古の大妖―2
あの世とこの世の境目とされている『六道の辻』から地上へ出た冥府の官吏・小野篁は、そのあまりに禍々しい空気に秀麗な顔を思い切りしかめた。
「なんだこれは……」
重苦しく纏わりつく妖気、瘴気。
生まれながらにして甚大な霊力を持っている篁の目には、我が物顔で大通りを闊歩する悪鬼妖怪が映っている。
そのうえ、至る所に渦巻いている瘴気と怨念は滅多にお目にかかれるものではなく、それらを餌にして物の怪たちは成長している。
これが見えない人々は、いっそ幸せだと言えるに違いない。
「やれやれ。久しぶりに鬼退治、か……」
かつて嵯峨天皇に仕えていた頃も、よくこうやって悪しき鬼どもを狩っていた。人界での寿命を終えた後も時々――主に時代の変わり目、大量の血が流れるとき――鬼退治に参上していたが、いつの頃からか鬼そのものが減っていった。
そのため、篁の仕事も冥界で閻魔王の補助が主となっていた。
「よし、やるか。まずはあの鬼どもからだな」
呼吸を整えて剣印を結ぶ。熟知している鬼の急所めがけて勢いよく振り下ろす。指先から霊力が奔り、それをまともにくらった鬼が咆哮を上げ横倒しになり、たちまち霧と化す。
現役の頃と何ら変わりのない霊力に安堵する。
だが、篁の眼がくっと細くなった。本来なら直ちに霧となった妖気は浄化されるはずだが、消えることなくどこかへと流れて行くのだ。明らかにおかしい。
立て続けに二匹、三匹と狩ってみると、霧の行く先はきまっているらしい。霧の流れを追いかけた篁の顔が、再び顰められた。
「まさかあの塚が、妖気を呼び寄せているんじゃないだろうな。あいつが目覚めてしまったら……厄介だぞ」
塚のある場所まで疾走しながら、篁は新選組の連中に思いを馳せた。
町に満ちた怨念の大半は彼らに向けられたものだ。このまま放っておけば、新選組は遠からず異形と怨念によって滅ぼされるだろう。
「閻魔王、思っていたより事態はずっと悪いよ……」
篁が疾風と化して鬼を狩っている頃。
京都守護職支配にある治安維持部隊・新選組も、走っていた。局長隊と副長隊にわかれ、宿という宿をしらみ潰しにしている。
目的は不逞浪士の集会、今宵は、大物が集って何事かを企んでいるはずなのだ。
「次は、この宿だ」
その宿――池田屋――を引き当てたのは近藤隊だった。
「御用改めである! 主は居るか!」
二階にいる浪士たちに急を告げようとした池田屋主人が殴り倒されたのをはじめとし、あっという間にそこは地獄と化した。
狭い階段を一気に駆け上がる近藤勇に続くには、ちらりと方々に視線を投げた沖田総司だ。
藤堂平助が、その視線を受けてにやりと笑って答えた。
「ここはおれと新八さんがやるよ」
「ん、任せた!」
綿密な打ち合わせをしてからここに斬り込んだ訳ではない。だがそこは、江戸の剣術道場試衛館以来の同志だ。視線の一つ、呼吸の一つで互いの考えが手に取るようにわかる。
「土方さんたちが来るまで、頑張るよ」
打ち合わせらしい打ち合わせもないが、問題はない。互いに、考えそうなことはわかっているし、剣豪ぞろいだ。
およそ一刻あまり続いた闘いは苛烈を極めた。
密談をしていた倒幕派は中心人物を幾人も失った。また、後から駆け付けた土方隊や会津藩兵により一度は逃げ出した参加者が大量に捕縛された。
もちろん新選組側にも死者と怪我人が出ている。幹部も例外ではなかったが、それと同じくらい大変なことが、起きていた。
この、後に『池田屋事件』と呼ばれる出来事で沸き起こった怨念が、尋常ではなかったのだ。
たちまち都全体を覆ってしまった。
しかし、その怨念に気付いたものはおらず、数多の異形・妖を呼び寄せながらある一ヶ所に向かっていることにも、誰も気が付かなかった。
――ワレニチカラヲ……
小刻みに鳴動していた塚に、ぴきりと皹が入った。割れた塚は、しゅうしゅうと黒い靄を吸い込んでいく。
黒い靄の正体は、人々の放つ怨念や憎悪だ。それが、ここに封じられた者の原動力となるのだ。
――アレハ……タカムラ……ダ……ニクイ
――アレは……妖狐……
――アノ男ハ!
「あの男! よくも我を……」
声無き怒声に、大気が震える。塚を取り巻く妖気の渦は刻一刻と濃さを増す。
その禍々しさの前に、永きに渡り自身を封印してきた陰陽師の術は次第に力を失う。同時に、自身の妖力が増している。
「手下が、欲しい……」
彼の願いに応じて、都の至るところで妖気と怨念と異形とが交ざりあい新たな異形を生み出した。
異形は異形を呼び、怨念は怨念を呼ぶ。
「我に、力を……」
この日生まれ落ちた『異形の核』となるものはほとんど共通している。
――新選組憎し!