アトロポス
冷凍睡眠用のカプセル型ベッドに,若い女性が横たわっていた。陶器のように白い肌,彫りの深い端整な顔立ち・・・女神のように美しかった。
「彼女は死にかけている。」
わたしを案内してくれた老人が,つぶやくように言った。「わしは彼女の夫だ。もう一万年以上も昔から,彼女に付き従ってきた。これからどうすべきなのか・・・」
老人の顔には深い皺が刻まれていた。
「カストールとポリュデウケースの双子の兄弟は,あなた方の息子なのですか?」
わたしが老人に訊いた。
老人は弱々しく首を横に振った。
「彼女の息子だが,父親はわしではない。そもそも父親はいないのだ。」
「・・・というと?」
「処女懐胎だよ。聞いたことはあるだろう。」
「聖母マリア伝説ですか? ただのおとぎ話でしょう。」
わたしが笑った。
「おとぎ話などではない。」
老人が語気を強めて言った。「彼女は・・・聖母マリアその人なのだ。わしの名前はナザレのヨセフ・・・イエス・キリストの養父だった人間だよ。」
(1)
地球を離れて,宇宙船時間で約二百年が経っている。地球時間に換算すると,どれくらいになるのだろう。メインコンピュータの計算では約30万年という結果が出ているが,あくまでも地球に戻った場合の数値である。特殊相対性理論によると宇宙船の加速方向に『時間の傾斜』が発生するらしいので,遠く離れた天体の時間を推測しても実際には意味がない。
わたしたちは冷凍睡眠を繰り返しながら恒星間を航行し,移住先を探してきた。いくつか居住可能な惑星を発見したが,そのほとんどに別グループの地球人たちが住みついていた。数千年時代が違うと思考様式がガラリと変わってしまうので,共存は難しかった。
わたしたちの宇宙船は,新しく発見された惑星アトロポスの周回軌道上に停泊していた。その惑星にも数千年前に別の地球人たちが移住していたらしく,すでに独自の文明が出来上がっていた。
わたしが司令室に入ると,クルーたちは沈痛な面持ちで,わたしを出迎えた。
巨大なスクリーンには,北極近くの平原に鎮座している古い都市型宇宙船の姿が映しだされていた。
「宇宙船の標識番号は『 UN0035X 』,通称『ノアの方舟』です。」
分析官が説明した。「資料によると,われわれよりも半年前に地球を出航しています。敬虔なクリスチャンの一団を乗せた宇宙船です。汚れた地球を離れ,宇宙のどこかに『神の国』を造ろうと夢見ていたようですね。」
わたしは統星管席に座り,メインコンピュータとのインターフェイスを頭に装着した。冷凍睡眠から覚醒したばかりなので,意識がもうろうとしていた。
「惑星アトロポスの人口は約2億人。現在ヨッパとレーテーという二つの王国に分かれて,10年以上前から戦争を続けています。ヨッパの王はカストール,レーテーの王はポリュデウケースで,二人は双子の兄弟です。」
「骨肉の争いか。」
わたしがため息をついた。「平和な世界を求めて新しい惑星に移り住んだのに,皮肉なものだな。」
「調査団の報告では,何千年も昔から争いが続いていたようですね。過去には集団殺戮もあったし,現在でも生贄の習慣があるそうです。文化的には,かなり後退していますね。」
やはり今回も移住は無理なようだ。発見した惑星がどんなに悲惨な状況にあったとしても,不干渉の原則は守らなければならない。
「仕方がないな。調査が終わりしだい,別の恒星に向けて出航しよう。」
わたしが言った。
「それが・・・」
分析官が口ごもった。「ロドス博士の率いる調査団が,ヨッパの国を調査中に失踪してしまいました。スキャナーの電波が届かない場所に幽閉されているか,あるいは殺されてしまった可能性があります。」
「それは厄介なことになった・・・」
仲間を見捨てることはできないし,かといって先住民と交渉することも許されない。
その時,警報ブザーが鳴った。
「セウス統星官! 何者かが交信を求めています!」
通信官が叫んだ。
わたしと分析官は顔を見合わせた。
「先住民は,この宇宙船と交信できるほどの技術を維持していたのかね?」
「いいえ。調査団の報告では,せいぜいラジオ波を利用できる程度の技術レベルだそうです。」
スクリーンの映像が乱れ,その後,端整な顔立ちの男が映しだされた。
司令室のクルーたちは固唾を飲んで立ちつくした。
「わたしはヨッパの国王,カストールだ。」
スクリーンの男が言った。「君たちを歓迎する。ぜひヨッパの国に移住して,われわれと一緒に敵と戦ってほしい。」
強圧的な口調だった。
「断ると言ったら?」
「君たちに拒否する権限はない。すでに宇宙船の指揮権はわたしが掌握している。地上に墜落させるのも,宇宙の果てに突き飛ばすのも,わたしの自由だ。」
わたしは操縦官に報告を求めた。
操縦官は首を横に振った。
「だめです。何か強大なエネルギーが宇宙船を覆っています。身動きがとれません。」
(2)
わたしの名前はセウス・・・正確にはセウスの一人と言った方がよいだろう。特殊な才能を持った,とある人間のクローンである。遺伝子工学を駆使してさらに能力を高め,脳には生体素子コンピュータが植え込まれている。
わたしたちセウスは,生まれた時から同じ環境,同じプログラムで教育され,知識も経験も均一化されている。地球人が新しい移住先を求めて宇宙に旅立つ段階になったとき,移住先でも地球の『移民法』を厳守させるため,都市型宇宙船に『統星者』として配置された。
わたしは単身,惑星アトロポスのヨッパ王国に乗り込んだ。城壁の前で古代ローマ帝国の兵士のような姿をした先住民に取り囲まれ,そのまま城内に連行された。
「カストール王に謁見できるのか?」
兵士の一人に訊いた。
「それはおまえの能力次第だ。まずは審査を受けてもらう。」
わたしは城の地下道を引き回され,奥にある巨大な石室に投獄された。そこには失踪したロドス博士が横たわっていた。かなり衰弱しているように見えた。
「博士,無事でしたか?」
わたしは駆け寄って声をかけた。ロドス博士はゆっくりと目を開いた。
「セウス統星官ですか。」
弱々しい声が返ってきた。「このような失敗をして,申し訳ない・・・」
「他の隊員たちは?」
ロドス博士は目を伏せた。
「全員処刑されてしまった。わたしだけが,なぜか生かされている。」
わたしは周囲を見渡した。石室の壁には奇妙な記号がびっしりと刻まれていた。象形文字のようにも見える。壁の端にくると上下反転して折り返し,逆方向に伸びていた。何万もの記号が鎖のように繋がっていた。
「21世紀にグアテマラで発見された古代マヤ遺跡のレプリカです。」
ロドス博士が説明した。「文字のように見えますが,使用されている記号はたったの4種類です。配列に規則性はありません。『易』のような占いに使用されたと,当時は考えられていました。」
「何か変だな。」
わたしは記号を目で追いながら,脳内の生体素子コンピュータに配列を記録した。「みつめていると,なぜか不思議な気分が湧き上がってくる。まるで音楽でも聴いているかのようだ。」
「セウス統星官もそう感じましたか。他の隊員たちは何も感じなかったようですが,わたしは何か・・・神にでも出会ったような印象を受けました。」
「神か・・・確かにそんなイメージだな。解読は無理だろうか?」
「当時の大型コンピュータによる分析でも,文字である可能性は完全に否定されています。文字でないものは解読できません。」
そんなものか・・・しかし博士の『文字でないものは解読できない』というセリフに,わたしは少し引っかかるものを感じた。
(3)
数日後,わたしは石室から解放され,カストール王の前に引き出された。カストール王はローブのような衣裳を身にまとい,絢爛豪華な王座に身を沈めていた。
「神を感じたかね?」
カストール王が訊いた。「あの古代マヤ遺跡の文字を見れば,信仰の素質を持った人間なら神の存在を実感できたばずだ。あの文字は,神そのものの姿なのだから。」
「たった4種類の記号からなる配列が,文字ではありえない。」
「ほう,それでは,何と解釈する?」
カストール王は楽しんでいるようだった。
「音楽でいえば楽譜のようなもの。一見ランダムな配列のようだが,視覚領域を介して人間の原始的な感情を刺激しているのだろう。」
「そのような分析ができるということは,お前は神を感じたのだな。それなら合格だ。移住を許してやろう。」
「わたしたちを移住させて,そもそもどうするつもりなのだ?」
わたしが疑問に感じていたことを質問した。
「それを知りたいかね?」
カストール王は,冷酷そうな眼差しをわたしに向けた。
約6千年前,惑星アトロポスに都市型宇宙船『ノアの方舟』が到達した。移民たちはみな,信仰心の厚いクリスチャンだった。当初彼らは『エデンの園』のような世界を作ろうと計画し,実際にかなり成功していた。
ところがある時期から,現世的な快楽を追求する信仰心の薄い人間が増えてきた。風俗が乱れ,争いが多発するようになった。
「ある時,われわれの祖先が驚くべき発見をした。」
カストール王が説明した。「信仰心の厚い集団とそうでない集団の遺伝子を調べてみたところ,ある部位の塩基配列に微妙な違いが認められた。どうやら信仰心は,特定の遺伝子によって影響されるものらしい。」
信仰心の厚い集団が持つ遺伝子を,先住民たちは『神の遺伝子』と呼んだ。彼らの祖先は『神の遺伝子』を持つ人間がほとんどだったが,時が経つにつれて何度も突然変異を繰り返し,神を否定する『サタンの遺伝子』を持つ人間が増えてきた。
「純粋な『神の遺伝子』を持つ人間は,すでに絶滅しかけている。何度も人為的に増やそうとしたが,うまくいかなかった。絶望しかけていたところに,君たちがやってきた。何千年も古い時代の地球人なら,純粋な『神の遺伝子』を持っている可能性がある。」
そういうことか・・・わたしは半分理解した。
「しかし純粋な『神の遺伝子』を持っていたとしても,それだけで神を信じるとは思われない。わたしたちを移住させて,どれだけのメリットがあるのだろう?」
「君たちに信仰心を持ってほしい,などとは考えていない。」
カストール王が教え諭すように言った。「純粋な『神の遺伝子』を持つ人間が増えるだけで,神のエネルギーが増大するのだ。神が活性化して再び人間を支配できるように,環境を整えるのだよ。」
「神が実在するというのか?」
わたしが訊いた。
「当然だ。神は人々の集合的無意識の中で実際に生きている。君たちの宇宙船を完全制御したわたしの能力を,どう解釈するかね。あれは神の力なのだ。」
確かに不思議な現象だった。
「わたしたちの待遇はどうなるのだ。」
「とにかく明日から乗組員たちを強制的に地上に降ろす。審査をしてみて,純粋な『神の遺伝子』の持ち主なら,仲間として移住を許可する。」
「審査にパスしなかった人間は?」
「当然処刑する。特に『サタンの遺伝子』を持った人間は危険だからな。」
(4)
その夜,わたしとロドス博士は地上の牢獄に移された。星空が見えるだけでも,かなり待遇が改善された。
わたしはカストール王との会談の内容をロドス博士に説明した。
「一種の超能力だと思います。」
ロドス博士が彼の考えを述べた。「セウス統星官にも思念波をあやつる能力がありますが,それも遺伝的なものでしょう。同じ特殊な遺伝子を持った人間が集まると,思念の場が活性化されて,ある種のエネルギー波が増幅されるのかもしれません。神の実体は,結局のところ人間の超能力そのものではないでしょうか。」
神が超能力・・・?
そんな単純な話ではないだろう。
「わたしは神が本当に存在するのではないかと考えている。カストール王は何度も『神の遺伝子』という言葉を口にした。それは単なる比喩でないのかもしれない。」
「何が言いたいのですか?」
「あの地下の石室・・・古代マヤ遺跡のレプリカに刻まれていた記号は,まさしく『神の遺伝子』そのものではないだろうか。」
「4種の記号が,DNAの塩基を表していると言うのですか!」
博士が叫んだ。「どうして古代マヤ人が,遺伝子コードを知っていたのですか?」
「遺伝子だという認識はなかったと思う。しかし瞑想による洞察力を鍛えていけば,神の配列を認識できたかもしれない。」
「論理がめちゃくちゃです。」
「確かめる方法がある。文字でないものを解読してみようか。」
わたしは目を閉じて,思念波を宇宙船に向けた。幸いカストール王は思念波まで遮断していないようだった。わたしは宇宙船のメインコンピュータにアクセスした。
遺伝情報はDNA上の4種類の塩基――アデニン,シトシン,グアニン,チミン――の配列によって決定される。古代マヤ遺跡の4種類の記号がそれらヌクレオチドに対応しているとすれば,24通りの組み合わせが考えられる。ひとつひとつ検証するしかない。
幸い宇宙船のメインコンピュータは,処理速度がずば抜けている。既知の遺伝子コードと一致する配列が古代遺跡の記号群にひとつでもあれば,わたしの推測は正しかったことになる。
わたしは脳内の生体素子コンピュータに記録していた記号配列を,メインコンピュータにアップロードした。
解析処理は数秒で完了した。しかし一致する配列は見つからなかった。
「遺伝情報だから変異している可能性があります。」
ロドス博士が助けてくれた。「ある程度の誤差も変数に入れて解析するか,あるいは蛋白質の三次元構造までシミュレートして比較したらどうでしょうか。」
多少時間がかかるかもしれないが,言われた通りに命令を与えてみた。
数分後、結果が出た。
検出されたのは,逆転写酵素の一種と思われる蛋白質だった。
「信じられない! 偶然の一致ではないですか?」」
博士が唸った。
逆転写酵素はB型肝炎ウイルスやエイズウイルスなどのレトロウイルスに特有の蛋白質で、ウイルス由来のRNAからDNAを作り出し、寄生先の遺伝子に転写してしまうという働きを持っている。
「それとも,神の正体はレトロウイルスだった,という結論になりますかね。」
わたしは更に解析を進めた。同定された遺伝子コードはひとつだけだが、塩基の組み合わせが決定されたのだから、他にも何か手がかりが得られるかもしれない。古代マヤ遺跡の記号配列には、逆転写酵素の他に数種類の蛋白質コードが存在していた。メインコンピュータの分析では、レトロウイルスの殻を構成する蛋白質だろうとの結論だった。
それ以上の情報はないのだろうか・・・?
わたしは記号配列を遺伝子の解読単位であるコドンに変換し、頭の中でイメージ化してみた。すると不思議なことに気がついた。配列の始めの方には、開始コドンだけがあって終了コドンがない。また最後の方には、開始コドンがなくて終了コドンだけがある。
これはどういうことか?
「レトロウイルスでしたら、宿主の遺伝子に自分の遺伝子を割り込ませることができます。もしかしたら古代マヤ遺跡の記号配列は、レトロウイルスそのものではなく、割り込まれた宿主の方の遺伝情報ではないでしょうか。」
ロドス博士が貴重な意見を述べてくれた。
前方と後方の不完全な配列どうしを繋ぎ合わせれば、完全な遺伝情報になる。もしそこに『神の遺伝子』であるレトロウイルスが割り込んだとすれば、その時点でなんらかの遺伝子異常が宿主に生じたはずだ。
さっそく前後の配列を繋ぎ合わせ、メインコンピュータで分析してみた。その結果、ビタミンC合成酵素を活性化する酵素の塩基配列らしい、という結論が得られた。
「壊血病ですか・・・」
ロドス博士が溜め息をついた。「壊血病は体内でビタミンCが合成できないという、霊長類全体に共通した遺伝子病です。人間がゴリラやチンパンジーなどの霊長類から分かれたのが約五百万年前ですから、このレトロウイルスは、それ以前に人間の祖先に感染したことになりますね。」
(5)
突然轟音とともに、ヨッパの城壁に火柱が上がった。
「何があった?」
牢の外にいた兵士に訊いてみた。
「わからない。このような火器は初めて見た。」
兵士が震える声で言った。
宇宙船からの攻撃のようだった。遠くから軍隊の喚声が聞こえてきた。剣がぶつかり合う音も響いている。戦闘が起きているらしい。
「レーテー王国の逆襲でしょう。」
ロドス博士が落ち着いた口調で言った。「レーテー王国のポリュデウケース王は名君です。前回の戦闘で壊滅的な打撃を受けたと噂されていましたが、そう簡単に敗北するような王ではありません。」
数時間で戦闘は止んだ。牢獄を囲んでいた兵士たちの姿も見えなくなっていた。
「誰かがやってくる!」
何人かの足音が響いてきた。そして牢獄の扉が開いた。
入ってきたのは、軍人服を着たカストール国王だった。
「わたしを誰かと勘違いしているようだな。」
呆気にとられているわたしに、相手は微笑みながら声をかけた。よく見ると、カストール国王とは別人だった。
「わたしはレーテー王国のポリュデウケースだ。カストールの双子の弟だよ。兄がずいぶんと迷惑をかけたようだね。」
「わたしたちを助けてくれたのか?」
「兄に利用されないようにしただけだ。しかしわたしにも兄以上に不思議な力が備わっていたようだな。宇宙船を簡単にコントロールすることができた。」
わたしとロドス博士は牢獄から解放され,ポリュデウケース王の陣地に案内された。
「わたしとカストールは北極にある古代宇宙船の中で生まれ育った。」
ポリュデウケース王が説明した。「メインコンピュータが作るバーチャルな世界で,プログラム通りに教育された。両親の顔すら知らない。ただし過去の膨大な知識を身につけていたし,特殊な能力でちょっとした奇跡を起こすこともできた。船外に出ると,たちまちのうちに『神の子』として崇められた。当時この惑星の住人たちは多くの国に分かれて争っていたが,わたしとカストールは協力して民衆をまとめ上げ,統一国家を作った。」
「それがなぜ,互いに敵対するようになったのだろう。」
ポリュデウケース王は悲しそうな顔をした。
「カストールは復古政策をとった。最初にこの惑星に移住したクリスチャンたちの理想を実現するために,『神の遺伝子』を持つ人間だけを増やそうとした。」
「品種改良か?」
ポリュデウケース王はゆっくりと頷いた。
「旧約聖書にも,信仰心をなくした人間たちを神々が滅ぼした例が数多く記載されている。『大洪水伝説』もそうだし,『ソドムとゴモラの滅亡』もそうだ。神々による意図的な淘汰だな。同じようなことをカストールも行った。『サタンの遺伝子』を持っているとみなした人間を,女子供も含めて大量に虐殺した。」
「・・・・・・」
ポリュデウケースがカストールと訣別した理由が,はっきりと理解できた。
「君たちの『内政不干渉』の原則は,充分理解できる。今のうちに宇宙船に戻って,この惑星から離れてしまっても結構だ。ただ・・・できればひとつだけ手伝ってもらいたいことがある。」
そこでポリュデウケースは口ごもった。「わたしも人間だ。一度でいいから両親に会ってみたい。そしてわたしが何者なのか,教えてもらいたいのだ。しかし不安もある。ここはぜひ,統星官の知恵を拝借したい。」
(6)
ポリュデウケースの一行は,北極近くの平原に鎮座している古代都市型宇宙船に向かって移動していた。
「気になることがあります。」
ほろ馬車のような乗り物の中で,ロドス博士が切り出した。
「22世紀に思念波の存在が確認され,人間の意識というものが脳の物理的構造を超えて広がっていることが証明されました。ユングが提唱した集合的無意識の世界ですね。神の正体がレトロウイルスであるとすると,神は集合的無意識に感染したのでしょう。人間の持つ超能力も,元々はウイルス起源だったのかもしれません。」
「何が言いたいのだ?」
「五百万年以上も前に霊長類の祖先にレトロウイルスが感染した時,彼らはすでに神のような高度な知性体だったのでしょうか? ゴリラやチンパンジーにも神の概念があるかもしれませんが,あってもおそらく未熟なものでしょう。わたしは初期の段階の神は単なる超能力だけの存在で,知性らしきものは持っていなかったと推測いたします。」
「・・・・・・」
「ところが人間の場合だけ,神は高度に進化した。これはどうしてなのでしょうか?」
「人間の進化によって神も進化したからだ。」
わたしが答えた。「神にとって人間は環境のようなものだ。人間が環境に働きかけ環境を変えることで進化してきたように,神は人間を変えることによって神自身も進化した。おそらく神による品種改良によって,人間は現在の姿に進化したのだろう。」
ロドス博士が頷いた。
「人間は神にとって,作られた環境・・・文明のような存在でした。問題はそこにあります。もし人間の文明が過度に発達して自我を持ちはじめ,人間さえも必要としなくなったとしたら,人間はどうするでしょうか。おそらく文明の方を制御して人間の支配下に置こうとするでしょう。それでは人間が神から独立しようとしたら,神はどう考えるでしょうか。」
「難しい問題だな。共存はできないのかね。」
「おそらく無理でしょうね。神が存続するためには,『神の遺伝子』を持った人間の割合を一定以上に維持しなくてはなりません。そしてそれは,人間の自由を束縛し,人間を神の支配下に置くことを意味します。」
わたしたちは数日かけて古代都市型宇宙船にたどりついた。ポリュデウケースは目を閉じて,船内にいる両親に思念波を送った。
やがて宇宙船の壁が青白い光を放ち,一部がゆっくりと開き始めた。
中から一人の老人が姿を現した。
「お父さんですか?」
ポリュデウケースが声を詰まらせながら,老人に近づいた。
「宇宙船の中に入ることができるのは,一人だけだ。」
老人が表情を変えずに言った。「わしはセウス統星官を指名する。他の者はただちにここから立ち去るように。」
(7)
聖母マリアは冷凍睡眠用のカプセル型ベッドで,非常にゆっくりと呼吸していた。完全冷凍ではなく低温睡眠のようだった。
「わしは,どうすればよいのだろう。」
ナザレのヨセフと名乗った老人が,聖母マリアの美しい顔を見つめながら言った。「君たちがやってきた時,わしは彼女を救うことができる最後のチャンスだと思った。だからカストールに力を与え,君たちの変異していない遺伝子を利用して神々を復活させようと考えた。しかし・・・彼女自身が反対してポリュデウケースに力を与えてしまった。」
「彼女は何の病気なのだ?」
わたしが訊いた。
「簡単に言えば老衰だよ。わしたちの種族は自分の細胞の老化を遺伝子レベルで調整することができた。しかし純粋な『神の遺伝子』を持つ人間の割合が減り,わしたちの能力も徐々に低下してきている。」
「あなたたちはいったい,何者なのだ?」
「れっきとした人間だよ。わしたちの遠い祖先はコーカソイドから分かれ,小集団で北に向かった。極寒のきびしい環境のなかで血族結婚を繰り返し,優秀な遺伝子を残した。一時期滅亡の危機に瀕したが,神と直接交信する能力を獲得し,その力を利用して単性生殖で子孫を残す方法を身につけた。やがてわしたちは『神の種族』と呼ばれ,世界各地で人々から崇められるようになった。」
信じがたい話だった。
「ところで単性生殖は理論的には可能だが,女性から男性が生まれることは絶対ないだろう。女性にはY染色体がないからな。」
老人がニヤリと笑った。
「過去に君とまったく同じ疑問を抱いた人間がいた。」
部屋の天井からスクリーンがゆっくりと降りてきた。
そこには,わたし自身が映っていた。
「おそらくこの記録を見るのは,わたしとは別のセウス統星官だろう。」
映像のなかのセウスが言った。約6千年前の映像だった。「聖母マリア様は人間であって人間ではない。神と交信できる唯一の女性だ。神の超能力は彼女を通してのみ発現される。彼女の行為は神の行為なのだ。」
わたしと同じセウス統星官にしては,仰々しい話し方だった。
「これが聖母マリア様の細胞標本だ。」
スクリーンに顕微鏡写真が映し出された。「通常の女性にはバール小体がひとつしかない。しかし彼女の細胞核にはバール小体が二つある。電顕で確認したところ,ひとつのバール小体は不活性化されたY染色体だった。つまり聖母マリア様は遺伝子的には男性だ。彼女の卵細胞を確認してみたところ,減数分裂を経ておらず『47XXY』の状態だった。おそらく女性を産むときはそのまま胚細胞にして,男性を生むときはX染色体だけを減数分裂させ,二つの胚細胞に分けるのだろう。」
だからカストールとポリュデウケースの双子の兄弟が生まれたのだ。二人はX染色体だけが別で,それが性格の違いに反映されているのだろう。
「そんな彼女をコントロールできるのは,夫であるナザレのヨセフだけだ。この惑星に危機が訪れた時,ヨセフはきっとイエス・キリストを降臨させてくれるだろう。」
不吉な予感がした。わたしと同じ遺伝子を持ち同じ環境で育ったセウス統星官が,このような美辞麗句を言うはずがない。
おそらく何かを伝えたがっていたはずだ。わたしはこの宇宙船のメインコンピュータに思念波でアクセスしようと試みた。しかしなぜか失敗した。
「わしたちのセウス統星官は立派な人間だった。」
老人が遠くを見るような目をして言った。「わしの一番の親友だった。いつも的確なアドバイスをしてくれたものだ。わしが君だけを船内に入れたのは,彼と同じクローンである君の意見を聞きたかったからだ。」
わたしは聖母マリアが眠っているカプセル型ベッドに意識を集中させた。低温睡眠中の彼女は,わずかしか脳が活動していなかった。ベッドの上には温度調整装置があった。わたしには念動力の才能はなかったが,なんとか動かしてみようと頭で念じた。すると,ゆっくりではあるが表示温度が上昇してきた。
「この宇宙船のセウス統星官は,その後どうなったのだろう。」
わたしが訊いた。
「残念ながら,この惑星に移住して,数年で病死してしまった。」
「あなたの力が強いうちに,あなたが彼を殺してしまったのではないか?」
老人はギクリとした。
「なぜそう思うのかね。」
「わたしと同じセウス統星官なら,あなたが聖母マリアを虐待するのを見て,黙っていられないだろうからね。」
老人は怒りで顔を真っ赤にした。
「虐待だと? わしは彼女を救ってやったのだ。」
「それが彼女の望みだったのか?」
急にわたしの身体が宙に浮いた。そして壁に叩きつけられた。
「わたしを船内に誘導したのは,邪魔なわたしを殺すためだったのだな。」
再びわたしの身体が宙に浮いた。
「その身体を八つ裂きにしてやるよ。お前さえいなければ,とっくの昔にポリュデウケースの連中を叩き潰せたのだ。」
老人はなかば発狂していた。
「ポリュデウケースを支援したのは聖母マリアだ。」
わたしが教えてやった。「すでに彼女は,あなたのコントロールから解放されている。神の力が弱まっているし,それにあなたは,すでに老人だ。」
老人の顔が歪んだ。そして胸を手で押さえてうずくまった。
わたしはゆっくりと床に着地した。
老人は口から血を流していた。
(8)
司令室のスクリーンに惑星アトロポスの全景が映し出されていた。ヨッパ王国とレーテー王国は,再び戦闘状態に入ったらしい。ポリュデウケースを応援してやりたいが,内政不干渉が『移民法』の原則だ。
ただしポリュデウケースには,元気になった母親を会わせてあげた。いずれカストールとも和解する可能性もある。神が弱体化し,みな普通の人間のように年老いていくのだろう。
「神のことを考えると,ちょっと複雑な気持ちになりますね。」
隣に座っていたロドス博士がしんみりと言った。「神にとって人間は環境であり文明でした。神々が人間を創ったのです。もし人間が同じように自分たちの創った文明から拒絶されたとしたら・・・人間は黙って滅びていくでしょうか?」
「その問題はすでに解決していたのだよ。」
わたしが答えた。「神々は人間を慈しんでいた。過去に何度か神による支配を取り戻そうとしたが,ことごとく失敗した。神々も,もはや人間のために自分たちが滅びるしかないと気がついたのだ。納得しなかったのは,ヨセフたち一部の人間だった。」
「そうですか・・・なんだかお祈りしたい気分ですね。ところでひとつ気になっていたのですが,処女懐胎の説明を聞くと,男性が生まれる場合かならずX染色体だけが減数分裂して二つの胚細胞に分かれるそうですね。そうするとX染色体だけが違う双子の兄弟が生まれることになります。ということは,イエス・キリストも双子だったのでしょうか?」
それは考えてもみなかった。『復活』のカラクリが,今,明かされた。
「惑星に戻って,聖母マリアに確認する暇はないな。そろそろ恒星イリスに向けて出航しなくてはならない。」
「結構です。」
ロドス博士が笑った。「しかし,ゴルゴダの丘で処刑されたのは,どちらだったのですかね。」
「さあね。神のみぞ知る,だな。」
都市型宇宙船のメインエンジンが駆動した。
やがて惑星アトロポスの姿が徐々に小さくなっていった。