第1話 私と謎の青年 (4)
以前、黒の魔女エイダは言った。普通の人間はこの小屋にたどり着くことすら出来ない、と。なので、小屋の扉が外から叩かれるなんてことは、そうそう起きない。たどり着けないのだから、来客なんてあるわけが無いのだ。
だというのに、この状況はなんだろう。先程、この扉は外から叩かれたではないか。つまり、この木の板を挟んで外側に人間がいる。
(まさか…)
その人物に、たった一人だけ思い当たる人間がいる。先程の、森の入口で襲われていた、魔法使いの男だ。
この小屋にまでたどり着けるということは、あの魔法使いの男は魔女に匹敵する魔力を持っているのだろうか。だとしたら、私に匹敵する、あるいはそれ以上の魔力を持っていることになる。
先程は助けもしたが、邪魔もした身だ。一連の出来事が、あの場にいた三人以外の人間によって手を出された事は、男も分かっているだろう。こちらが敵意を持っていると解釈されるのも有り得なくはないし、逆に男がこちらに敵意を持っている可能性もゼロではない。会いたくない。
助けたいとは思っていたが、正面切って関わりたい訳では無い。あのように命を狙われていたのだ、とんでもない厄介事を抱えてるに違いない。私はここで平穏に暮らしたいのだ、そんな厄介事に関わりたくない。
それに、魔女に匹敵する魔力を持つなら何も心配することは無い、男は自力でこの森を脱出できるだろう。最早、あの男に関わる理由は、ない。
(居留守だ…居留守を使うしかない…!)
息を潜めてじっと扉を見つめる。なんの返事もなければ開く様子もない扉を、外にいる誰かはまたゆっくりと叩いた。それでも決して出ないと決意を固め、息を潜めて身を低くし、窓から死角になる場所へと移動する。これで、誰かいないかと窓をのぞき込まれたとしても気づくまい。このまま諦めて去ってほしいと強く念じるが、しばらくして扉が外から開かれて、小さく悲鳴をあげてしまった。
「ひゃあ!」
驚きのあまり、尻餅をついてしまった。慌てて近くの布を引っ張りこみ、それを頭から被って扉に背を向けて縮こまる。普段人間などこの小屋に訪れないので、鍵などないことを思い出した。それに今は夜、誰もいない小屋ならそこで夜を明かそうと思ってもおかしくはない。考えが浅かった。
「…、あの、」
ぶるぶると震えていると、頭上から声が降ってきた。恐る恐る振り返ると、やはりそこにいたのは水瓶に映っていた、襲われていたあの男だった。水瓶越しでははっきりと分からなかったが、近くで見るとボサボサになってしまったプラチナブロンドの髪と、真っ赤なルビーのような目をした青年だった。髪は乱れていたが、中性的でとても美しい顔をしていたので、思わず見とれてしまう。
男のその目に映るのは、困惑の色だ。確かにこんな部屋の隅で、布を被って縮こまる女がいれば戸惑うのもわかる。私でもきっとそうなるだろう。
「貴女が黒の魔女であられる…?」
「…違います、人違いです。」
嘘ではない。正式には黒の魔女見習いだ。エイダの死後、継ぐものが未だいないのだから、黒の魔女はエイダのままである。私は黒の魔女を継げると思えるまでは、いつまでも見習いのままなのだ。
「黒の魔女はどちらに?」
「…すみません、知りません。」
これも嘘ではない。死者がどこにいるかは私にも分からない。
「…では、貴女は一体?」
当然の疑問だろう。黒の森には黒の魔女が住んでおり、恐らくはその住処であろう小屋にはその本人が何処にもおらす、謎の女が一人。怪しいのも無理はない。その上、このあたりでは見かけない風貌をしており、それが魔女だからという言葉で解決出来ないのなら、尚のこと怪しい。
「私は、黒の魔女の弟子…です。魔女は不在の為、今は私がここを預かっています。」
「それでは、先程は貴女が…」
「あっ」
魔女がいない以上、先程の一連の出来事に介入出来る魔法使いは魔女の弟子、つまり私しかいない。自分で自分が介入しましたと言ったのも同然である。
慌てて男に向き直り、両手をついて身を乗り出し、男が何かを言おうとしたのを遮って言い訳を並べる。
「あの、ですね!私は決して、決してあなたを害しようとした訳ではなく…結果的には邪魔をしてしまいましたが、あの、その、…つまりええと…あなたに敵意はありません!」
今までビクビクとしながら質問に答えていた女が突然大声を出したものだから驚いたのだろう、男は目を丸くしていた。だが、私の言葉の意味を直ぐに理解したのであろう、慌てたような表情を浮かべた男は、両手を否定する様に左右に振る。
「貴女は私を助けてくださった。そんな、邪魔等と!感謝こそすれ、恨み等ございません。ですから、貴女を傷つけるような真似は決していたしません。」
男にもこちらへの敵意は無いようだ。言質が取れたことに安心して、肩から力が抜ける。無意識のうちに力が入っていたようで、白くなっていた指先が色を取り戻していった。
男がへたりこんだ私の前に膝をつく。目線の高さが同じ程になり、じっとこちらを見つめてくるものだから落ち着かなかったのだが、何やらそれが真剣なものだったので目をそらすことがためらわれた。
「魔女の弟子殿、お願いがございます。」
落ち着いた声だった。だが、その声で悟る、これは厄介なことになるのだと。お願いを聞く前から既に断りたくて仕方が無いのだが、この男の切実そうな表情に声が出ない。
「どうか、私を助けていただきたいのです。」
「…もう十分助けたと思うのですが。」
以前に聞いたことのあるやり取りだった。その時は立場が逆ではあったが。
考えてみれば、男は迷うことなくこの森に入ってきたのだ。最初から魔女に助けを求めるためにここへやって来たのだとすれば、その行動も納得できる。戻った者はいないと言われる黒の森に入り、その恐ろしい森に住まう魔女に助けを求めなければならないほど、彼は切羽詰まっているのだろう。そして、魔女がいない今、残された望みはそこにいた魔女の弟子だけだというのも、わかる。
わかるが、そう簡単に頷けない話だ。確かに私は二年前、黒の魔女エイダに助けられた。だが、それはエイダには成し遂げれるだけの実力もあり、それに伴う自信もあったからだ。
それに比べ、私は未熟であり自信も何もない。同情心だけで頷くのは、優しさでもなんでもない。
厄介なことには巻き込まれず平穏に暮らしたいという気持ちもある。この世界に迷い込んで、やっと手に入れた私の居場所を守りたいという気持ちも、捨てきれない。
それに相反する、やはりこの男への哀れみか、以前の自分を重ねてか、助けてあげたいという気持ちもどうしても捨てきれない。
「私の願いが、貴女にとって何の利にもならない事は承知しております。」
こちらが迷い、戸惑っているのを察しているのだろう。男は少し目を伏せ、唇を噛んでいる。
「それでも私は、生きたいのです。どうか私の身勝手な願いを、聞き入れてくださいませんか。」
だが、男はそれでも、己の願いを叶えるために言葉を発する。それは二年前の自分と同じだ。
死にたくない、生きたい。その想いでこの黒の森を徘徊し、小屋にたどり着いた。そこで黒の魔女にであって、絶望に染められた世界が色を取り戻した。あの時、どれほど私はエイダに救われただろう。
この男も、あの時の自分と同じ状況なのかもしれないと思うと、嫌だとは言えない。
「…その、まずはもう少し詳しくお話を、聞かせていただけませんか…」
そう簡単に、エイダのようにはなれないだろう。けれどもしかしたら、未熟な自分でもなにかを成すことは出来るかもしれない。