4
なるべくひと気のない通りを選び、トトを家に連れ帰ったときには、時計はすでに夜の九時をまわっていた。途中、上田動物病院にも立ち寄った。トトには外で待機してもらった。病院の受付は終わっていたけれど、病院の先生、看護師たちはわたしが来るのを待っていてくれた。子猫は足の経過が良くなるまでは、病院であずかってくれるそうだ。
けっきょくわたしは、子猫を引き取って家で飼うことに決めた。もともとペットを飼う予定で、ペット可のマンションを選んでいたのだ。子猫を病院に連れていくと決めたときから、わたしはそのつもりだった。
なによりも、わたしは子猫よりも大きな生き物も連れ帰っている。わたしがこれからのことを考えもせずに、突発的にこんな行動をとったことは、こうして家でくつろいでいる今でもまったく信じられないことだった。
そしてその大きな生き物はというと、リビングの中央壁際に置いてあるテレビから流れる映像がよほど珍しいらしい。彼はテレビに張り付いたまま、そこからまったく離れようとはしなかった。
「カナメ、カナメ」と彼は、テレビとわたしを交互になんども見る仕草を繰り返した。「箱のなかに小さい人間、いっぱい」
「こら、そんなにその箱ゆすっちゃだめ。壊れるでしょ」リビングの白いソファーに座るわたしは、ふくらはぎを揉みながら言った。久しぶりに激しい運動をしたものだから、足がぱんぱんだった。明日の登校時に、筋肉痛に悩ませされている自分が想像できた。学校までの坂道を思い浮かべるだけで、目眩がしそうだった。
夕方から今までで、あまりにいろいろなことがあったので、心身ともにわたしは疲れ果てていた。眠くてしかたがない。
彼について、いろいろと訊きたいことはあった。それ以前に、人間社会の常識を彼に教育しないと、テレビひとつで興奮してはしゃぐ彼の姿を見ると、ほとほと頭が痛くなるのだ。明日わたしが学校に行っているあいだ、彼をひとりで家においてこくことに、わたしはいささかの不安を覚えていた。
「ねえ、トト」テレビにしがみついて、ひとつひとつ、いちいち感銘するトトに向かってわたしは言った。「いろいろと話したいことがあるんだけど、こっちに来てくれる?」
トトは一度こちらを見たあと、またすぐにテレビへと向き直った。たしかに目が合ったはずだった。ところが彼の視線は、すぐにテレビへと釘づけなったのである。テレビの魔力なのか、わたしは彼から明らかに無視されていた。
なにかがふつふつと込みあげてくるのを、わたしはぐっとがまんした。
わたしはもう一度、彼の名前を呼ぶことにした。「トト?」
今度は振り向きもしなかった。聞こえていないはずはなかった。名前を呼ばれたとき、彼の耳がぴくっと動いたのをわたしはきっかり確認しているのだ。自分の顔が、徐々に引きつっていくのがわかった。
冷静に、冷静に――スカートを両手で握りしめ、そう自分に呟きかけた。
わたしは無言でテレビの電源をリモコンで切った。
「あれ? あれ? 消えたっ。なかの人間、みんないなくなった。死んだ? みんな……」トトはあわてふためき、テレビをゆすった。そしてこちらを見た。「カナメ? 人間、消えたっ」
彼はなにも映らなくなった黒い画面をゆすって、わたしとテレビをなんども見返した。消えてしまったテレビの住人を、彼は本気で心配しているらしい。その挙動が少しおもしろかった。わたしはまたテレビの電源を入れてみる。
「あっ、生き返った。すごいっ、カナメ、箱の人間、生き返った」
彼のテレビとこちらを繰り返し見返す仕草が、尋常じゃないほど早かった。
「もう、だめっ――」とわたしは吹き出した。お腹を抱えて笑った。こんなに笑ったのはひさしぶりだ。人差し指で涙を拭いながら、わたしは彼に言った。「その箱のことも……ちゃんと教えるから、とりあえず……こっちに来て、ね? トト」
しゃべっている最中も、笑いがおさえきれなかった。とぎれとぎれの言葉になってしまった。
トトはきょとんとした顔でわたしを見つめた。少しの間のあと、彼の顔がぐにゃりと変形した。そして、ぐふふと笑い声らしき声をあげたのだ。
「なに、その気持ちわるい声。笑い声?」口元に手をやって、わたしは訊いた。
「カナメ、なにがおかしいのか、わからない。けど、カナメ楽しそう。そしたら、ボクも楽しい」
「本当に――」わたしは呆れるように、くすっとだけ笑った。「トトには驚かされることばっかり。怪人に対する認識が百八十度変わっちゃったわ」
本当に彼には驚かされる一方だ。今までわたしは、怪人のことを恐怖の対象でしか捉えていなかった。ところが今、わたしの目の前にいる怪人の言動は、まるで恐怖とはかけ離れている。
「それより、カナメ、いま、ボクのこと、気持ちわるいって言った」
「そ、それは、トトの気のせいじゃないかな」わたしは明後日のほうを向いて、頬を掻いた。そこは拾うのね、とぼそっと呟く。
トトはしばらく首を捻っていた。そして少しうつむいたあと、「それよりカナメ、ボクお腹が……」と言って、彼はもじもじと腹をおさえた。彼の腹部へと視線をやってから、わたしは訊いた。「お腹が、どうしたの?」
「お腹、減った……」
「お腹減ったって――」ここまで言ったところで、自分も腹をすかせていたことにトトに言われてわたしは気がついた。合点がいったとばかりに、わたしは手のひらの上にこぶしをぽんと置いた。「ああ、そっか。そうだよね」
もう、夜の九時を過ぎている。わたしは学校で昼食をとって以来、なにも口にしていなかった。そもそも学校帰りに喫茶店に寄って行こうとしていたときから、わたしの小腹はすいていたのだ。彼はもしかしたら、わたしが昼食をとった以前から、食事をとっていないのかもしれない。
「よし」と言って、わたしはひざに手をついて立ち上がった。「いまからご飯つくるから、テレビ……その、箱でも観て待ってて」
「ご飯、食べる。ボク、待ってる」トトはそれだけ言うと、すぐにテレビへと向き直った。
わたしはキッチンに向かうと、まず冷蔵庫の中身を確認した。数種類の野菜と豚肉の細切り、チルドパックの中には、昨日の夕飯の肉ジャガが残っていた。トトの身体の大きさからして、彼はかなりの量を食べるだろうと思われる。けっこう多めにつくっておいたほうがいいだろう。
そう考えていたとき、ふとわたしに、怪人に対するある疑問が浮きあがったのだ。怪人は何を好んで食べるのだろうか。トトの見かけからして、肉食ではないかと思ってはいたけれど、野菜はまったく食べられないのだろうか。
人間を食べる怪人もいるということは、わたしも知っていた。しかしトトは、そうではないはずだ。確信は持てないけれど、ひとに脅えて、子猫の心配をするやさしい怪人なのだ。彼が人間を食べるはずがない。
わたしはキッチンカウンターから顔を出して、テレビに食い入るトトに向かって訊いた。「ねえ、トトは普段はどんな食事してるの?」
「虫や魚、あと、近くで育てた野菜たち」トトはこちらを向いてから言った。今度は無視されることがなかった。食べ物の魔力だろうか、とわたしは思った。
「虫……も、食べるんだ」
「カナメ、虫、食べないの?」
「食べるひともいるんだろうけど、わたしは、虫は食べないな」
「虫、おいしいのに」指をくわえる仕草をしてトトは言った。
トトの話からして、彼が野菜や魚も食べられることはわかった。虫はさすがに用意できないけれど、冷蔵庫の中の食材でも、彼の食事をつくることはできるだろう。しかし人間が食べられるもので、怪人にとってそれが毒となるものがないともかぎらないのだ。
「それじゃあ、トトは食べれないものとかある? 怪人が普段なに食べてるのか、わたしわかんなくて」
わたしのその質問に対して、トトから返ってきた答えは、わたしの予想を超えるものだった。
「それなら、心配ない。怪人、始まりは、みんな人間。人間が食べる食事、怪人も食べる」
「えっ?」わたしは思わず聞き返した。
「だから、人間が食べるもの、みんな食べれる」
「ち、ちがうの。そうじゃなくて……」
わたしは混乱していた。彼の言った発言には、にわかに信じがたい言葉があったからだ。「怪人、始まりは、みんな人間」彼はたしかにそう言ったのだ。
この人間世界を脅かしている怪人たちは、もとは人間だったというのだろうか。怪人誕生の説は、史実として安易的には知っていたつもりだった。学校の授業でも習う基本的なものだ。
それは、わたしが生まれる前のできごとだった。
六十年ほど前、ある生物学者の度重なる遺伝子実験の末、生まれたある一体の実験体。それの暴走により、実験の全指揮を任されていた津々木宗一郎(つづきそういちろう)は、実験体により殺害された。研究施設の研究社を残らず殺害して脱走した実験体は、他の実験動物たちを開放し、研究施設から逃亡。その後、研究施設は凍結されることとなった。
このときの一連の事件を、国はバース・オブ・ディスペアー――「絶望生誕の日」と呼ぶようになる。それがこの国の歴史に刻まれることになったのは、今から五十年ほど前、事件の約十年後のことだった。
これが、今に伝えられている六十年前の史実。怪人の始まり。同時に、ひとが怪人に脅かされる日々の始まりでもあった。国の対策で、各地にヒーロー部隊が設けられるようになったのも、六十年前の事件からおよそ十年後、「絶望生誕の日」が歴史として刻まれることになった、同じ年のことだった。
六十年前、津々木宗一郎が行なっていた施設での実験内容や、彼がどういった経緯でそれを行なっていたのか、詳しくは公表されていなかった。しかしそれが、動物の品種改良、雑種強勢の実験の類だったらしいことは、歴史の教科書にも史実としてとり明記されている。そのため、それはわたしも含め、ほとんどのひとが知っている常識のようなものだった。
生物学では、それをヘテローシスといい、二つの異なる系統や品種間での交配で生まれた一代雑種は、両親より優れるという現象だ。
例をあげれば、ライオンの雄とトラの雌を交配させると、ライガーが生まれるというのがある。そうして生まれたライガーは、ライオンやトラよりも身体が大型化し、運動能力も優れているというものだ。もっとも有名な雑種強勢では、馬とロバの交配による雑種、ラバなどあげられる。
こういった現象を理論とした実験の産物が、今の怪人であることを、この国には史実として伝えられてきた。しかし例の実験の中に人間も加わっていたなんて、わたしは聞いたことがなかった。もちろん、教科書にそんなことなど書いていないし、学校の教員たちですら、そのことを知らないはずなのだ。
トトが嘘をついているようにはみえない。もし彼が言っていることが本当なら、この国は史実を捻じ曲げていることになるのだ。そもそも、怪人が二足歩行して人語をしゃべっていること自体が、もとは彼らが人間であるという、なによりの証拠ではないのか――。
わたしは、知ってはいけない歴史の闇を知ってしまった気がして、背筋に悪寒が走るのを感じた。
「どうしたの? カナメ、どっか、具合悪い?」
わたしがよほどの顔をしていたのか、夢中だったテレビを放ってトトはこちらを心配そうに伺っていた。
「ううん、なんでもないの。ご飯、すぐにつくるね」
「本当に、だいじょうぶ?」彼は尚も訊いた。
うん、とわたしは笑顔でうなずいた。「ホントに、なんでもないから」
トトも笑顔をつくった。彼はわかった、とうなずいてから、テレビへと向き直った。彼はわたしを安心させようとしたのか、それはやさしい笑顔だった。
料理をつくっているあいだ、無心に料理をつくることだけを心がけた。さっきの話を詳しくトトに訊いてみたい気持ちはあった。しかし今日一日で、わたしの身にたくさんのことがありすぎた。頭が混乱しそうだった。とりあえず今はと、怪人のことを深く考えないようにわたしは努めた。詳しいことは、明日にでも訊けばいい。
トトに訊いておきたいことは、さっきの話とは別に山ほどあった。怪人であるトトにしか知り得ないことがたくさんあるはずなのだ。
そもそもなぜ、怪人はひとを襲うのか、彼らはどこでどのようにして暮らしているのか、トト自身、ひとに脅えているというのに、なぜあんな街中にひとりでいたのか――。
それらを訊きだすには、時間的にもわたしの体力が底をついてしまう。風呂にも入りたいし、すでにわたしの眠気はピークに達していた。明日も学校があるわたしは、朝が早いのだ。それに二人分の朝食と、昼食の弁当をつくることを考えると、朝の五時には起きなければならない。
今はそれらの話を差し置いてでも、優先すべきことがあった。女子高生のひとり暮らしの部屋に、トトをひとりで留守番させるのだ。彼には、ここで暮らすためのルールをきちんと教える必要がある。
それだけで、わたしは途方もない時間が取られるような気がしていた。