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○○
帰宅して自分の部屋に入るなり、私は制服から着替えるのも忘れて学習机に座った。
猛勉強してハイレベルの高校に合格した私に、親はお祝いでノートパソコンを買ってくれた。私は大きなペンだこのできた手で電源をいれ、インターネットを立ち上げる。そしてすぐに目的のサイトを探した。
ID: chocolate _dog
Pass:******
「やった……!」
今日は大きな収穫があった。
パソコンの画面に、幹直君の家のリビングが映る。webカメラはまだつけたままだった。もう家族が帰宅しているようで、母親らしき人が忙しなく動き回っている。幹直君は母親似だとすぐにわかった。
私はパソコン室で、IDとパスワードを覚えていた。パスワードも指の動きを読めばわかる。彼のお気に入りの動画サイトのIDもパスワードも、こうやって覚えた。
またひとつ、幹直君のことを知った。
私は口元がにやけるのをこらえられず、頬杖をつきながら指先で唇を押さえた。画面の向こうの人たちに、私の顔なんて見えるはずがない。それでも、幹直君のお母さんの前でにやにやするなんて失礼だと思った。
幹直君はきっともう家に帰ってきてるのだと思うけど、リビングに姿は見えない。いつも自分の部屋にいることが多いと言っていたから、もう部屋にこもってしまっているのかもしれない。
このカメラで幹直君を見ることができるのは、きっと朝食や夕食の、家族が集まる時。様子を見ている限り、幹直君のお母さんはまだ晩ご飯の仕度をしているらしい。今日のうちに、食事をする彼の姿をここから見ることができるかもしれない。
IDとパスワードさえわかれば、このカメラの映像は携帯電話からも見ることができるらしい。なんてすばらしい世の中なんだろう。
私はパソコンの向こうに広がる幹直君の私生活に、口元が緩むのをとめられなかった。
私の机は今、たくさんのメモと写真で埋め尽くされている。それはもちろん全部、幹直君に関するもの。隠し撮りした写真もあるし、一緒に撮ったものもある。彼が好きだといっていた本、彼が使っている文房具。集めるだけ集めて、机の上に飾っていた。
そして、テディ・ベアがひとつ。これは幹直君が私にプレゼントしてくれたものだった。赤ちゃんくらいの大きさの、抱き心地のいいやわらかい毛並みのベア。座っても転んでしまわないようお尻に適度な重みがあって、私は家にいる間はずっとこのベアと一緒にいた。
課題をやるからと親に嘘をついて、私は夕食を部屋で食べることにした。お互い夕食の時間が重なってしまったら、私は幹直君のことを見れなくなってしまう。片時も離れるまいと、制服も脱ぎ散らかしたまま大急ぎで着替えてパソコンにかぶりついた。
なんとしてでも幹直君の姿を見たかった。
学校で会う時とは違う、プライベートな幹直君。私服はどんな感じなんだろう。家族にはどんなふうに接しているんだろう。リビングに、彼の姿はなかなかあらわれなかった。
このカメラが彼の部屋にあれば、幹直君の一日をずっと見ていられるのに。
メールで今何をしているか訊いてみようか。私が携帯電話を手にとった瞬間、実にタイミングよく電話がかかってきた。
『もしもし、茜ちゃん? 今何してた?』
幹直君だった。
「部屋にいたよ」
幹直君とは、たまにこういうことがあった。私が連絡を取ろうとすると、彼のほうから連絡が来る。お互い連絡をとりたいタイミングが重なっていることがとても嬉しかった。
『晩ご飯もう食べた?』
「ううん、まだ」
でも、実はもう机の上にお盆が乗っている。運んできてくれたお母さんは勉強の邪魔をしちゃ悪いと思ってすぐに退散してくれたから、私が勉強なんてまったくやってないとはつゆにも思っていないはずだった。
「幹直君は、もう食べたの?」
『これから食べるとこ』
電話越しに、がちゃり、とドアノブを回す音がした。もしかして、と思ったらまさにそうだった。パソコンの画面に――リビングに、幹直君が現れた。
思わず歓喜の声をあげそうになって、私はあわてて口を押さえる。幹直君は私に見られていることなんてまったく知らぬまま、カメラから一番良く見える、ソファーに座った。
制服から、ジーンズとパーカーに着替えていた。フードのついた白いパーカーには何か文字が書いてあるのだけど、画像が粗くてはっきりとは読みとれない。じゃれついてくるチロルと遊ぶ片手には、携帯電話。それは私とつながっていた。
「今日の晩ご飯なに? あ、私があてるね。ハンバーグじゃない?」
『……当たり。よくわかったね』
心底驚いたという幹直君の声に、私はふふんと得意げに鼻を鳴らす。だって今、あなたの家を見ているもの。お母さんが用意した食事も見えていたのよ。
『じゃあ僕が茜ちゃんの晩ご飯あてようか? ……親子丼かな?』
「! どうしてわかったの?」
『内緒』
今日の晩ご飯は、まさしく親子丼だった。こんなのあてずっぽうで出てくるものではない。しかも親子丼。なぜ今日に限ってこれなのかと私は恥ずかしくなった。
『茜ちゃんさ、今週の日曜、ひま?』
親子丼を恨めしげに見つめる私なんて幹直君はもちろん知らないわけで、さらりと会話を続けてくる。チロルのくりくりとした毛並みを撫でながら話しているので、口調もどこか子供をあやすかのように甘かった。
『僕の家に来ない?』
「えっ……」
『……いや?』
いやじゃない! 私はあわてて首をふる。
「行っていいの?」
『おいでよ。チロルにも会わせたいし、見たいって言ってたDVDとか一緒にやりたいゲームとかたくさんあるしさ?』
「行きたい!」
『じゃあ決まり』
幹直君の嬉しそうな声に、私の指はパソコンの画面に吸い寄せられていった。
『ご飯できたみたいだから一回切るね。後でメールするよ』
「わかった。じゃあね」
画面ごしに、幹直君に触れる。そのしゃんと伸びた背筋、深みのある声。穏やかな微笑み。食事に呼ばれて立ち上がる幹直君を、ずっと指で追い続けた。
彼は私の理想の王子様そのものだった。
こうして、幹直君を小さな箱に閉じ込めておけたら。私だけのものにできたら。心の底から、そう思う。
幹直君を私のものにしたい。
私は食事を終えた幹直君がリビングを離れるまで、ずっとずっと、カメラのレンズの向こうから見つめ続けていた。