プロローグ
一ノ瀬巴、二十三歳。どこにでもある小さな会社に勤めている、ごく一般的な会社員だ。
だが今、私の身に起こっている事は到底一般的とは言えない。繁忙期で仕事に追われ、ようやく日付が変わる頃に自宅の最寄り駅にたどり着き、人気のない暗い道をただ帰りたい一心でのろのろと歩いていただけだったはずなのに、立ってもいられなくなるほどの眩暈に蹲り、真っ黒に塗りつぶされた視界がようやく色を映したと思えば、見たこともないような森の中にいた…なんて。
「…いや、何処ここ…」
鬱蒼と生い茂った木々に見覚えなんてない。ビルの合間から見える空は僅かに星が輝く黒だったはずなのに、枝葉の間から見える空は澄んで青い。
「…夢?」
夢だろうかと手をつねってみるが、痛い。それでも信じられなくて力を込めると、更に痛いだけだった。
痛みがあるということは、これは夢ではない。だが、夢でないならこの状況に説明がつかない。
「…何でこんな…いや、こんなところでボーっとしている場合じゃないんだよ。明日だって仕事だし、朝早いんだし、お風呂入って寝ないといけないんだよ…」
そんな独り言に返事を返してくれる者など勿論無く、声はむなしく消えていく。目を瞑ってゆっくり開く、何度かそれを繰り返すが一向に景色は変わりそうになかった。
いったい自分の身に何が起きたのか、わからない。四方八方を木々に囲まれたこの異常な状況に、どうすればいいかもわからない。混乱していた頭が少しずつ落ち着いてくると、代わりに胸に不安が広がり、じわりと滲み出る涙に視界が歪む。泣いたところで何か変わるわけではないのはわかっているが、どうしようもないこの不安と心細さにそれを止めることができなかった。
「誰か…」
手の甲で涙を拭い、誰か、せめてここが何処なのかを知る人間はいないだろうかと辺りを見回す。私の理解が及ばぬ状況ではあったが、ここでじっとしていても事態は好転しそうにないのだ。
辺りは見回す限り木々、少なくともこの場には私以外、誰もいないことは確かだ。であればやるべきことは、人がいそうな場所まで行くことだろう。言うは易く行うは難し、どこへ行けばいいのかなんて皆目見当もつかないが、ここで突っ立っていても誰かが通りがかるような場所ではなさそうだ。
歩き始めようと意を決したその時、背後から草を踏みしめる音が聞こえた。気づいたときは小さな音であったが、息をのみ、体を強張らせている内に段々と大きくなっている。という事は、何かが近づいてきているようだ。それが人であれば大変な幸運であるが、こんな森の中だ、嫌な予感しかしない。
(…まずい、逃げないと…)
逃げないととはわかっているのに、足の裏と地面がくっついてしまったかのように動かない。頭の中を占めているのは恐怖だ。その音を鳴らすものの姿が肉眼ではっきりと見えるほど近くになって、ようやく足を一歩後ろへ動かせる。木々の合間に見えたのは人ではなく、見たこともない生物だった。
私が知っている中で一番近いのは、熊だろうか。その熊に大きな角と長く巨大な尾が生えている。熊にも似ても似つかないかもしれない、どう見ても危険な化物だ。ギラギラとした双眸が此方を捉えているのがはっきりわかる。手遅れだと悟ったのは、それがこちらに向かって走り出してきた時だ。
弾かれた様に足が動いて、背中を向けて走る。逃げないと死ぬ、どう考えても死ぬ。だが、普段から大した運動もしない女の足などで逃げ切れるはずもなく、無我夢中に走った甲斐もなく追いつかれる。肩越しに振り返って見えたのは、凶悪な鋭い爪が生える右手が私に振り下ろされる瞬間だった。
背中に強烈な熱さを感じて、悲鳴を上げた。顔から地面に倒れ込む。熱い、痛い。はっはと浅く息を吐きながら、逃げようと地面を這って起き上がろうとするも、力が入らない。
「何で…っいや…」
何故こんなところにいるのか、何故こんな目に合わなければならないのか。何もわからないまま、このまま死ぬのか。
(嫌、嫌、死にたくない…助けて!)
助けを求め、目をギュッと瞑ったその時だった。雷が落ちたかのような轟音が響き、メキメキと何かが折れるような音、ドンと何かが倒れる音、そして獣の悲鳴が続く。震える両腕に力をこめて何とか後ろを振り返れば、自分の投げ出された足の数センチ先に倒れ込んだ先ほどの化物と、それに覆いかぶさる、根本から折れた巨大な木があった。
運が悪かったのか、幹から延びる太い枝がその化物の背を突き刺している。下敷きになっている化物は動く様子が無く、死んでいるのか生きているのかはわからない。ただ、どうやら私は助かったらしい、それだけは分かった。
両腕に力を込めて何とか立ち上がり、震える足に鞭打って、強烈な痛みと倦怠感に悲鳴を上げる体を引きずりながら歩き出した。兎にも角にもあの化け物から離れたかったのだ。
そうしてどれ程の時間を歩き回ったのだろうか。額には脂汗が浮かんでいたが、痛みは感じなかった。おかげで歩き続けることができたが、それもいつまで持つだろうか。背中の傷なのでどのようになっているのか確認できないし、手当もできない。何とかしなければあの化け物から逃げれたとて、このままでは死ぬことになるだろう。
(誰か…)
正常な判断ができなくなっている自覚はあった。この様な人気のない森の中で、背中に怪我を負ったまま誰かを探して彷徨い歩き回っているなんて。ただ、誰かに助けてほしい、その一心だ。
その思いが通じたのか、少し開けた先に小屋が見えた。窓からは明かりが見えて、それはそこに人がいる証明であった。鉛のように重かった体が、それを見た途端、羽のように軽くなったかの様に動く。縋る思いでその小屋の元へ駆け寄り、扉を叩いた。
「誰か、誰かいませんか。助けてください!」
だが、小屋の中からは反応が無い。不安と焦り、死への恐怖に体が震える。人がいる場所にたどり着いたという安心感からだろうか、唐突に背中の痛みがはっきりと認識されて、ずるりとその場にへたり込んだ。
「…誰も…居ないの…?」
絶望に瞼を閉じる。やはりここで私は死んでしまうのだろうか。目の前が真っ暗になるというのはこのことだろう、漸く誰か人がいるかもしれない場所にたどり着いたというのに、誰もいない。気力だけで動かしていた四肢が、今度こそ全く動かせなくなってしまった。
(何で私がこんな目に…)
こんなことがなければ、何の変哲もない一日で終わるはずだった。朝目が覚めて仕事に向かい、上司の嫌味にも負けずに業務をこなし、少し気になる営業部の彼と一言二言言葉を交わして喜んで、クタクタになって帰宅して次の休日を心待ちにする。本当に、何の変哲もない一日だったのに。
「帰りたい…」
なのに訳が分からないうちにこんな目に遭って、何も分からないまま、このまま死ぬ。何の変哲もない一日はもう二度と訪れることがないのだと思うと、無性に帰りたくて仕方がない。
「あら、まあ…いないと思ったら、自力で此処にたどり着いていたなんて。」
絶望に染まっていた世界に、女の声がふってくる。睡魔が襲い重くなった瞼をなんとか上げて見ると、そこにはこんな森に到底似合わない、一人の女がそこに立っていた。
西洋系の顔立ちの、とても美しい女性だ。ワンレングスボブの漆黒の髪と同じ色をしたワンピースを身にまとっている。日に焼けたことのなさそうな白い肌にはめ込んだ、ルビーの様な真っ赤な二つの目に、力なく倒れ込む自分の姿が映っていた。
「…助けて、ください…」
「さっき十分助けたと思ったのだけれど。」
さっきというと、あの恐ろしい熊のような化け物のことを思い出す。すさまじい轟音を立てて倒れた木のおかげで助かったが、それは彼女の仕業なのだろうか。確かに、偶然にしては都合の良すぎるタイミングであった。
「お願いします…死にたく、ないんです…!」
美女の姿が滲み、歪む。そうだ、死にたくないのだ。その一心でここまでたどり着いたのだ。
助けてほしい、死にたくない。まだ生きたい。ただ一心に、強く願う。
ぼろぼろと涙が溢れて零れ落ちていた。じわじわと蝕む睡魔に意識が朦朧とし、視界が暗くなり、まるで水の中に沈んでいるように、耳が聞こえなくなる。遠くなっていく意識の端で捉えたのは、とても優しい声だった。
「いいわよ。ここまで自力でたどり着いたのだから、助けてあげるわ。」
これが黒の魔女とよばれるエイダという女性との出会いであり、私の人生の分岐点であった。