうか。
ふとそう思ったソアリは、口を開く。
「私にとって、先ほどのラクセル様は勇敢なる騎士様でしたわ」
そう告げると、彼は驚いたように目を見開いた。だってそうだ、自分の大切なものを取り上げられそうになった時、駆け付けてくれたのは紛れもなく勇者であり、騎士である。
短いソアリの言葉に何かを感じ取ったのか、彼はまた照れたように俯く。
「もっとも、私がお姫様というのはとても不相応ですが」
「いいえ!そんなことは!」
誤魔化すように冗談めかして言葉を繋げると、ラクセルは大きくかぶりを振った。その必死な否定に、思わずソアリのほうも顔が赤くなる。
なんとも微妙な雰囲気を感じて、ラクセルがその児童書を手に取った。
「あの、これ、個人的にお借りしても」
「も、もちろんですわ。図書館は万人のために存在するのですもの」
お互い噛んで、恥ずかしい思いをして。それがなんだかおかしくなり、二人は顔を寄せて笑いあった。
しばらく二人で館内を歩き回り、面白そうな書籍を探したり、ソアリによる本のプレゼンを聞いたり、ラクセルにとってこの上ない優しい時間を過ごした。3冊借りる本を決定すると、カウンターで手続きをとる。
「今日は本当にありがとうございました。良ければ今度、お礼をさせてください」
「いえ、そんなことはできません。…あ、でも、」
ふと何かを思いついたのだろうか。ラクセルは視線を宙にやったあと、恐る恐るといった表情でソアリと目を合わせた。が、すぐに何となくの方向へそらす。
何か言いにくいお願いなどがあるのだろうか。ソアリも身構えてその言葉を待つ。
「その、良ければ、一緒に城下町を歩きませんか」
そのお誘いに、少しだけ胸が高鳴る。
そんなお誘い、断れるわけがない。まして、先ほど助けてもらった方に。ソアリもまた顔を赤らめて、でもしっかり目を合わせて笑顔を作る。
「ええ、ぜひ」
まるでむず痒いようなそんな時間は、彼が図書館を後にするまで続いた。