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 わたしがトトと暮らすようになって、もうすぐ一週間の月日が流れてようとしていた。

 今日は金曜日だ。明日の休日をどう過ごそうかと、わたしは夕飯の食器を洗いながら考えていた。しかしその前に、今日のうちに済ませようと誓った決意が、わたしの胸の内にはある。

 決意を前にして、わたしは大きな溜め息を吐いた。さきほどまでの、トトとの楽しかった食卓がわたしの決心をにぶらせる。

 でも、このままじゃだめ――。

 わたしは首を大きく横に振った。わたしは彼のことを、怪人のことをもっと知っておく必要がある。

 よし、とわたしは自分に喝を入れて、洗いものに取りかかった。背中ごしに、トトの観るテレビアニメの音が聞こえていた。

 トトがわたしの家に来て、わたしが初めて学校に登校した日、彼はわたしの言いつけをきちんと守ってくれていた。彼のことが心配で、息を上がらせてリビングに入ったわたしの目に飛び込んできたのは、つけっぱなしのテレビと、その前で眠っているトトの姿だった。

 機会をはかって、トトがどうしてこの町にいたのか、トトの家族や生い立ちを聞こうと思ったが、できなかった。トトが意識してその話題を避けているのが感じとれたからだ。

 しかしトトには、彼自身がだれかに見つかっていた可能性があることを伝えた。町全体が怪人に対し、警戒している旨を。

 わたしの口からそれを彼に伝えなければならないことが辛かった。彼がひどく落胆するのは目に見えていた。しかし彼から外に出たいと思う意識を、少しでも除外したかった。少しでも、彼から危険を遠ざけたかった。

 外に出られないことからの落胆か、ひとに目撃され、町が自分のことを警戒していることに対しての困惑か、そのどちらもあったのかもしれない。わたしからそれを聞かされたトトは、複雑な表情を浮かべ肩を落としていた。

 そんな彼の姿が、とても痛ましかった。

 まだ子供である、彼の大きな身体は、この狭い生活空間から抜け出せないのだ。その変わりと、わたしはトトにたくさんの絵本やアニメのDVDを買いあたえた。

 彼は、とても喜んでくれた。

 こんなことしかしてやれなくて、ごめんね――心の中でわたしはトトにそう呟いた。本当は、外でおもいっきり遊ばせてあげたいのに。

 わたしとトトは白いソファーに並んで座って、声に出して一緒に絵本を読んだ。彼がわからない字は、その都度わたしが教えてあげた。アニメのDVDも一緒になって観賞した。彼にとって、初めて知る単語や名称も、事細かに教えた。

 彼は物覚えがよかった。教えたことをすぐに飲み込んで、彼は人間世界の知識を少しずつ蓄えた。

 また、トトは本当に涙もろいと改めて思い知らされた。彼は泣き虫なのだ。絵本やDVDのちょっとしたことで感動しては、水色の涙を流した。白いカーペットに涙のしずくが落ちて、染みになったこともあった。

「トトの泣き虫。もう、この染みとれないじゃない」わたしは濡らしたタオルで、カーペットをごしごしと拭きながら言った。薄く伸びただけで、水色の染みを完全に(ぬぐ)いさることはできなかった。

 彼は同じシーンをなんど観ても、同じシーンで涙する。カーペットを汚したときに観たアニメのワンシーンは、主人公の男の子が大切にしていた宝物のふで箱を失くしてしまうというシーンだった。

 トトはそのシーンはなんども観たはずなのに、毎回同じところで涙を流すのだ。

 わたしが「どうしておんなじシーンでなんども泣くの?」と尋ねると、彼は「だって、あの子、かわいそう」と鼻を鳴らしながら言った。その失くしてしまったふで箱があとになって見つかることも、なんどもこのアニメを観ているトトは知っている。それなのに、男の子がふで箱を見つけたときにいたっては、「よかった、よかった――」と手をたたいては、トトは主人公と一緒になって喜んでみせるのだ。

 わたしは、絵本もアニメのDVDも見飽きてしまっていたが、その都度に見せる彼の仕草や表情は、なんど見ても飽きることはなかった。自分も童心に戻ったような、なんとも和やかな気分にさせられるのだ。それは日に日に(すさ)んで、冷めてしまった自分の心を洗い流してくれるようだった。

 まるでトトは、自分が怪人であることを忘れようとしているようだった。ヒーローや怪人の話題に、彼は一切触れたがらなかった。わたしも姿、形を除いて、彼のことを自然と人間であるように思えていた。

 しかし彼は、紛れもなく怪人なのだ。

 トトとの生活が四日目に差しかかったときだった。わたしはそれを思い知らされた。いやむしろ、思い知らされたのは彼自身のほうだったのかもしれない。

 学校から帰ってリビングに入ったわたしは、テレビから流れるニュースに暗い表情をつくるトトの姿を見た。彼はテレビの前で、暗い部屋の電気もつけずにいた。

 テレビからは、怪人のニュースが流れていた。

 それはこの町の怪人の目撃情報に関するニュースではなく、べつの遠い場所で、怪人がヒーローによって討伐されたという報道だった。ニュースキャスターはそれを嬉々として読み上げていた。

「トト……」

 わたしは彼の名前を読んだ。しかし大きな背中がテレビの前で震えるばかりで、彼からの返事はなかった。

「トト……」わたしはもう一度そう呼ぶと、テレビの前に座るトトを背中から抱き寄せた。彼の背中の震えは、密着したわたしの身体に痛々しく伝わってきた。顔を見なくても、彼が泣いているのがわかった。「かなしいの? トト?」

 彼は答えなかった。背中ごしに、鼻をすする音と、彼の小さな嗚咽だけが聞こえてきた。

 しばらくしてから、トトは絞り出すように言った。「人間と怪人は、仲良くなれないのかな……」

 わたしにそう尋ねた彼の言葉は、(すが)るような、懇願(こんがん)に近い響きがあった。ずきり、と胸が痛んだ。

「きっと……」わたしは言った。彼を抱く腕に力が入った。「きっと人間も怪人もわかりあえる。わたしたちみたいに、きっとみんな仲良く一緒に暮らせる日がくるよ」

 根拠もなにもない、なぐさみの言葉。それは願望でしかない。それでもわたしは、そんな日がいつかくると、自分に言い聞かせるようにトトに訴えた。

「いいなあ……」とトトは言った。「そんな日がきたら、いいなあ」

 彼の背中は、まだ震えていた。トトの首から前にまわしたわたしの手に、彼の涙が落ちたのがわかった。トトの悲痛にゆがむ、涙にまみれてくしゃくしゃになった顔が想像できた。わたしはふさふさの毛に覆われたトトの背中に、顔をうずめた。

 ごめんね、トト――。

 彼のために、なんの力にもなってやれない自分のことが、うらめしくて仕方がなかった。


 わたしは食器を洗い終え、ソファーに座ると、テレビの前にあぐらをかくトトの背中を眺めた。

 彼はわたしが初めて観せた、お気に入りのアニメのDVDを観ている。彼はどの絵本も、どのアニメもなんど観ても飽きないらしい。外で遊びまわることもできない彼にとって、絵本やアニメを観賞するひとときが、なによりの憩いの時間なのだ。

 また決心がにぶりそうになる。やっぱりよそうか、などと思ってしまう。彼の生い立ちを知ったところで、わたしがどうにかしてやれるわけでもない。彼の辛い顔は、もう見たくない。トトは話したくないんだ。それなら、もういいじゃない――。

 そう考えを改めようと思ったとき、トトがテレビの電源を切った。

 彼はなにも映らなくなったテレビを見つめたまま、わたしに振り返りもせずに言った。「カナメ、ボクに、訊きたいことある」そして振り返った。どこか決意を思わせる、力強い目をしていた。

「ボク、話すよ」

「いいの?」とわたしは訊いた。「無理に話さなくても、いいのよ?」

 トトは首を横に振った。「いい。ボクが、話したい。そう思った」

 彼は立ち上がると、ソファーに座るわたしのとなりに腰かけた。そして静かに呟いた。「ボク、カナメに、帰れない、言った」

 わたしは黙ってうなずいた。トトは虚空を見つめている。

 トトに会った、初めての夜のことを思い出した。たしかに彼は、もう家に帰れない――そんなことを言っていた。それがどんな意味を指すのか、今まで考えなかったわけではなかった。さまざまな憶測を頭によぎらせた。

 トトは、住む場所を追いやられたのではないか?

 それは人間の手によって? もしかしたら、怪人自身の手によるかもしれない。

 それとも、彼は逃げ出してきたのではないか?

 だとしたら、だれから? ヒーロー? 怪人――?

 そんな考えを巡らせたが、憶測は憶測をこえることなんてできない。答えは彼にしかわからないのだ。

 わたしは黙って、トトがつづきを話すのを待った。くちびるを噛んで、彼の辛い過去を受け止めようと備えた。

 トトの話を全部聞いたうえで、彼の明るい未来の可能性を導いてやれたなら――そんなことを考える。トトのお母さんは、とてもやさしかったと彼は言っていた。

 お母さんにもう一度会わせてやりたい――心からそう願った。

 ところが、彼が放った一言は、最初から絶望的なものだった。

「ボクの、お父さんも、お母さんも、もう死んでる」

 わたしは両手で口を覆った。「うそ……」

 うそよ、うそよ、うそよっ――何度も胸の内に叫んだ。まだ八才なんだよ? だって、そんなの……。

 容易に想像できることだった。わたしは意識して、考えないようにしていただけかもしれない。ついこのまえだって、ニュースでヒーローに討伐された怪人の報道がされたばかりだ。トトの両親だって、同じ運命を辿っていることも充分に有りうることなのだ。

「一年くらい前、お父さん、ヒーローに、殺された……」

 でも、仕方ない、と彼は言った。父親自身、人間をたくさん殺したらしいのだ。殺されても仕方ないと、彼は父親の死を受け入れている。それでも、若干八才の彼がその道理を受け止めるには、あまりにも酷だと思った。十八才のわたしでさえ、大っ嫌いな父であっても、たとえ父が何十人とひとを殺していたとしても、家族がだれかに殺されるなんて道理は受け止めきれないだろう。

 わたしはトトのその潔さが、不思議でたまらなかった。そして、彼の悲しみに満ちた目、その真相を垣間見た気がした。

 ところが、彼の奥深くに潜む悲しみは、わたしの想像を遥かに絶するものだった。


「お母さんは……怪人に殺された」


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