耳が心配になりました
悠は財布の中身を確認し、表情を曇らせた。予想していたことではあるが、金額が足りなかったのだ。
骨董品店に入ればお金が手に入るだろうが、初対面である運転手が信用してくれるとは限らない。実際は、この運転手は快く「何日でも待ちまっせ」とかいってサムズアップするのだが、そんなこと、悠が知るよしもないのだ。
いっそのこと担保にマフさんを置いてくかな……。少女が苦渋の決断をくだそうとしていると、思わぬところから助け船が出された。
「ああ。お会計、500円でいいですよ」
親指と人差し指をくっつけて、サインをつくる運転手。
え、と声をだして、少女とマフラーは目を皿にした。
視線の先にあるメーターには、その十倍以上の値段が表示されていたのだ。
「そんな、悪いですよ」
「うむ。少々気前が良すぎないか?」
「いいんですよ。商売なのでお金は頂きますが、本当は無料でもいいくらいなんです。だってこのご時世、お金の意味なんてあってないようなものですからねえ。最近じゃあ、千円紙幣で鼻をかむ子供までいるんですよ。
まあ、その代わりといっちゃあなんですが、また乗ってくださいな」
タクシー業を務める者としては、それが喜びなもんでして。運転手はそう付け足しながら、へらへらと笑う。
悠は、その瞳に真剣の光を見た。感嘆するように、息をつく。
「わかりました。お言葉に甘えます。でも、快適運転のチップくらいは受けとってください」
「おやおや、これは光栄極まりですねえ」
悠はいわれた値段に五百円硬貨を三枚足して、合計二千円を差しだした。財布の中身が軽くなる。
運転手は、うやうやしい手つきで貰いうけた。「毎度あり」と、口上も忘れない。
財布を鞄にしまってから、荷物を抱え、お礼をいって、車を出る。
そして、車を見送ろうと、くるりと向き直って、バタン――ドアを閉めるタクシーに、深くおじぎをしようとする。
すると、ちょうどそのタイミングで運転手が、「そうだ」と買い物を思い出したように呟くと、助手席側に移って窓を開けた。
そして、窓から若干はみ出るようにしながら、手のひらを上に向け、わざとらしく肩をすくめた。片方の眉が上がる。
「お嬢ちゃん。終末には、どうかお気をつけて」
冗談目かした言い方だった。が、どこか切に祈るような、そんな雰囲気を含んでいた。
愉快な方だ。悠は目を細くする。マフラーも、小さく笑った。
そして、聡明な彼女には察することができた。その言葉が、遠回しの警告なのだと。
「うん、ありがとう。おじさんも、命を大切にね」
だけど、悠はこれまた遠回りに答えた。
運転手は「……ああ、ありがとう。せいぜい長生きしますよっ」返事をしながらも、かすかに肩を落とす。
声色から、理解できてしまったからだ。目の前の彼女は、今まばたきをしたときに丁度世界が終わっていても、自分の選択――いまだアースに留まっていることに――粒ほども後悔を残さないのだろう、と。そしてそれは、自分も同じだったから、痛いほどに納得できた。
表情を悲痛に曇らせる運転手に、「優しい人なのだな」とマフラーがつぶやいた。
彼は、それを聞いてか聞かずか、はっとしてから「お客さんの全員に言ってるだけですあ」照れたように茶化し、右側の席へもどっていった。
「それじゃあ、また何処かで」
窓が閉じられていく、ウィーン。タイヤがくるくる回転し、車はゆっくりと加速した。
悠はしばらくの間、その後ろ姿に礼をしたり、手を振ったりして見送っていた。マフラーは手がなかったので、端のほうをパタパタ振った。
車はみるみる小さくなって、やがて遠くの交差点を曲がっていった。
「面白い人だったね」
「うむ。加えて、運転も良い。いつかまた乗りたいものだ」
「そうだね」
さて、と夜空に白い息を吐いてから、くるりと体をひるがえした。彼女の目前には、朝から目指していた場所がある。
悠はうーんと体を伸ばす。辺りに人の気がないことは確認済みだ。
その頭のなかでは、さして長くもなく、それでも決して短いとはいえない旅路を振り返っていた。
眩しい日差し。美味しいお茶。逆さまの地図。目につく全てが珍しい、知らない街の景色。大通りにつくまでに、何度も間違えた分かれ道。呆れるマフラーの溜め息。申し訳なさそうな少女の唸り声。自動コンビニのおにぎり。美味しい鮭。リアルおにぎりころりんすっとんとん。潤む瞳。マフラーの慰め。歩き疲れた夕暮れ。寒風。無銭宿泊への誘い。愉快なタクシー運転手。心地のいいシート。機械仕掛けのストリート。レトロな道。――ようやくたどり着いた実家。
「はあ。本当にくたびれた」
たった一日で、いろいろなことがあった。
「私も同じく、だな。早く休息を取りたい」
「マフさんって、寝るタイプの付喪神だっけ?」
「いや、睡眠の必要はない。だが、意識を落としてる間は楽なんだ」
「そうなんだ。じゃあ、一緒に寝よっか」
「うむ――――んん? ……いいのか?」
「別にいいよ? マフさん暖かいし」
「そういうことでなく……。いや、まあ、本人が気にしないようなら、別にいいか……」
マフラーは何か考えるようにしたが、諦めたように溜め息をした。
よし、と前置いて、少女が扉に手をかけようとして――引き戸は勝手に開いた。
悠の帰りをいち早く認識していた家が、手を煩わせまいと自ら開いたのだ。
そう、マニマ骨董品店もまた付喪神である。建造物にだって、命は宿るのだ。
寡黙だが空気を読ませたら世界一であろう隣人に、ありがとうとお礼を言ってから、悠は一階の店内へ踏み入れる。二階は主な居住スペースである。
しんと、静まりかえった、骨董の多い店内。石床を土足で歩いていく。
遠目にみればごちゃごちゃしているが、近くを歩けば意外に整理されていることがわかる。食器類は食器類で積まれているし、根付けやストラップ、アクセサリーはひとつの棚に並べられていて、ツボや昔の家電などは壁際に整列している。
悠が違和感に首を傾げた。
あまりにも静かすぎるのだ。何故か電気も点いていない。
彼女は知っていた。この骨董の山の中にたくさんの付喪神が紛れていることを。気配だって、うっすらと感じている。
家は良くない意味でも、空気が読める。少しだけ戸を開けて、ひゅうう、風の音を演出してみせた。
「あのー」
店内中央くらいまで歩いてから、悠は意を決して声をかけた。
すると、店の奥、少女の位置からは見えないところから、重々しい声が返ってきた。
「んじゃ。もう今日はとっくに店じま……い……――うぬ?」
老人の声だ。追い返すような厳しい言い方だったが、途中で何かに気がつく。
「お主。……まさか」
思考を巡らし、すぐに解答に辿りつき、その答えを信じきれない老人の声。
ざわざわ、ざわめき、そこら中からささやき声。
「悠……か?」
「うん、ただいま。久しぶり」
素直に帰宅の挨拶をする。
そして、3…2…1…、示し合わせるように……。
『おおおおおおおおおおお!!!』
狂喜の叫び、怒涛の舞い、空気を震わす大音声。
パチンと明かりが点くと同時に、驚き、あるいは喜び、またはそれ以外の感情で、一斉に家中の付喪神が――十や二十に収まらない数の付喪神が、ヒートアップに騒ぎだした。
お読み頂きありがとうございます。
長くなったので切りましたが、今夜もう1話投稿します。
また、活動報告にて既に説明致しましたが、先日プロローグ部分を加筆修正しました。内容に大きな影響はございませんが、新バージョンをまだお読みでない方は、ぜひお読みくださいませ。