3
トトが待っている細い路地に着いたころには、わたしの身体は充分なほどに温まっていた。
路地は夕方に通ったときにくらべると、その何倍もの恐ろしさがあった。どんよりとした暗さは、そのままわたしを闇の中へと飲みこんでしまうのではないか、などと思ってしまうのだ。身体は温まったはずだというのに、また違った寒さがわたしを震わせた。
ビルの窓から差し込む灯りと、ゴミ溜めの上の電灯がなによりの救いだった。夏ともなると、その電灯のまわりには大量の虫たちが集っているのだろう。蒸し暑い熱気で、路地の異臭も今の数倍は散慢しているに違いない。まだ路地の入口にいるわたしにまで、異臭は漂って来なかったけれど、それを想像してわたしは顔をしかめて鼻をつまんだ。
路地の入口からでは、その場所にいるはずのトトの姿は確認できなかった。ひとに見つからないように、なにかの物の影に隠れているのだろう。「トト、いる?」と声を出して問いかけるも返事がない。
わたしは、肩にさげた紙袋の紐を両手で握ると、おそるおそるゴミ溜めの場所まで歩いた。トトと最後に別れた場所は、ちょうど電灯のある辺りだ。彼はそのへんの物陰にでも隠れているのだろう。
しかし、わたしがその場所に足を運んでも、彼の姿が見当たらないのだ。
急に真っ黒な不安感がわたしを襲った。温もった身体は、すでに冷えきっていた。わたしは両肩を抱いてまわりを見渡した。
「トト、いないの?」もう一度彼の名前を呼んだ。しかし彼からの返事はない。
いやな考えが頭をよぎった。
もしかすると、彼はだれかに見つかってしまったのではないか。
だとしたら、彼は無事なのだろうか。
逃げることができたのだろうか。
ヒーローにやられてしまったのかもしれない――悪い方向にばかりと思考がかたよる。涙が出そうになった。
鼻の曲がるような臭いと、飲みこまれてしまいそうな闇がわたしの身体を震わせた。電灯からは、不気味で無機質な音が、ヴーヴーと闇を漂っていた。
ブルーのポリバケツから垂れ出ている液体。いくえにも重なった黒いポリ袋。そのどれもが、わたしを恐怖へとかりたてるのだ。
トトの身への不安とあいまり、その恐怖が思考をまた悪いほうへと隔たせる。
ふいに、小さいときに観たホラー映画を思い出した。
ポリ袋に四肢、頭をばらばらに詰められた女性の死体。何羽ものカラスが、羽を散らし集り、ポリ袋を黒いくちばしでついばんでいた。
ガァーガァーと不気味な声で鳴くカラス。そのくちばしにやぶられた袋からは、血に濡れた黒髪が垂れおち、赤黒い雫を地に落としていた。そして、その髪の隙間から、女性の大きく開かれた目が、ぎろりとこちらを覗きこんでいたのだった――。
「トト……」
無意識から名前を呼んでいた。助けにきたはずなのに、助けを求めるような呼びかけだった。
わたしは、こんなところに彼を置いて行ってしまったのか。トトはあからさまに怖がりだった。きっと彼も怖かったに違いないのだ。彼は、どんな心境でわたしをここで待っていたのだろうか。
そう考えるもう一方で、不気味な恐怖と悪臭がわたしに吐き気を込み上げさせる。
目のまえに連なるポリ袋のなかには、本当に死体が入っているのではと、あらぬ考えばかりが頭に散慢した。この場所から、一刻も早く立ち去りたかった。
足元に細長い白い毛がいくつか見あたった。トトから抜け落ちたものだろうと思った。たしかに彼は、ここにいたのだ。
その毛を拾おうと、わたしが腰を降ろしたときだった。
ポリ袋の隙間から、がさっという音をたてて黒い影がわたしを横切ったのだ。わたしは、きゃっ、と悲鳴をあげて、地面に尻もちをついた。心臓に締めつけられるような痛みが走り、わたしはふいに胸をおさえた。心臓が止まるかと思った。
黒い影の正体は、握りこぶし大の、大きなネズミだった。
わたしは生を実感すると、安堵の吐息を吐いた。胸にあてた手には、せわしなく鼓動が脈打っている。
また、奇妙な違和感を抱いていた。
極力、冷静になろうと努めた。わたしが悲鳴をあげたとき、ネズミの出てきたときの、がさっという音――その音のすぐあとに、わたしはたしかに、少し遠くで同じような音を耳で感知していたのだ。
あの音はなんだったのか。
その音は、自身の悲鳴に反応して出た音のような気がした。
わたしは、その音の発生源へと視線を運ばせた。するとそこには、夕暮れの時点では、あきらかに存在しなかったものがあるのだ。
見るからに怪しい。いかにも、そこにはひとが隠れていますと言わんばかりに、不自然に盛り上がったブルーシートがある。わたしは立ち上がると、尻をはらってからブルーシートへと近づいた。
わたしの足音に反応して、ブルーシートが、がさっという音をたてて動いた。もうわたしは、それがなんであるかの確信がもてていた。こんなとこにいたのね、とわたしは胸の中で呟く。名前呼んだのに――。
ブルーシートをじっと見下ろし、わたしは腰に手をあてて吐息を吐く。そしておもむろにそれを引きはがした。
「うわぁっ」
気の抜けるような叫び声だった。そこには、またも頭を抱えうつ伏せにうずくまる怪人の姿があった。この一連の流れに、軽い既視感をわたしは覚える。
「トト……」わたしは額に手をあて、呆れた声を出した。
トトはゆっくりとわたしを見上げた。「カナメ……?」
脅えたなかにも、わたしの存在を視認した彼の顔に、安堵の表情が伺えた。
「トト、わたしずっと呼んでたんだけど……」わたしは少し怒りを含ませて言った。「どうして返事しないのかな?」
「ごめんなさい」そう言って彼は、また頭を庇うように地面に額をつけた。「ボク、ここで隠れてたら、いつのまにか眠ってた」
「それで、わたしの悲鳴で驚いて、目が覚めたと」
トトは脅えた表情で顔をあげてから、「うん」とうなずいた。
「わたし、すごく心配したんだから」
「うん」
「すごく、怖かったんだから」
「うん、ごめんなさい」
「いなくなっちゃったって思って、泣きそうだったんだから」
「ごめんなさい……」トトの大きな背中は震えていた。
「でも……よかった」わたしは膝をついて、彼の頭を抱いた。「いてくれて……」長く白い毛で覆われた彼の頭は、暖かくて抱き心地がよかった
まるで、幼い子供を叱っているようだと思った。
どうして、こうも彼を憎めないのか。もう少し叱りつけるつもりだったのだ。ところが不覚にも、わたしはこの怪人を少し愛おしいなどと思ってしまっている。ただやはり、安堵のほうが大きい。彼は、いなくなってはいなかった。
本当に、よかった――。
トトの頭を抱く腕に、力が入った。怖かったから。でもそれよりも、彼がいてくれたことへの安心感からだった。
「カナメ、苦しい……」
あっ、とわたしは声をもらした。すかさず彼から腕をほどいた。「ごめん、苦しかったね」
「ううん、いいんだ。カナメ、戻ってきた。だから、うれしい」
「トトも、無事でよかった」わたしは立ち上がると、彼へと手を差し伸べた。「誰にも見つかってない?」
トトはわたしの手を握ると、「うん、だいじょうぶ」と言って立ち上がった。彼の大きい身体を近くで目の当たりにして、その迫力にわたしは少したじろいだ。
「待ってるあいだ、怖くなかった?」わたしは訊いた。
「すこし、怖かった。けど、疲れてたから、いつのまにか寝ちゃってだんだ」
「そっか、じゃあ家でゆっくり休まないとね」
ここは人間の街中だ。トトがここへ至るまでに、さまざまなことがあったろうことは察しがつく。訊きたいことは山ほどあった。
しかし今は、彼をひとに見つかるかもしれない危険から少しでも早く遠ざけたかった。
わたしは紙袋からジャンパーを取り出した。「これ、着てみて」
「どうして?」とトトは首を捻った。
「いいから、ひとに見つかりたくないでしょ?」
トトは珍しそうにジャンパーを眺めて、「わかった」としぶしぶといった感じで承諾した。彼はジャンパーに袖を通した。いくら大人用のジャンパーだといっても、怪人であるトトには、それはかなり窮屈そうだった。
「ちゃんと前も閉めるのよ」わたしは言った。
トトはまたも首を捻る。「どうやるの?」
「トトのズボンにもついてるじゃない。ジッパー」
「これのこと?」と言ってトトはズボンのジッパーを下ろした。
「それは下ろさなくいいのっ」わたしはあわててそこから視線を逸らした。「同じものが今着たものにもついてるでしょ?」
「うん、ついてる」
「それで前を閉めるの。わかった?」
うん、とうなずいてトトは、ジャンパーのジッパーを閉めようとするものの、首をなんども捻ってうまくいかなかった。
わたしはこめかみを掻いた。「ああ、なるほど……」
彼はジッパーのホックの応用がわからないのだ。彼のズボンのように、上げ下げするだけのものと違い、ジャンパーはまずホックで裾をつなげなければならない。
「ちょっと、かしてごらん」と言ってわたしは、彼のジャンパーのホックを引っかけた。「ほら、こうするといいの」ジッパーを上に持ち上げる。
「苦しいよ」と窮屈そうな顔をしてトトが言った。
「がまんしなさい。ひとに見つからないためよ」
「だって」
「だってじゃないの。ほら、これもかぶって」そう言ってわたしは、ジャンパーのフードを彼の頭にかぶせた。「暑いよ、カナメ」
「がまんって言ってるでしょ。置いてくわよ」フードの両脇をつかんだまま、わたしは彼を見つめて少し強い口調で言った。
「わかった。ボク、がまんする」
「じゃあ、つぎはこれね」わたしは、紙袋からサングラスを取り出した。
「まだ、あるの?」トトの表情がげんなりとしていた。
「はい、がまんがまん」と言ってわたしがトトの顔へサングラスをかけると、「カナメ、暗い。前見えない」と彼は、頭をきょろきょろと動かした。両手が空をさまよっている。
わたしは吹き出しそうになるのを必死にこらえた。今は夜なので見えにくいのかもしれないが、しだいに彼の目も慣れるだろう。わたしは少しトトから後方へさがると、彼の全身をながめた。
「うわぁ……」と言ってわたしは口もとに手をやった。「見るからに、怪しいひとね……」
トトの表情には、あからさまに不安が滲みでていた。「だいじょうぶなの? カナメ……」
「だいじょうぶ……だと思う。ほら、怪しいひとには見えるけど、ひとはひとでしょ?」言いながら、まるで自分に言い聞かせているようだなと思った。怪しくても、怪人に見られるよりマシなはずだ。
わたしは「怪しいひと」を略すと怪人と読むということに、ずいぶんあとになってから気づいたのだった。