2 理想の力士、夢との訣別(羽黒蛇)
羽黒蛇が入院する病院に、羽黒蛇が人生の師と仰ぐ、佐藤昌健が、ふらりと見舞いにやってきた。
恐縮する羽黒蛇に対して、
佐藤は、そのまま、そのまま、との言葉とともに、ベッドの傍らに座った。
「先生、このようなことになってしまいました」
「この前、横綱が、拙宅に来られてから、ひと場所で、こういうことが起きましたか。なるほどなあ。で、横綱、どうなさる」
「引退しようと思っております。先生の教えで、私は、また新たな境地で相撲を取ることができました。先日、先生のもとを去ってから、この怪我をするまで。相撲をこれほど面白いと思ったことはありません。」
「うん、名古屋場所の横綱は凄かったですなあ。私は、毎日、横綱の相撲を、見させていただきました」
「先生、あの十五日間、私は、全く負ける気がしませんでした」
「あの相撲であれば、そうでしょうなあ」
「もっと、あの相撲を取り続けたかったと思いますが、これで良かったのかな、とも思います」
「ん」
「先生、私は、ベッドの上で色々と考えました。どんなことにせよ、最高を極めてしまうと、そこから先には、もう行きようがない。
なんらかの形で、終焉を迎えるしかないのではないかということです。
金の玉関もそうでした。彼は、はるか高みを求めたのでしょう。 別の力を借りてでも、その高みを目指してしまったのでしょう。その結果があの破滅に繋がったのだと思います。
そして、この私も、金の玉関との相撲を契機とし、先生の教えにより、短期間で、自分として行きつくことの出来る、最高を極めてしまったのでしょう」
師は、黙って聞き続けた。
「少年時代に相撲と出会い、理想の相撲を思い描き、その理想の境地に達したと思ったとき、金の玉征士郎が出現し、その相撲が敗れた。
そして一度、引退を決意しましたが、先生の教えを受け、融通無碍の何物にもこだわらない相撲、さらにはこだわらないということ自体も捨て去った境地での相撲。私はこんなところまでたどり着いた。そう思っていました。
でも、金の玉が、自分ではない別の力を借りていたということを知ったとき、私の心は乱れました。どう考えたらいいのか分からない。
その気持ちのまま、稽古場に立ってしまった。その結果がこれです。」
師はなおも口を開かなかった。
「ここ数ヶ月、色々なことがあり過ぎました。でも、何か大きなものに触れ続けたとも思います。こだわることなく相撲を取るということの楽しさも知りました。自分なりの最高は極めたとも思えます。もう完全な体は望めないとなれば、あの相撲は、もう取れません。もうこれでよいではないかと思います」
「こだわらないこと自体も捨て去った相撲ですか。」
師が言葉を継いだ。
「横綱は、結局、何かの標語を心に刻まねば、相撲は取れないのですな」
羽黒蛇は、思った。おや、また批判されるのか。
「最高の相撲。こだわらないことにもこだわらない相撲ですか。つまらんですな」
羽黒蛇は思った。またか。私はもう十分に満足していると言っているのに、それは許されないのか。
「技も、体も、何らかのことで制限されることもあるでしょう。そのときできる精一杯のことをすれば、それでよいではないですか。心は、そのことだけに使えばよい。それ以上、余計はことを考える必要はない。心に標語を掲示するなど無用。
ただ、そのときそのとき感じたことを、受け止めればよい。心に決まった形などないのです」
もし、私が再び土俵に立つとしたら、
その時の私は、・・・最高ならざる力士。
その時の自分が取れる精一杯の相撲を取る。
それが、私か。私は、そんな力士になってしまうのか。
そのことは羽黒蛇を、何だかとても新鮮な、そして、とても愉快な気持ちにさせた。
羽黒蛇は、怪我が癒えた後、再び、土俵に立つことを決意した。
「ところで先生。今日は、わざわざ、こんなところまでおいでいただきありがとうございました」
「いや、いや。見舞いを兼ねて、横綱にお願いしたいことがあってな。それで来させてもらったんじゃよ」
「何でしょう」
「いや、横綱に、一度、連れて行ってもらえんかな、と思ってな」
「はい、どこでしょう」
「アイドルのコンサート」
「・・・・・・・分かりました」
師は、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。
「お目当てのアイドルがおられるのですか」
「いやあ、みんな可愛いけどな。区別はつかんのじゃ。横綱にお任せしたい」
「はい」
羽黒蛇は、考えた。
最初はメジャーアイドルかな。それともフレンドリーなローカルアイドルのコンサートにお連れしたほうが喜んでいただけるだろうか。
羽黒蛇の脳裏を様々なアイドルグループが駆け巡った。
まあ、今の私には、時間はたっぷりある。ゆっくり考えよう。