少年、学ぶ。
必死に煩悩を振り払っていること5分後に、風呂場から顔だけ覗かせたルナが何事か喋った。ちらりと見たら泡だらけの体だったので頭と同様に流してもらおうとしたのだろう。
アランは丁重にルナを風呂場に入れて扉を閉め、同じ温度のお湯を風呂場いっぱいにぶちまけた。
それから同じ《エルメリア》に所属する同年代の少年の服を拝借してルナに着せてやり、濡れた髪の毛を風魔術で乾かした。
「ふーん。アランが特定の人に肩を持つなんて珍しいね」
本棚が並ぶメイン車両に設置されている木製のテーブルに肘を突き、眠そうな眼を対面に座るルナに向けながら言うその少年はロイ・ホームズ。
《エルメリア》の会計と事務を受け持つ彼は幼い頃から数学に秀でており、キャラバンの家計を一手に担う16歳の少年だ。
青い髪の毛が特徴的で、今は積み重なる事務処理に終われてか睡眠不足が顔に表れているが、平常時はネコのような印象を受ける。
まぁ、欠伸を噛み殺しながら髪を掻く仕草もネコ然としているが。
「肩を持つってほどでもないでしょ」
「そう? 何だかんだ言って誰かを匿おうとはしないでしょ?」
「匿うって、何の話?」
アランがそう聞き返すと、落ちそうだった瞼が少し持ち上げられ、見えた瞳が不思議そうな色を湛えた。
「知らないの? そいつ、ここの商店街じゃ凄い有名なんだよ」
「まぁ、外敵から守るために作られてる城壁を乗り越えてきてたからね」
外敵というのは開拓し尽くされたノトス大陸にも微量ながらも蔓延る魔物のことや、また他の国の軍隊のことだ。
弱い国ほど格好の獲物はない。だから弱い国ほど高い城壁を築き、その殻に篭る傾向にある。その典型的な例がマルグナイダの城壁だった。
大の大人を五人並べてようやく手が届くかというほど高い城壁の厚さは、砲弾を何発受けてもびくともしなさそうなほど、当然ながら鉄が練りこまれた石レンガで作られている。
そんな城壁を1kmも作れば相当な経費が掛かるだろうに、財政に苦しんでいる敗戦国は自らの首を絞めるように城壁へなけなしの金を注ぎ込む。
どんな豪勢な城壁を作ろうとも先進国が抱える王宮直属魔術師が5人も集まれば容易く一軍隊が並んで通れるほどの風穴を空けられるというのに。
つまり先進国がその気になればいつでも敗戦国を乗っ取ることが出来るのだが、それが成されていないのは先進国内ある条約が締結されたからだ。
その話はいつか詳細を述べるとして、そんな城壁を生身一つで乗り越えてきたルナが異常であると言いたかった訳だ。
しかしロイはアランの言葉に緩やかに横に首を振った。
「約10年間、商店街の軒先に並んでる食べ物を盗み続けているんだよ。見なかったの? 商店街の出入り口にある案内掲示板に似顔絵と一緒に貼り出されてたよ。コイツを見かけたら取締ギルドに突き出してくれって」
「じゅ、10年間!? こ、この子が?」
見るとルナは会話の不穏な空気を感じ取ったのか、不安げな瞳でアランを見つめていた。
確かにスラム街で生きていくためには窃盗や乞食をしなくてはならないだろうが、こんな幼い少年が10年間も盗み続けられるものなのだろうか。
しかも、ここにいるということは一度も捕まっていないということだろう。
「本当に知らなかったみたいだね。だから肩を持つって言ったんだよ」
「で、でも、やっぱり生きていくためにはしょうがないって言うか……」
アランの弱気にロイは盛大な溜息をくれてやる。
「いい? 僕もアランの考えに賛成だけどね、ほぼ毎日10年間窃盗し続けたら商店街の損害は甚大なものになるんだよ? いくら1つ10Gのパンでも、積み重なる負債は店一つ潰すのに訳ないくらいなんだ」
それはそうだろう。小さな数字が積み重なるだけで膨大な数へと変貌する。商品ならばそこには原価と利益に税が含まれた価値が備わっている。それらが一切合財無碍にされれば10個盗られただけでも手痛い被害となる。
実際にそれで潰れてしまった店もあったのだろう。
「じゃあ、ロイはルナを取締ギルドに突き出すの?」
弱弱しく返したアランに、一瞬うっと喉を詰まらせ顔を歪ませた。
「……僕には人一人を引っ張れるほどの腕力は無い。そんなことのために魔術を使うのも馬鹿らしい」
彼は受け持つ職業柄と数学に秀でた才能のせいで、難儀な性格だ。
誤魔化そうとすると決まって回りくどい言い方をするのだが、逆に言えば目を瞑ってもらえるということだ。
「ありがとう」
「何で僕が礼を言われるの。それはルナ? とかいうのの役目でしょ」
「あぁ、そのことなんだけど、ルナは私の知ってる言語じゃない言語を話すの」
するとロイが表情だけで「はぁ?」と言い、ルナに一瞥をくれてからアランに視線を戻す。
「じゃあ、どうしてルナって名前を知ってるのさ」
「名前を聞いたら、オルセイユ・ルナって答えたから勝手にそう呼んでるだけ。多分、本当は全く違う意味を持った言葉なんだろうけど」
「アランが知らない言語ってどんだけマイナーな言語を使ってるの……。と言うより、この辺りで主流の言語以外使われるようなこと無いはずだけど」
ロイは金銭類が絡んでくる仕事柄書面など読み取る識字をこなせる。実際に喋れる言語はレンジャーと同じ2つだが、識字だけなら軽く10を超える。
彼に言わせると、契約書などにわざと解読困難な言語で記して押し付け、ろくな確認も出来ずに無理やり印を押させられることがあるらしい。他にも重要な部分だけを違う言語にしたり、他の言語と似た字体があることからそこに加筆して全く別の意味の言葉に勝手に変えてしまったりと、中々嫌らしい手口が数多くあるそうだ。
それら全部解決するためには粗方の言語の識字をマスターするのが手っ取り早かったらしい。
アラン的にはそっちの方が手間が掛かったと思うのだが、その膨大なボキャブラリーのお陰で何度も救われた身としてツッコミ辛い。
そんなことから、ロイはテーブルに置いてあったメモ用紙とインクを染み込ませた羽ペンをルナの前に置いた。
「じゃあ、ここに何かの言葉書いて」
「違うの、私たちの言葉も理解できないの。ルナは」
「……あの、そもそも何でアランはルナをここに連れて来たわけ?」
「そりゃあ私たちの言語を教えるためだよ」
無表情になったロイだが、顔にありありと「馬鹿だろお前」と書かれていた。
「言わなくとも解るだろうけど、言語っていうのは文化なの。人って慣れ親しんできた文化以外の文化を受け入れ難いの。だからこの世の中複数言語を操れる人が少ないの。それを今教えるって言ってるの?」
「そんなこと言われたって私は出来たし……」
「それはアランが異常なだけ。前にも言わなかったっけ」
「聞いたけど、でもルナにも出来そうな気がするんだよ!」
「何を根拠に」
「私が魔術を使ったとき、凄い興味深々だった」
「スラム街で生きてたルナが魔術を目にする機会なんて無いでしょ。ただ物珍しかったんじゃないの?」
「魔術について凄い知りたそうだった!」
「つまり、知的好奇心が豊富に感じられた、と」
うんうんと頷いてみせるとなるほどと呟いたが、
「イコールすぐ習得できるになる訳無いでしょ」
「そうかなぁ……」
好きこそ物の上手なれ、という名句がある。
これは魔術の父と呼ばれた男が座右の銘として掲げていた言葉で、好きな物事には積極的に取り組むため自然と上達するという意味がある。
まさにその通りだと経験則で理解しているアランもその名句を肝に銘じているが、どうやらロイはそうではないらしい。
「全く上達しないとは言わないけど、一つの言語を覚えるのに一年以上は掛かるんだよ? レンジャーが苦しんでた姿、覚えてないの?」
エルメリアの事情によりとある先進国に赴いたときがあった。レンジャーはそのときその国にあった工房の匠と作る方向性と工学に対する情熱からすっかり意気投合したのだが、生憎互いに違う言語を使う者同士で、そのときは匠がたまたま同じ言語を齧っていたので何とか会話を交えることが出来たが、もし同じような出会いのときにろくな会話が出来なかったら人生最大の損だと気づいたレンジャーが言語を勉強し始めたのだ。
それが三年前の話で、習得できたのはつい半年前。つまり二年と半年のスパンを経てようやく一つの言語を習得したことになる。
アランは幼い頃からエルメリアに教えてもらっていたため難なく覚えられたので、大した苦労は感じなかった。
認識の違いは弁えているつもりだが、やはりそう上手いこといかないのだろうか。
「言語の話は置いといて、結局アランはルナと会話できるようになって、何がしたかったの?」
「エルメリアさんに頼んでキャラバンに入ってもらうつもりだった」
露骨に眉を顰めてこめかみにそっと指を添えたロイ。
「入る許可を出すのはエルメリアさんだけど、大丈夫なの? 訳があったとはいえ前科がある人を────」
「私たちも同じでしょ?」
ロイの言葉を制すように、妙な凄みが孕んだ声音でアランが被せた。
喉まで出掛かった言葉を無理やり嚥下し、溜息とともに言葉を空気に溶け込ませたロイは降参するように両手を小さく挙げた。
「……言っておくけど、僕は犯罪はしてないからな」
「ロイのことだから私が言わんとしていることは解ってるよね」
青の髪を乱雑に掻き揚げたロイは「その話は触れない約束だろ」と小さく毒づき、本車両に来た本来の用事を思い出し本棚に向かおうと椅子を立ち上がった。
そのとき、ようやく彼らは気づいた。
総勢4名で構成されている《エルメリア》には些か大きすぎる木製テーブルには様々な物が置かれている。
例えば本棚から取り出した分厚い本が戻されずに置かれていたり、例えばメモと羽ペンにインクが置いてあったり、製作途中の魔術に関する研究レポートが置かれていたり、集めてきた膨大な量の情報を整理したファイルが置かれていたり。
それら各々は《エルメリア》に所属している者たちがある分野において抜群しているために表れる光景であり、人目で誰が散らかしたかが解る。
事務や庶務をこなすロイは誰よりも整理を怠らない人なので自分の物をちらかすことはないが、机の上に一つだけ食事を待つ時の暇つぶしとして置いている物がある。
1cm×1cmの小さな立方体が5×5×5に配置されており、六面それぞれに白、黄、青、赤、緑、橙とペイントが施されており、一面に疎らに散らばっている物だ。
ルービックキューブと呼ばれる玩具だ。
コーナーキューブ、エッジキューブ、センターキューブの三つの部品で構成されており、散りばめられた六色を六面それぞれに揃えるという至ってシンプルな遊びなのだが、一旦揃えた面を留めたまま違う面を揃える方法を知らなければ堂々巡りになるという面白い仕掛けになっており、一般的には3×3×3の立方体なのだが、ロイは5×5×5のプロフェッサーキューブを使っている。
非常に難しいパズルとして有名で、先進国の一部ではルービックキューブの面を揃える時間を競う大会を催し、見事優勝した者をヘッドハンティングするまでである。
このパズルは解き方さえ知っていればあとは作業のように動かすだけなのだが、その解き方を見つけるのが難しいのだ。ルービックキューブの解き方を知っている人は中々おらず、しかもそれを易々教えてくれることもないので一般人は四苦八苦して悩んでいる。
もちろん一面に揃うマスの数が増えるほど難易度は跳ね上がり、今のところ開発サイドの限界がロイが遊んでいるプロフェッサーキューブだ。
さすがなのか当然なのか、ロイはそのキューブを購入して初見2分でクリアしている。
エルメリアは興味ないらしく手をつけず、レンジャーは五時間、アランは一時間、もう一人の少女は三時間半掛かってクリアしていることから、ロイの異常性が垣間見える。
本人に言わせれば手順ごとに事象を割り出し下限と上限の範囲を抽出、あとは空間把握するだけの作業らしいのだが、それが出来れば誰も悩みはしない。
さておき、そんなルービックキューブが今、ルナの手の中にあった。
それが問題なのではなく、その状態が問題だった。
栄養不足のせいなのか小さく細い手でルービックキューブを持ち、それをぐるりと見回す。
それから無造作に手を捻ってマスを移動できることを確認したら、その後は迷う素振りを見せずにカチャカチャと動かしていく。
手の大きさが足りないせいでたどたどしい手つきだが、決してそれは迷走しているようなものではなく、確信を得たものだった。
途中までアランは適当に回して遊んでいるのかと思っていたが、ロイは解っていた。
それが全ての面を揃える方法を実践しているのだと。
そして、呆気にとられて呆然と眺めているうちに最後とばかりにカチャと鳴らして机に置いた。
ルービックキューブの六面は綺麗に色が種別されており、まさしく購入当時と全く同じ状態に戻っていた。
ルナは完成したそれを一度見回し、満足そうに笑みを零して再び色をバラバラにし始める。
「……偶然……?」
その難易度を知っている身として、そう呟くのが精一杯だったアラン。
対照的に至極冷静にルナの手元を凝視するロイがそれを否定する。
「偶然では絶対揃わない。約4000京ある事象だぞ」
「で、でも、今揃えてたよね、色」
アランも解っている。
確かに最難関とされている種類のルービックキューブを初見で解いてみせたのには驚愕させられたが、一番おかしいのはルービックキューブそのものを知らずに解いたことだった。
ルービックキューブとは即ち娯楽の一派で、そんなものがスラム街に転がっているはずがない。
しかもスラム街と国内とでは歴然とした文化の違いがある。その証拠が彼が使う謎の言語が雄弁に語る。
遊び方を知らず、趣旨を知らず、解き方を知らず。
正真正銘何も知らずにそこにあったルービックキューブを、片手間のように解いていた姿が異常だったのだ。
その事実に雷に打たれたように固まっている二人の前でバラし終えたルナが顔を上げて、ぎょっとしたように自分の手元と二人の顔に視線を彷徨わせ、口が何か喋ろうと動くが空気を食むだけに終わる。
先に我に帰ったのはアランだった。
「いける、いけるよ! ルナならすぐに言語を覚えられるよ!」
「俄かに信じがたいんだけど……。何で《エルメリア》にはこういう人しか集まらないのかな……」
少々的外れな返事をしているロイだが、それは言外に認めていることに他ならない。
早速椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がったアランが自分の車両の方にすっ飛んでいき、ものの1分で帰ってきたときには両手いっぱいに本が抱えられており、ルナの前にどすんと乱雑に置いた。
ルナは驚き肩をぎゅっと竦ましたが、乱雑に並べられた本を前にして目をキラキラさせ、手近にあった本を手繰り寄せて見開き始めた。
持って来た本は、この世界の万国共有と言っても過言ではないほど普及している《ノトス語》を題材とした教材の数々だ。
ルナの殊勝な姿勢に今か今かと教鞭をビシビシ唸らせていたアランだが、思い出したようにロイに尋ねた。
「ねね、エルメリアさんいつ帰ってくるか知ってる?」
「知らない。でも、多分一週間くらい帰ってこないんじゃないかな」
何で? と言わずともロイが一呼吸置いてから補足する。
「あの人も色々と忙しいんだよ。今頃国中駆けずり回ってるんじゃないかな」
具体的なことを避けて言ったということは、エルメリアから他言は無しと言われているからだろう。
あったあったと梯子を使って本棚から一冊細い本を取り出すと小脇に抱えて自分の車両に戻ろうとしたロイだが、後にする直前でアランと同じように振り返って尋ねた。
「その様子じゃ一週間ここに泊めさせるつもりみたいだけど、ルナの部屋はどうするの?」
「私の部屋」
「……」
「寝る間も惜しんでられないよ! 言語だけじゃない、もっと色々なことを教えてあげたい!」
むふむふと鼻息を荒くして胸の前で硬く握りこんだ両拳にルナに負けないほど輝く瞳は、優秀な人材を発見した教授のようだった。
実際そうなろうとしているのだから笑えない。
「あっそ、ほどほどにね」
呆れたとはまさにこのことでツッコむ気力すら失ったロイはおざなりに返し、連結口に足をかけて外へ出て行った。
その姿なんかに目もくれずビシバシ教鞭を振るい始めたアランの上機嫌な声が外まで聞こえてきて、僅かに顔を顰めて振り返ったロイだったが、あんな天心満爛な姿を見たのは何時以来だろうかと思いながら自分の車両の扉を開けたのだった。