3 理想の力士、夢との訣別(近江富士)
近江富士は、病室で金の玉征士郎のことを思った。
ニュースは、大きな衝撃だった。
結局、金の玉に及ばなかった自分であったが、金の玉を心の聖域に据えることによって、あらたに、金の玉以外の、達成可能な目標に標的を定めていたのに。その男が聖域に据えるべき存在ではなかったというのか。
いや、薬のことがあったとしても、やっぱりあいつは凄い奴だった。それは認めよう。でもそれだけでいい。聖域として金の玉征士郎を観ることはない。
自分はもう何もこだわらなくてよいのだ。そのことは、明の心を解放させた。
今、もし、この心で、肩が破壊される前の、あの体が俺にあったら。
俺は、一体どれだけのことが出来ただろう。だがそれはもう敵わないこと。
自分の右肩は、聖域としての存在だった金の玉に捧げたのか。
近江富士明は、そんなことを思った。
父である、照富士親方が見舞いにやってきた。
近江富士は、これからどうするのかを訊ねた照富士親方に告げた。
怪我が癒えたら、再び、土俵に立つと。
「じゃ、もう野球に戻るのはやめて、相撲をずっと続けるということかな」
「プロ野球ですか。まだ諦めたくはないですね。取り敢えず、二十五歳くらいまでは、相撲を続けようかと思います」
「何を目指す」
「この秋場所で、番付上は小結になるようですから、番付が落ちたら、もう一度、その地位に戻ること。できれば、それを一つ越えた関脇を目指そうと思います」
「そうか」
「で、野球に戻ります」
「すごくブランクがあるな。それにもうあの速球は投げられんじゃろう。バッターに専念するのか」
「速球を投げるのは無理ですね。バッターとしても、右肩が完全でないとすれば、私が目指していたホームランバッターになるのは無理でしょう。でも、投げられるし、打つことはできる」
しばしの沈黙があった。
「お父さん」
「うん」
「俺は、横綱になって。プロ野球に行ったら、エースになって、三番か四番を打って。
俺にはそれが出来た。出来たはずなんだ」
照富士は何も言えなかった。
「お父さん、少しだけ、泣かせてください」
明は、静かに泣いた。
照富士も、わが次男の心を思いやって、涙を浮かべた。
明は涙を収めた。
「関脇、ローテーションの谷間で先発して中継ぎもこなす。そして準レギュラー野手」
「うん」
「ひとつ、ひとつは、地味で、脇役というべき存在ですけどね」
「うん」
「ひとりの人間が、それを全部やってしまったら、とても渋いでしょう」
ずいぶんと焦点が絞られた目標設定だな。
照富士は、思った。
横綱。エースに、三番か四番バッター。少年の夢丸出しだった目標が、急に、えらく小父さんぽく、具体的になったな。
まあ、こいつも色々考えたのだろう。良いことだ。
それだけ揃えば、こいつも将来、食いっぱぐれることはないだろう。
「おっと、放送される時間だ」
明が病室に置かれたテレビのリモコンのスイッチを押した。音楽番組だった。
しばらくして流れてきたのは、
照富士三兄弟が歌って踊る
「土俵を駆ける青春」
「これ、流行っているのか」
「ええ、そこそこには」
そうか、こいつには芸能界の道も開かれているんだったな。
あらためて考えたら、かなり羨ましい人生ではないか。さっきは、つられて、思わずもらい泣きしてしまったぜ。ちっ。
照富士の脳裏を、ひとつの映像が浮かんだ。
三兄弟が揃って綱を締め、各々、露払いと太刀持ちを従えて、並び立つ姿。
それは、もう決して実現することはない。
照富士は頭を軽く振った。
儂は、もう二度とその映像を思い描くことはすまい。
照富士は心に誓った。