第1話 私と謎の青年 (3)
三人は、正確には二人と一人は何かを言い争っているようだ。この水瓶ではその光景を映すことは出来ても音声を拾うことが出来ないので、どんな内容かはわからない。
その合間に突然女が懐から短剣を取り出し、男に向かって投げつける。だが、男が右手を突き出すと、その手の前に魔法障壁が現れ、短剣は弾かれて地面に落ちた。
この襲われている男は、魔法を使えるようだ。魔法障壁を作り出せるほどの魔力と知識を持つ者はそうそういないので、十分に魔法使いと呼べる。武装した二人組に対して、なんの武器も持たない男がここまで逃げてこれたのもそれが理由だろう。
だが、水瓶を通しても見てわかるほどに傷だらけで疲労困憊しており、この二人組に負けてしまうのは時間の問題だろう。この三人の事情は知らないし深く首を突っ込む気もないが、ここが黒の魔女の支配下、黒の森である限りは人間同士の血腥い争いは遠慮頂きたい。
さて、どうしたものだろうか。ただ追い返すだけならまだ楽なのだが、三人は争っている。襲われている男を二人組から引き離すようにしなければ、あまり明るくない未来になるだろう。
迷っていると、周りの木々を大きく揺らすほどの風が、襲われている男の周りに巻き起こった。武装した男女も警戒した様子で動けないようだ。何をしでかす気なのか、長い呪文を詠唱した様子はなかったので、あまり複雑ではなく、だが威力は高い魔法を使おうとしているとだけしか分からない。ぜいぜいと息を荒くしている様子からして、この魔法を使えばこの男もただでは済まないのであろう。
人が持つ魔力は有限だ。魔法を使う度に消費されていき、きちんと休めば魔力は回復するが、回復する間も無く自分がもつ魔力を極限まで使えば、生命維持すら危うくなる。それほど追い詰められているのだろうが、この男も、襲っている男女もどちらも死なれては困るのだ。
呪文を早口で詠唱しながら、水瓶に右手を手首まで突っ込む。手首部分は水のひんやりとした感覚があるのに、その先は水瓶にうつる森の、風が轟々と吹き荒れ肌にぶつかる感覚だ。この水瓶は映りこんだ光景に干渉することが出来るのだ。
こうして手で感じると、かなり大きな魔法を使おうとしているのがわかる。魔女の住む森の前でこれ程の魔法を使おうとは、肝が座っている。命がかかっているこの状況での最終手段だからかもしれないが。
魔女見習いの私としては、このような魔法を使えるのはすごいと思うのだが、もしエイダがいれば、なんというのだろう。
(…今は集中しないと。)
それてしまった思考を、首を振り雑念を霧散させる。魔法というものは結構繊細で、雑念が入って集中出来なくなってしまうと、発動させることに失敗することもあるのだ。
発動させるタイミングは慎重に見極めなければならない。失敗すれば二人組に男が殺されるか、男の魔法で二人組が殺されるか、相打ちとなって三人とも死ぬか。悪い未来はいくらでもある。
睨み合いの均衡状態を崩したのは、二人組の方だった。魔法を発動させる前に仕留めることにしたのだろうか、左右に別れて男へと襲いかかろうと動いた。男もこれに対応しようと手に力を込める。
そこで、組み上げた魔法を発動させた。同時に森に大きな大地の揺れが発生し、水瓶の光景が大きく揺れた。私は手のみが宙にある状態なのでわからないが、恐らく立っているのがやっと程の揺れなのだろう、二人組はそれぞれ膝をつき、男はバランスを崩しながらも立っていたが、驚きに目を見開いて、発動させようとしていた魔法に揺れが生まれた。
そこに魔力を思い切りぶつけると、男が組んでいた魔法が一瞬で霧散する。揺らいだ魔法を崩すのは簡単なもので、特別な魔法など使わなくても、魔力の塊をぶつけるだけで事足りるのだ。
続けて、比較的簡単で早い魔法を早口で詠唱する。小規模な爆発を起こす魔法だが、それを近くの数本の木の根元に叩きつけた。すると、木の根元が大きく抉れ、支えを欠いた木が横倒しになる。抉る方向さえ間違えなければ倒す方向は操れるはずで、結果として私が望んだ通りに、木が男と二人組を遮るように倒れた。
全て、十数秒程の出来事だ。これで全ての行動を遮れる訳では無いが、目をくらまし、逃げるには十分な時間を稼げるはずだ。何せ男は魔法使い、例えば転移だとか浮いて移動するだとかの複雑な魔法も、対峙していては難しいだろうが、こうして相手の視界から身を隠せたのなら、何とでもできるだろう。
そして思った通り、男が呪文を詠唱し、さらに宙に指先で何かを描いた。その指先が辿った跡がほんのりと光り、魔法陣を形成する。それが光ったと思うと、男が宙に浮いた。
「…えっええ?!」
さすがは魔法使い、と感心したと同時に驚かされる。なんと男は迷うことなく、黒の森の中へと飛んで逃げたのだ。
「待って、ダメですよそっちは!!」
水瓶に向かって叫ぶも、顔を突っ込めば可能ではあったかもしれないが、声が届くことはなく。まさか生きて戻ることが出来ないと言われる黒の森に、魔法使いならばこの異様な森を覆う魔力に気づいているだろうに、迷いもなく入り込むなんて思わなかった。
「そ、そんな…」
いよいよその姿が水瓶に映らなくなって、項垂れる。確かにあの二人組からは助けるとことは出来たが、黒の森の恐怖からは助けることが出来なかったのだ。
男女は流石に黒の森に入るのは躊躇しているようで、これが正常な反応だ。恐らくはこのまま引き返すだろう。この二人組から逃げ切るという判断では、あの男の判断は正しい。
「エイダなら…」
エイダならきっと、もっと上手くやっていただろうに。
これは義務ではない。けれど、彼女の跡を継ぐと決めたからには、成し遂げたかった。まだまだ未熟という自覚はあったが、助けられたかもしれない命を助けることが出来なかったという事実に、今まで以上に自分の未熟さを痛感する。
水に映った光景が消える。森に入りそうな者がいなくなったからだろう。三人のうち二人は阻止、一人は入り込んでしまったという結果。これが今の自分の実力だった。
あれから三時間ほど経っただろうか。
せっかく温めたシチューもあまり喉を通らず、外の様子だけが気になる。エイダの本を読もうとしても頭に入ってこなくて、ちっともページが進みそうになかった。
あの男は今頃どうしているのだろうか。この黒の森に生息する恐ろしい魔物達に襲われていないだろうか。探しに行こうかとも思ったが、あの時点で外は暗くなっていて、昼の森も危険だが夜の森はさらに危険だ。
私は魔女見習いと言っても、戦った経験はほとんどなく、身体能力も低いし、何より攻撃系の魔法が使えない。正確には生物に対して、それが襲いくる魔物であっても攻撃系の魔法を使えないのだ。先程の木を倒した魔法も、生物に向かって放とうとすると失敗してしまう。
そんな私が、夜の黒の森に出られるわけもなかった。
それでも気になって窓の外を見るが、この魔女の小屋の辺らを見たところで、そもそもここにたどり着ける人間などそういないのだから何もわかるわけが無い。夜が明けたら探しに行こうと横になっても、睡魔は訪れず。
「本当に、全然ダメな私…」
せめて落ち着きくらいは持っていて欲しかった、私。不甲斐ない自分を恨めしく思いつつ、落ち着こうと白湯を一口、口に含んだその時、小屋の扉がコンコンと、控えめに叩かれた。
思わず手にしたコップを落としそうになる。
ここは黒の森。魔女以外の人間は誰もいないはずなのだ。
例外は魔女に救われ魔女に弟子入りした私と、つい数時間前に入り込んだ男が一人だけだ。