悪夢
一面に広がる雪景色。僕は母に手を引かれて歩いてる。
懐かしい景色。雪なんて見るのは何時振りだろうか。
僕は転ばないように小さな歩幅で、足の裏全体をつけるように意識しながら歩く。
何度も痛い思いをして見つけた自分なりのコツ。母もそれに合わせてゆっくりと進んでくれていた。
「もう少しで付くからね」
僕はうなずき、足元の雪と格闘する。
ひらひらと灰雪が舞い降りている。時折僕の頭に積もった雪を母は優しく払ってくれていた。
そういえば何処に向かってるのだろうか。
忘れるはずも無いことだとは思うが、歩くのに必死で母の声が聞こえなかったのかもしれない。
「あの、お母さん」
と言いかけた時、母の足が止まった。
半端引っ張られた形になりバランスを失いそうになるが、こけたくない執念でなんとか体制を立て直す。
何事かと思い母の顔を見た。
あの時の顔は忘れられない。目を見開き、恐怖に引きつった母の顔。
その目線の先を追う。
そこにあったのは白い何か。
うねうねと蠢くそれが何なのか当時の僕には分からなかった。
瞬きするたびに形が変わるそれはゆっくりと、だが確実に僕の方へ向かってきたのだ。
突然僕を担ぎ、踵を返して走りだす母。
僕は訳もわからずに、ただ母にしがみつくしかなかった。
ふと後ろを見る。僕は思わず悲鳴をあげた。
さきほどの何かが凄まじい勢いで追ってきている。
とぐろを巻き、弾けながら僕達を囲もうとしているのだ。
その速さは到底走って逃げ切れるものでは無く、僕達はあっという間に囲まれた。
母は僕を抱きしめ、大丈夫、大丈夫だからと何度も呟く。
その白い何かが一斉に僕たちへと襲いかかってきた。
間近まで迫った時、やっとその正体が分かった。
霧だ。
霧が意思を持っているかの如く動いているのだ。
形を変えた霧が口を空け、僕達を飲み込もうとした時。
僕の、いや俺の意識は途絶えた。
最悪の目覚めだ。心臓がまだ高鳴っている。
……何度目だろう。この夢を見るのは。
忘れようも無い悪夢。優しかった母はもうこの世にはいない。
世界各地で発生している<霧>。それに呑まれた者は、文字通り跡形も無く消え去る。
あの時確かに俺は呑まれたはずだった。しかしこうして生きている。
俺だけが、俺だけが生き残った。
何故だ?どうして母さんは……どうして……
……もういい。何年考え続けても答えは出なかった。
俺はまだ悪夢の中にいる。永遠に覚めない悪夢の中に。
今は恐らく早朝。小鳥のさえずりが最悪の気分を和ませてくれている。
腑抜けた声を出しながらあくびをした。もし教官に見られていたら、後で絶対に殺されるだろう。
この宿舎にも奴らは徘徊してくるからな。軍の秩序がどうのこうのらしい。
死んだように眠る仲間達を置いて起き上がる。
さようなら愛しい布団。こんにちは、地獄。
見るからにダサい寝巻きからいつもの軍服に着替える。
黒を基調とした飾りっ気の無い軍服。しかし、機能性を重視された戦闘服というものは見るものを畏怖させるというものだ。
胸元には金の盾の刺繍が刻まれている。誇り高き<陰ノ国>の紋章。
素早く身支度を済ませていると、寝室の出入り口付近から声がした。
「うっす。今日も良い天気だな。最高の洗濯日和だ」
嫌でも耳に付く声。振り返るまでも無い。あいつだ。
「先島かよ。朝っぱらから汚ぇ声聞いちまったな」
「失礼な奴だな。俺は身も心も清く正しい先島です」
「だったら今日のランニング絶対さぼんなよ?」
「あんな訓練、俺の島じゃノーカンだから」
この意味不明な言い訳をしてるやつは俺の友人、いや戦友の先島 守。
こんなんでも頭はかなりキレる奴で、というか教官の目を出し抜く天才だ。
毛嫌いしているように思われてるのかも知れないが、内心では先島のことを気に入っている。
コイツと一緒なら戦場でも生き残れるはずだからだ。
悪知恵が働くということは戦場でも臨機応変な判断が出来るということ。
教官を出し抜くように、敵もまた出し抜くことが出来るはず。そう信じている。
「そんなことより面白寝癖君。耳寄りな情報があるんだよ」
……よりにもよってこんな奴に指摘されるとは。死にたくなってきた。
必死に寝癖を手で伸ばしていると、奴はちょっと外で話そうぜ的な仕草をした。
あまり大勢には聞かれたくない情報なのだろう。寝癖を治しながら外へ向かう。
「おーい」
急に先島から呼ばれた。声が半笑いだ。
「何か忘れてないかい?」
思わず振り返る。奴の手には俺の宝物が握られていた。
「ニヤニヤすんな気色悪い」
ぶんだくるように奴の手から回収する。
この短時間で2回も恥を晒すことになるとは。今日は最悪の日だ。
「今日の洗濯係お前な」
「どさくさに紛れて押し付けんなアホ」
毎日通る訓練場への道。すっかり顔見知りになった歩哨達と挨拶を交わす。
「で、耳寄りな情報ってなんだよ」
こいつはしょうも無いことを大げさに言う癖がある。まともに聞くだけ無駄だ。
「驚くなよ?……今日補充される訓練生の中に女が混じってるらしい」
反射的にだから何?と聞き返してしまいそうだった。だが流石にこれはひどすぎる。
世界の先島ともあろう者がこんなバレバレの嘘をつくとは。俺も舐められたもんだな。
「マジだって。しかも超可愛い。胸もデカイ」
「はいはい分かった分かった。脳内彼女か何かだろ?まあホモに目覚めるよりはマシか」
「リアル彼女じゃ。いずれは付き合う予定の。よし分かった、じゃあ今日の洗濯当番をかけようぜ」
「上等だホラ吹き野郎」
「後悔すんなよ人間不信野郎」
こんなやり取りばかりだが、何故か仲は良い。
先島は尚もゴチャゴチャやかましかったが、自分の事に集中することにする。
俺は自分の宝物を、陰ノ国正規兵装である<陰式速射弩>を太陽にかざした。