第1話 私と謎の青年 (5)
話を聞くと言っても、先ずは怪我の治療が必要であった。ボロボロになった服を脱がせてみると、無数の切り傷や痣があり、中には深そうな傷もあったのだが、綺麗とは言えない状態で塞がってはいた。恐らくは、ここにたどり着く前に無理やり塞いだのであろう、目を背けたくなりそうだった。
私も彼も治癒魔法は得意ではなかったようなので、黒の魔女が残した本とストックしていた材料を元に、何種類か薬を煎じた。悪臭と言っていいほどの匂いを放つそれを、一瞬表情を凍りつかせたながらも飲みきり、グツグツとなぜか泡を吹くそれを傷口に塗りつけても、顔を顰めはしたが悲鳴もあげずに耐えたのは、称賛するしかない。
ちなみに、私もこれを二年前に飲み、塗ったことがある。その時は大いに悲鳴をあげて、失神したそうだ。記憶にないが。
「お口直しに、どうぞ。」
「…お心遣い、ありがとうございます。」
レモンを輪切りにして入れた水を差し出すと、男はあっという間に飲みきってしまう。私が失神するくらいのものだしなと妙に納得しながらもう一杯用意して、机をはさんで向かい合うように椅子に座った。
不思議な感覚だ。エイダが死んでから、こうしてこの小屋でひとつしかない机と二つある椅子に、誰かと向かい合って座るのは久しぶりだった。
「あとから言うと卑怯な気がするので、先に言っておきます。この小屋の中では、決して嘘はつけません。黒の魔女がそういう呪いをかけていますから。」
なぜエイダがそんな呪いをかけたかというと、その原因は私だった。
こちらの世界に来て間もないころに、体調を崩したことがある。顔色が悪い私にエイダが何度か声をかけてくれていたのだが、心配をかけたくなくて、大丈夫だと繰り返していた。結果的には倒れてしまい、嘘をついてしまったことになる。
それにエイダは怒って、呪いをかけた。私の身を案じてくれたのもあっただろうが、何よりも魔法使いは言葉がとても大事なものなのだからこそ、エイダはとても怒ったのだ。
「嘘をつくと、どうなるのでしょうか?」
「大したことでは無いんですけど…」
と言っても、そんなに恐ろしい呪いではない。ただ嘘をつこうとすると言葉につまり、それでも無理に喋ろうとすると呂律が回らなくなるだけなのだが、それを言うのは面倒だったので、簡単で且つわかりやすい嘘をついて実践してみることにした。
「…私は男で…ふ、う、」
「…承知しました。」
やはり、実践すると話が早い。しかし、噛んだように喋れなかったのは多少恥ずかしかったので、咳払いをして話を続けることにした。
「私は、トモエです。先ずはあなたの名前を教えて貰えますか?」
「…アルベールと申します。」
座ったままだが、名乗ると同時に優雅な一礼をされた。その仕草一つを見ても、この男はそれなりに立派な身分の人間ではないかと思う。この世界に来てこんなにも丁寧な礼をされたのは初めてだ。
追われ襲われている、立派な身分の人間。ふと、その条件に当てはまってもおかしくない人物が頭をよぎる。もしそうであっては、本当にとんでもない。
「…まさか、今アフロート王国で話題の王子様だとか…そんなわけないですよね?」
今、行方不明になって騒ぎとなっている第一王子。それがこの、国王が病に倒れているこの時期にこのような場所で、追われ殺されかけているなんてことであれば、厄介事の中でも最上級の、王位継承を巡るお家騒動ということになる。そんなものに首を突っ込んでしまえば、到底平穏に暮らす事など出来ない。
息を呑んでアルベールの答えを待つが、彼は大して動揺した様子もなく、涼しげに首を振る。
「…私はアフロート王国第一王子、アデルバート殿下ではございません。」
あの国の王子は三人とも、なんとかバートという名前であったことを思い出して、彼がそれに当てはまらないことにほっと胸をなでおろす。流石にここで第一王子ですなどと言われてしまえば、どんな同情心も吹っ飛んで追い出しかねなかった。ここではっきりと口に出して否定出来るのだから、一安心だ。
「えっと、それで、その…アルベールさんは何故襲われていたんですか?」
「トモエ様、」
「…あの、様はやめてください。」
「…トモエ殿、」
話の腰を折られているのに怒ることもなくきちんと言い直してくれるあたり、とても誠実な人柄のようである。
「貴女の問いに、答えられるものと答えられぬものがある事をお許し下さい。」
そう言って彼が差し出したのは、自身の右腕だった。先程治療していた時にも気にはなっていたのだが、右の掌から肘の辺りまで黒い蔦のようなものが描かれている。
彼の言葉から察するに、恐らくこれは呪いだろう。
「…触ってみてもいいですか?」
「…はい。」
手首のあたりのそれに触れると、確かに呪い特有の魔力の反応があった。目を閉じて、その呪いの本質を探る。
「…口止めのものと、生命反応を確認するためのもの、その位置を把握するためのもの…かな。色々複雑に絡み合ってて、解呪は難しそうてですね…」
「仰る通りです。」
一つの呪いでも、その呪いをかけた者以外では解呪するのは難しいものだ。それが三つもとなると、その呪い同士が干渉しあって非常に厄介なものになる。
この小屋にかけられた、魔女の悪戯程度の呪いすら解けない私に解けるかどうか。呪いの正体を言い当てたことだけは、自分を褒めることにする。
呪いがある以上、本人が望んでも答えられない問いがある、という事は仕方の無いことだろう。小さく頷くと、アルベールはほんの少し、安心した表情を見せた。
「先程の問いの答えですが…先ず、私はとある場所に三年程監禁されておりました。」
私がこの世界で暮らしたのは二年程。それよりも長い。監禁されていたと言うからには、まともな待遇を受けていなかったのだろう。
「…それはどうして?」
「仔細は私自身も存じません。ですが、この身に受けた事から恐らくは、私が持つ魔力が故でしょう。」
確かにこうして生身で向き合えば、とても膨大な魔力を擁しているのが分かる。黒の魔女を十とすると、私は九、アルベールは五と言ったところだろうか。それでもここにたどり着けたのだから、五でも魔女に匹敵すると言えるのだろう。
一般人では一にも遠く届かない程度で、世の魔法使いも一、良くて二ということを考えると、アルベールは破格の魔力を持っている。その魔力を利用され、監禁されていたということのようだ。
「…それは一体誰が…?」
「私はその名を口にすることが出来ません。」
己をそのような目に合わせた相手のことは分かっているだろう。呪いさえとくことが出来れば、その相手を告発することも出来る。それが分かるだけでも、十分な情報である。
「先日、私はそこから逃げ出すことに成功致しました。それを追って来たのが、あの二人という事になります。」
「…連れ戻すためにしても、かなり物騒だったと思うのですけど…」
先程みたばかりの無数の傷跡を思い出して、ぶるりと身震いする。下手をすれば、死んでいたのではないかとも思う。
「私には前科があり…故に今回の逃亡には相当お怒りのようで、最早、五体満足でなくてもよいとでも言われているのでしょう。」
「前科?」
「二年前にも一度、逃亡したことがございます。連れ戻されてしまいましたが…。この呪いも、その際に。」
魔女ならば兎も角、一般的な魔法使いでは一つ呪いをかけるのも相当苦労するはずだ。そんな呪いを三つもかけるのだから、余程アルベールを手放したくなかったのだろう。
アルベールは少しだけ悲しそうな表情を浮かべ、目を伏せる。
「あの囚われた場所でも、私は、生きては…いました。しかし、身体の自由は利かず、意識もほぼ無く…未だにあの日から…三年も経っている事が、信じ難い。」
あの日というのは、彼が囚われる前の日々のことだろうか。
私がこの世界に迷い込む前。いつもと同じように仕事をして、休み時間には同僚と他愛もない会話をして、休みにはどこへいこうなんて考えていた、そんな何の変哲もない日々。今になれば、それはなんて平穏な日々だっただろうと思う。
彼にもそんな日々があったのだろう。それが理不尽に奪われ、時間が経ったという感覚もないまま過ぎ去ってしまっているのだ。
「私は、あの奪われるだけの生には戻りたくないのです。…どうか、」
アルベールの声は、穏やかで、美しい声だ。だがそこには、哀愁の念が感じられる。
「貴女のその心につけこもうとする真似を…卑怯という自覚は、ございます。ですが、どうか…どうか、私をお救い下さい。トモエ殿。」
今、私は自分の境遇に重ねて、彼にとても同情している。平穏に暮らしたい、厄介事に巻き込まれたくない、そう思っているのに同情心がそれに勝る。だからこそ、彼にこうも縋られては、それを断ること等出来そうになかった。
「う、ぁ、その…できる範囲で、なら…」
情けないが、任せろとはとても言えない。魔力だけはあるが、ほかは何も黒の魔女には到底及ばない私が、どこまでできるのか。
だが、アルベールはその答えでも満足したようで、目元を緩めて小さく笑った。