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 からんからん、と入口のドアが開く音で、わたしは店の入口へと視線を投げた。喫茶店へ来店したのは、スーツ姿の二十代後半と思われる女性だった。

 まだ来ないの――?

 深い溜め息をひとつ吐いて、わたしは携帯へと視線を戻した。

 わたしは喫茶店に来ていた。チーズケーキがおいしいと評判の店だ。入口のドアを開けると、正面がL字型のカウンターになっている。店内にはテーブル席が五つ。明るすぎない照明は、ひとをリラックスさせる快適な暗さをたもち、ほどよいボリュームのジャズが天井のスピーカーから流れていた。

 カウンター内では、白髪混じりの髪をオールバックにした、背の小さめの初老の男が豆を煎っている。ひとの良さそうなマスターだ。

 わたしはというと、入口から右の窓際に位置する角のテーブルで二杯目のコーヒーに手をつけ、携帯の液晶を眺めていた。正確に言えば、液晶のデジタル時計である。

 さきほど来店したスーツ姿の女性がカウンターに座ると、二十代前半と思われるウエイトレスがお冷を彼女に差し出した。店内の客はそのカウンターの女性とわたしをふくめ、わたしの向かいのテーブルをひとつ空けたさき、壁際のテーブルに座る若い男女の四人だ。

 わたしが学校帰りにこの喫茶店に立ち寄ったのは、寄り道が目的ではなく、また別に目的があった。ひとと会う約束だ。わたしの従兄妹にあたる待ちびとの名前は、鈴原友樹(すずはらともき)。怪事警察のキャリアで、今年で二十五才になるらしい。

 この喫茶店での待ち合わせの時間は、五時半だった。携帯のデジタルでは、時間は五時五十分を過ぎようとしている。およそ二十分の遅刻である。わたしはいらいらとテーブルを指でノックした。

 携帯のメールには、ごめん、十分くらい遅れそう――と着信があったけれど、すでにそれから十分以上もわたしは待たされている。それが今回だけならまだ許容範囲なのだが、彼は前回も遅刻しているのだ。前回はまだいい。わたしが無理を言って会う約束を取り付けたのだから、多少の遅刻は大目にみることができた。

 しかし今回の待ち合わせは、場所も時間も彼から指定しているのだ。こんなに時間にルーズな若者がキャリアなのだから、怪事警察もたかが知れている。そのうえ彼は、軽薄で頼りないときていた。

「それでよくヒーローが務まるわね」とわたしは彼に皮肉を言ったことがある。すると彼が言うには、「僕はキャリアだからね。怪人と戦うことなんて、あんまりないんだ」ということだそうだ。

 正直、あまり会いたい人物ではなかった。ただ、彼以外に頼れる人物がいないのもたしかだ。乗り気はしないけれど、贅沢を言える立場でもなかった。

 わたしが前回彼に会ったのは、先週の木曜日のことだ。怪人についてわからないことを尋ねようとしたのだった。だけど怪事警察の新米である彼からは、貴重な情報はなにひとつ聞き出せなかった。

 ただそのとき、わたしはついでにあるものを彼に頼んでいた。今回の待ち合わせは、そのあるものが出来あがったからというわけだ。

 わたしが彼に頼んだものは、普通に手に入るものではない。怪事警察という組織の人間でもそれは同じはずだった。それが頼んで一週間たらずでそれを用意できてしまっているのだから、やはり怪事警察という組織も、裏でなにをやっているかわかったものじゃない。

 折りたたみの携帯を閉じ、三杯目のコーヒーを頼もうと思ったときだった。からんからん、と入口のドアが開く音に、わたしはちらりと横目で音のほうへと視線を移した。彼だった。

 彼は紺のスーツ姿に黒いショルダーバッグを手に持っていた。わたしの座っている場所がわからないのか、彼はきょろきょろと頭を振って店内を見渡している。

 わたしは彼に自分の居場所を示そうと、右手を上げようとしたけれど、すぐに浮き上がった手をテーブルの上に戻した。遅れて来た彼に対し、素直に場所を教えるのは(しゃく)だと思ったのだ。わたしは無視することにした。後頭部を掻きながら店内を見渡している間抜けな彼を、わたしは頬杖をついて横目で流し見る。あれが、この国の憧れの的であるヒーローというのだから笑ってしまう。

 しばらくして彼はわたしの姿を見つけたらしく、白い歯を見せて爽やかな笑顔をつくった。その自然な爽やかさがやけに鼻につく。待ち合わせに遅れて来ておいてその爽やかさはないだろうと思った。わたしはぷいっとそっぽを向いた。

 ずっと幼いころから彼のことを知っているわたしには理解できないことだが、彼は女性にモテるほうらしい。中学校時代の友だちが実家に遊びに来たときなんかは、わたしをそっちのけで彼のまわりに彼女らは集まるのだ。逆に彼が家にいなかったときなどは、今日は友樹さんは来てないの? と眉を下げる始末だ。彼女らがわたしの家に遊びに来ていたのは、本当は彼に会うことが目的だったのではないかと思うほどだった。

 彼は軽く手を上げてわたしの座るテーブルまで来ると、向かいの椅子を引いた。椅子に腰をかけながら、「ひどいなあカナメちゃん。僕が来たの気づいてたなら教えてくれればいいのに」と言って彼は後頭部を掻いた。

「三十分」とわたしは言った。「三十分も遅刻しといて、ひどいのはどっちかしら?」

「それは、さっきもメールしたけど、仕事が長引いちゃって。悪かったって思ってるよ」

「本当に思ってる?」

「思ってる。それに仕事がなかったら、一秒でもカナメちゃんと早く会いたいって思ってるほどなんだから」

「そういうの、よく恥ずかしげもなく言えるわね」

「恥ずかしいもなにも、本心なんだから仕方がない。ちょっと前まではいつでも会えたのに、今は僕も仕事が忙しいし、カナメちゃん実家にはもういなからね」

「わたしはできるなら、会いたくもないんだけどね」正直な気持ちを言った。

「ひどいなあカナメちゃん。むかしはあんなにかわいげがある子だったのに」彼は人差し指で頬を掻いた。

「それはどうも。どうせ今は、かわいくないブスですから」

「言葉のあやだよ」と彼は言った。「カナメちゃんはむかしから、ずっとかわいいよ。それに、きれいになった」

 こういうことを恥ずかしげもなくすらすらと言ってのけるから、わたしは彼のことが苦手なのだ。彼の場合、それがキザっぽくならずに、ごく自然に違和感がないというのもいけ好かない。

「あいかわらずね」とわたしは額に手をやった。「そういうことは、他の女にでも言ってなさいよ。従兄妹を相手にお世辞なんか言ってもなにもでないわよ」

「他人であろうが従兄妹であろうが関係ないよ。僕は正直な感想を言ってるんだ。カナメちゃん、本当にきれいになった。学校でモテるだろ? 男はほっとかないんじゃないかな」

「そんなわけないでしょ」

 モテるどころか、わたしには友だちさえいない。

「自覚がないんだね。それはもったいないな」

「もういいから。自分のことは自分がいちばん知ってるわ。さっきも言ったけど、そういったことは従兄妹に対して言うセリフじゃないよ。それに、そうやって八方美人にひとのこと褒めてると、勘違いしちゃう女性も出てくるから気をつけたほうがいいと思う」

 わたしの中学時代の友だちがいい例だ。

「勘違いって?」眉を浮かせて友兄は訊いた。

「好きになっちゃうってこと」

 まさか、と彼は両手のひらを天井に向けて広げた。自覚がないのはどっちよ、とわたしは心の中で彼に毒づいた。

「カナメちゃんも、僕のこと好きになっちゃうの?」

 わたしはげんなりとして、くちびるをゆがめた。

「そんな馬鹿なことあるわけないでしょ。なんども言うけれど、わたしたちは従兄妹なの」

「従兄妹でも結婚はできるよ。それに――」そう言って彼は、意味深な笑みをこちらに向けた。嫌な予感がした。彼がつぎになにを言おうとしているのか、わたしにはわかってしまった。もうむかしのことだから忘れていると思っていたのに、彼はそれを覚えていたらしい。「大人になったらお兄ちゃんと結婚するって言って、僕のそばから離れなかったのはカナメちゃんじゃないか」

「ば、ばかじゃないの」言いながら、自分がひどく狼狽しているのがわかった。顔がかあっと熱くなった。「そんなむかしのこと、覚えてないし、もしそんなことわたしが言ったとしても、小さいころの話じゃない。そうやっていつもわたしのこと子供あつかいしてからかうから、友兄とは会いたくないのよ」

「かなわないなあ」と友兄は首のうしろを掻いた。

 かなわないのはこっちよ、とわたしは胸の内で愚痴をこぼした。

「とりあえず」と息を吐く。「本当に悪いと思ってるなら、今日のコーヒーも友兄のおごりだから」

「そんなことで許してくれるのかい?」彼は目を丸くした。「もともとお金は僕が持つつもりだったんだけど。大人の男としては、女性にお金を出させるわけにはいかないしね」

 ふうん、とわたしは頬杖をついた。「大人の男として、女性を平気で待たせるのはいいんだ」粘着質な視線を浴びせる。

「もう勘弁してくれよ、カナメちゃん。本当に悪かったって」そう言って友兄は、いつのまにか提供されているお冷に口をつけた。それよりも、と彼はグラスを口から離した。「カナメちゃんが頼んでたもの、本当に苦労したんだから」

「だめもとで頼んでみたんだけど、本当に準備できたんだ」

「だめもとって……こちらとしては、頼みを聞くしかなかったんだけど……本当にかなわないなあ。まさかヒーローが女子高生に脅迫されるなんて」

「ひと聞きの悪い言い方しないでよ」わたしは口をとがらせた。「まあ、あながち間違ってはいないけど」

 最初はあわよくば程度のかるい気持ちだった。数度と父からわたしの耳に入っていた隠蔽という言葉で、友兄にカマをかけてみたのだ。なにげなく(さぐ)りを入れてみれば、彼はわたしの予想をはるかに超えて、あたふたと取り乱し始めたのだった。空になったコーヒーカップを口に運んだり、額の汗をしきりにハンカチで拭きとったりと、彼がひどく狼狽しているのがわかった。そのとき同時に、怪事警察がやはりなにかを隠しているのだということに、わたしは改めて確信を持ったのだった。

 それでわたしは彼に追いうちしてみることにした。

「知ってること全部ばらすから」と彼に言ったのだ。もちろんなにも知ってなどいなかった。だけど彼には、それをわたしに確認する余裕すらなかったようで、「わかった。言うことを聞くから」としぶしぶわたしの頼みを受け入れたというわけだ。

 それでもこのときはまだ、彼がわたしの要求するものを用意することはできないだろうと思っていた。そんなに必要なものでもなかったし、やはりあわよくば程度のものだったので、さほど彼の返事にも期待してはいなかった。

 ところが彼は、しばらく腕を組んで逡巡するそぶりを見せたあと、「なんとかするよ」と唸るように答えたのだった。

 自分で頼んでおきながら、彼の返事にわたしは目を見張った。すっとんきょうな声を漏らしていたと思う。いくらなんでも、怪事警察が用意できるものではないと思っていたからだ。

 そして昨日、それを用意できた友兄からわたしに連絡があり、今に至るというわけだ。

「まえにも訊いたけど」友兄がいぶかしげな視線をこちらに向けた。「こんなもの、いったいなんにつかうだい?」

「たいしたことじゃないよ」とわたしは答えた。「それより、コーヒーおかわりしていい?」

 わたしは彼の返事を聞くまえに、ウエイトレスに向かって手を上げた。

「そうだね。僕も頼もうかな」そう言って彼は、メニューを開いた。

 ふたりにコーヒーが届けられると、「今日はチーズケーキはいいのかい?」と友兄がわたしに訊いてきた。

「今日はテイクアウトにする」とわたしは答えた。トトにも食べさせてあげたいと思ったからだ。トトのよろこぶ顔が目に浮かんだ。

「二個だけど、いいかな?」彼の顔を覗きこむようにして、わたしは訊いた。

 かまわないよ、と言って彼はコーヒーをひと口すすった。

「それより、本当にたいしたことにはつかわないんだね?」彼は念を押すようにわたしに訊いた。

 わたしは顎を引くようにしてうなずいた。「それ自体はたいしたものなのかもしれないけど、本当にたいしたことにはつかわないから、安心して」口に運びかけたコーヒーカップをテーブルに戻すと、彼の目を見つめた。「けっして悪用したりしないから」

 彼はやれやれといったふうに吐息をついた。

「なにかと知られてしまってる怪事警察としては、カナメちゃんにいろいろと言える立場じゃないんだけど、それをつかう時点で悪いことなんだ。だからくれぐれも多用しないように気をつけてくれないかな」

「わかってる」わたしはいつになく真剣に答えて、コーヒーをすすった。

「それにしてもわからないなあ」と友兄は首を捻った。顎をつまんでひとしきり唸ったあと、疑問を口にした。「そんなもの、どうにもつかいようがないだろうに。そのうえ理解できないのが、それがカナメちゃん自身の名前と写真とは、まったく別人のものを用意してくれだなんて、それじゃあカナメちゃんは、それをどうにもつかいようがない」

「友兄は深いこと気にしなくていいの。まだつかうと決まったわけでもないんだし」

「こっちとしては、そのままつかわれないことを祈るしかないんだけどね。僕がその手帳を偽造したことがバレれば、僕とカナメちゃんだけでなく、君のお父さんだってただじゃ済まないんだから」

 本当にかなわないなあ、と彼はよわよわしく嘆きの声をあげた。

 バレればただでは済まない――本当にそうだろうかとわたしは思った。隠蔽を得意とする父のことだ。この程度のことは、彼ならすぐにもみ消せるのではないだろうか。彼は世間体をだれよりも気にするひとだ。身内の不祥事を放っておけるわけがない。どっちにしても、ばれることのないように気をつけるつもりだけど。

「あのひと、まだこっちに来てるの?」わたしは訊いた。

「あのひと?」と友兄はカップを浮かせたまま首をかしげた。

「お父さんよ」

 ああ、お父さんのことか、というような顔を彼はした。「いや、所轄の捜査本部での指揮の手順を構築したあとは、本庁に戻ったよ。おじさんもなにかと忙しいからね。お父さんと会ったのかい?」

 わたしはコーヒーをすすりながら、無言でうなずいた。

「このまえ家に来た」そう言ってカップをテーブルに置いた。

「おじさん、心配してただろ? 近くで怪人が猛威をふるってるんだから」

「あのひとは娘の心配をするたまじゃないわ。追い出してやった」

 あちゃあ、といったふうに彼は片手で顔を覆った。「追い出したって……」

「わたしから話をふっておいてなんだけど、あのひとの話はもう辞めましょ。コーヒーがまずくなるわ」

 彼はふっと真剣な表情をしてわたしを見た。「やっぱり、まだ許せないのかい?」

「聞こえなかったの? あのひとの話は辞めようって言ったよね」わたしは棒読みするように、言葉に感情を乗せないで言った。そして重苦しく溜め息を吐いた。「許す許さないのまえに、あのひとはわたしのことを娘とすら思ってないんじゃないかしら。このまえ家に来たときだって、ついでだって言ったのよ。仕事で近くに来たついでなんだって。それまで、ずっとわたしのこと放っておいたくせに……」

「おじさん、不器用なんだよ。ずっと仕事ひとすじで生きてきたひとだから、娘との接し方に戸惑ってるだけだと思うよ。ずっとお母さんにカナメちゃんのこと任せっきりだったからね。お母さんが亡くなってから、お父さんだってずっと悩んでいたんだと思う。おじさんが依子(よりこ)さんと再婚したのだって、カナメちゃんを想ってのことなんじゃないかな」

 カナメちゃんには母親が必要だと思ったんだよ、と友兄は補足した。

「だからって、ついでで家に来るまで娘のこと放っておける神経がわからないわ。まあ、来たら来たでうっとうしいだけなんだけど」

「依子さんがたまに顔出してるだろ?」持ち上げたカップを口に近づけると、彼は眉を寄せてわたしに訊いた。

「ああそれなら、玄関で毎回追い返しているわ」

 彼は目を大きく見開いた。カップは口につけられず、宙で停滞していた。

「毎回って……一度も部屋に上げてないの?」けっきょくコーヒーをひとくちも飲まないまま、彼はテーブルにカップを戻した。

「そうよ」とわたしが答えると、彼はあきれたように髪に手を突っ込んで頭を掻いた。そして、「ひどいことするなあ」と苦笑した。

「そんなことないわ」わたしは片眉を上げて言った。「わたしはあのひとのこと母親だなんて認めてないんだから、なれなれしく家に来られても迷惑なだけなの。わたしの機嫌をとって、お父さんの好感をあげようって腹がみえみえなのよ」

「依子おばさんは、カナメちゃんのこと本気で心配しているんだと思うけどな」

「まさか」とわたしはかるく肩を持ち上げて、彼の意見に否定を示した。

 あのひとにとってわたしは、父についてきた(わず)わしいお荷物でしかないのだ。夫婦間との仲を円滑に過ごすため、わたしのご機嫌とりを仕方なくやっているに過ぎない。そうに決まっている。はっきり言って、うっとうしい。彼女のそんな思惑に乗ってやるつもりなんかはなはだない。

 わたしに父とあのひとが再婚してからのことがよみがえる。

 わたしになんの相談もなく、父は彼女との再婚をはたした。それと引きかえに、今までわたしの面倒を見てくれていた家政婦がいなくなった。我がもの顔で平然と家に居住まう彼女のことを、父はわたしに母と呼べと言った。


 依子さんが毎日就寝する部屋は、もとは母の寝室だった。彼女は母の座っていた椅子に座り、母のお気に入りの庭でガーデニングをするようにもなった。それらを目の当たりにして、わたしのなかに言いようのない寂しさと切なさがこみ上げた。母のことが(けが)されていくような思いがした。そこはお母さんの場所なのにと思った。勝手に座らないでよ。勝手にお母さんの庭をいじらないでよ――。

 そのうち母の座っていた椅子には、あのひとの匂いが染みつき、母のお気に入りだった庭は、あのひと色のガーデニングに模様を変えた。その庭には、わたしと母が一緒に植えたはずのあじさいがあったはずだった。梅雨の次期になると、桃色やむらさき色の花を咲かせていたあじさい。それがなくなっていた。

 そうやって無神経に、あのひとは母がいたころの面影を、母とわたしの想い出を奪っていくのだと思った。

 あの家では、母のものだったものが、すべて母のものでなっくなっていた。彼女は母のつかっていた化粧台をもつかい、母の洋服ダンスでさえ自分のもののように扱った。そうしてだんだんと、母の好きだった場所も、物も、想い出も、母のすべてが徐々にこの家からなくなっていくのかなと思うと、とても悲しくなった。このままでは、家から母のすべてが消えてしまうと思った。そうなることを恐れた。

 あのひとに悪気はなかったのかもしれないけれど、あのときのわたしには、彼女のことが母の想い出を奪い去りにきた悪い魔女のようにさえ思えていた。

 言えばよかったのかもしれない。それは母のものなんだと。つかわないで、と。そう言えば、彼女はそれらのものをつかわなかっただろうし、庭のあじさいだって梅雨に花を咲かせただろう。彼女は父にあてがわれたものをつかっているに過ぎなかったのだから。

 しかし言えなかった。

 父の決めたことに、わたしは口を出せなかった。なにより、母とともに寄り添ってきた父自身が、母との想い出がつまった品々を彼女にあてがっている事実に、わたしは失望していた。父は本当に母のことを愛していたのだろうか。母の想い出がつまったものを彼女にあてがうことに、少しも抵抗はなかったのだろうか。父の気持ちがわからなかった。ただ、母の面影を失っていく家で呆然と過ごしていくしかなかった。

 仕方ないんだ、と自分に言い聞かせた。母はもういない。だれかにつかわれなければ、それらのものもただのガラクタになってしまう。父はそれを恐れたのかもしれない。だれかにつかってもらえることを望んだのかもしれない。それは仕方のないことなんだ――。

 すでにこのときから、わたしはこの家からの疎外感を感じていたのかもしれない。母のものがなくなっていくのと同時に、わたしの居場所もなくなっていく気がした。わたしは恐れた。他人であるはずの依子さんが、母のものをつかい家族になりすましていくのに、この家でわたしだけが、なにもかもを失っていく。この家では、わたし自身がだれよりも疎外されていた。

 他人は、わたし?

 しだいにわたしに憎しみの感情が芽吹き始めた。母を除外していく父のことも、わたしを疎外するこの家にも、他人のくせに家族になりすますあのひとのことも、すべてが憎たらしかった。憎くて、寂しくて、悲しかった。

 だけどそれらの思いをおもてに出すようなことはしなかった。いや、それどころかわたしは、喜怒哀楽といった感情自体、この家でまったく出すことがなくなっていた。

 機械になればいい、と思った。父の望むような優等生の自分を演じ、わがままな自己を主張しないよう、わたしはロボットになろう。わたしが耐えれば、それでいい。

 だけども、それも長くはつづかなかった。

 わたしの感情がついに爆発したのだ。依子さんが母のお気に入りだったマグカップをつかっているのを見たとき、ふっと自分のなかでなにかが、ぶつん、と音をたてて切れた。かあっと全身が熱くなった。

 今までずっと耐えてきたというのに、感情の爆発のきっかけはそれを見た一瞬で巻き起こった。我慢できなかった。それだけは、あのひとに触れてほしくはなかった。

 ずっと耐えてきた。母の場所、ものが失われていくのを、悲しくても、苦しくても、断腸の思いでぐっと耐えてきたのだ。だけどそれだけは、そのマグカップが母以外のひとからつかわれることだけは、わたしには耐えきることができなかった。

 それは、わたしが母の誕生日にあげたものだった。

 どうして? どうしてあなたはわたしの大事なものを平気で奪っていくの? それはあなたにあげたものじゃない。わたしが、わたしが誕生日プレゼントでお母さんにあげたものなの――。

 胸が急激に熱くなった。頭に血が上り、怒りが込みあげた。いままで彼女に対し感情をあらわそうとしなかったわたしだったが、このときばかりは初めて自分の感情を彼女にぶつけた。「勝手につかわないでっ」マグカップを奪い取ろうとした。

「きゃっ」と彼女は悲鳴をあげた。熱を帯びたコーヒーがわたしの手にかかった。わたしはふいにマグカップを落としてしまった。ごとっと鈍い音がしてマグカップが床に落ちた。

「ああ、ああ……」わたしは床にひざをついて、マグカップを拾いあげた。コーヒーを散らした床は、わたしのお気に入りのスカートを汚した。手は火傷で真っ赤に腫れあがっていたけれど、そんなことはどうでもよかった。「ああ……」取手の部分が折れていた。

「ごめんなさい……私、そんな大事なものだなんて知らなくて」依子さんは戸惑うようにわたしに言った。

「なんなのよ……」床にマグカップを置いて、わたしは(こうべ)を垂れ、うなだれるままに言った。「ねえ? なんで? なんでわたしの大切なものばっかり奪うのよ。ねえ? 返してよ……」依子さんを睨みつけた。「お母さんの想い出を返してよっ」彼女につかみかかった。

 つぎの瞬間、ばちん、と乾いた音とともに、わたしの頬に強い衝撃が走った。視界が一瞬真っ白になった。自分が平手で殴られたのだと気づいたのは、「いいかげんにしなさいっ」と怒声をあげた父の声を聞いたときだった。

 どうして……?

 わたしは再びひざまずいた。殴られた右の頬が痛い。じんじんと突っ張るような痛みと、ごわごわとした、異物を詰められたような不快な感覚があった。頬の痛みは、手の火傷なんかよりも何倍も痛かった。殴られた頬に両手で触れると、涙がぼたぼたとこぼれてきた。どうして? どうしてわたしが殴られなきゃいけないの――?

「カナメさんは悪くないんです。なにも殴ることはないじゃないですか」依子さんが父に向かって言った。「私が勝手に――」

「君はだまってなさい」父は彼女に有無を言わさなかった。そしてわたしに向かって言った。「カナメ、床をかたづけなさい」

 どうして、どうして――壊れたマグカップを見つめながら、だれにも聞き取れないような弱さで、なんどもそう呟いた。お母さん、わたし、わからないよ。どうして……。

「カナメ、早くかたづけなさい」父が尚もわたしに言った。

「カナメさん、いいのよ。私がかたづけるから」依子さんが言った。

「娘の不始末だ。君が手を出すことはない」

 父の冷たい言葉で、音もなく、わたしのなかのなにかが崩壊していくのがわかった。ああ、なあんだ、とふいになにもかもが馬鹿らしくなった。わたしの居場所、すでになくなってたんだ――。

 そのとき、わたしの頭上で依子さんのはっと息を呑むような気配があった。「カナメさん……右手、ひどい火傷してるじゃないっ」

 もうどうでもよかった。わたしの右手を見て取り乱す依子さんに対しても、なにをそんなにあわてているのかと、まるですべてが他人ごとのように思えた。わたしの手を取って彼女が父となにか話していたが、わたしの耳には、それはもう雑音のようにしか聞こえてこなかった。

 そのあと、マグカップがどうなったのかも覚えていない。気づいたときには、わたしの右手には包帯がしてあり、部屋のベッドで眠るわたしの傍らに、依子さんがいた。

 わたしは彼女に言った。「出ていって……」

 ひとりになった部屋で包帯のしてある右手を見て、痕、残ったらやだな、となんとなくそう思ったのだった。

 あのときに壊れたものは、マグカップだけだったのだろうか。マグカップと同時に、わたしの心も壊れていたのかもしれない。

 その日わたしは夢を見た。

 母の夢だった。

 想い出のなかでも、夢のなかでも、母はいつも笑っている。マグカップの夢も見た。わたしの誕生日プレゼントがよほどうれしかったのか、母は毎日そのマグカップでコーヒーを飲んでいた。やっぱりこれで飲むコーヒーが一番ね――そう言ってわたしに笑いかける母。そうやって、おいしそうにコーヒーを飲む母の姿は、今でも目を閉じれば鮮明に思い浮かべることができる。

 取手の折れたマグカップは、いったいどうしたんだっけ?


「依子おばさん、いつから君の家に?」コーヒーを飲み干したあと、友兄が訊いてきた。

「引っ越した当初からだったと思う」わたしは口の端にひとさし指をそえると、上に視線をやってから言った。

「依子さん、今も来てるの?」

「うん」

「じゃあ、君は引っ越した当初から今まで一年半ものあいだ、依子さんを拒絶しつづけたってわけだ」

「だからそうだって言ってるじゃない」わたしは顔をしかめて、こめかみを掻いた。彼のこういったおせっかいも、彼のいいところではあるのだろうけど、今のわたしには正直うざったかった。

 依子さんがひとり暮らしのわたしの家へたまに立ち寄るようになったのは、引っ越して二日目からだった。それを毎回追い返すわたしの気苦労も察して欲しいものだ。

 カナメさん、食事はどうしてるの? 洗濯の仕方はわかる? 生活に困っていないの? 困ったことがあったらいつでも言って――。

 玄関さきでそう口にする依子さんを、わたしはことごとく突き返した。もちろん、それでいい気なんかしない。突き返すたびに、自分が嫌な女だと思い知らされる。だけどわたしには、彼女を受け入れることができなかった。今のこの家は、わたしの唯一の居場所だった。彼女に足を踏み込ませて、神聖なわたしだけの空間が犯されることを恐れたのだ。それでは、わたしが実家から逃げてきた意味がない。これ以上、彼女にわたしの場所を奪われるのはごめんだった。

 正直、生活には困っていた。洗濯や掃除といったものは、慣れないなりに要領を得たのだが、食事に関してはコンビニの弁当に頼るしかない生活だった。出費もかさむし、なにより栄養バランスが偏ってしまう。自分で料理の参考書を買っては、自炊に挑戦してみたけれど、なんとも要領を得なかった。参考書のとおりにやっているつもりなのに、どうしてもうまくできないのだ。なにをどう間違っているのかもわからなかった。

 そんなとき、また依子さんは家に来た。わたしはいつものように彼女を突き返した。彼女が帰ったのを確認して玄関を開けると、決まってその扉の取手に買い物袋がつりさがっていた。中にはいつものように、野菜やお惣菜などの生活に欠かせないものが入っていた。これらのものには罪はない。わたしはそれを持ち帰るとリビングで中のものをたしかめた。

 食材や洗濯洗剤に紛れて、一冊の冊子と、大学ノートが見あたった。いつもはこんなもの入っていない。

 料理の雑誌と、手書きのレシピだった。

 大学ノートには依子さんが書いたと思われるレシピが、細かく書き綴られていた。かんたんな絵なんかも描きそえられ、料理の手順のコツなどがわかりやすく書かれてあった。わたしは関心した。

 自分がどこをどう間違っていたのか、すぐに要領を得た。そして、料理をする工程でどうするべきかがわかりやすく頭に入ってくるのだ。わたしはびっしりと大学ノートに書き込まれたレシピを、何時間もリビングで熟読していた。

 はっと我に返ると、わたしは大学ノートをテーブルの上に放った。不覚にも、時間を忘れるほどにレシピに食い入ってしまった自分に恥じ入った。そのまま自室に入ると、勉強をした。中間テストが近かったからだ。ところが勉強をしている最中もレシピのことが頭から離れなかった。ふと気がつけば、勉強ノートにパスタの材料をメモしていた。

 その日わたしは、大学ノートを片手に料理をつくっていた。

「一度くらいは入れてあげたらいいのに」友兄は眉間にしわを寄せて言った。

「考えとくわ」そう言ってわたしは、コーヒーを飲み干した。でもしばらくは、彼女を家に招き入れることはないだろう。家にはトトがいる。もう父を入れたときのあのひやひやとした緊張感はこりごりだった。

「そういえばさっき、所轄がどうこう言ってたけど、所轄ってスバル隊のこと?」空になったコーヒカップをテーブルに置いて、わたしは訊いた。

「そうだけど、それがどうかしたのかい?」

「どこにあるの?」

「それは言えない決まりだってカナメちゃんも知ってるだろ?」

 まあね、とわたしは答えた。どこかから情報が漏れ、直接怪人から襲撃されるのを防ぐために怪事警察署の場所は一般にはわからないようになっている。

「まあ、べつにいいけど」わたしは空のカップの中で、ティスプーンをくるくるとまわした。「所轄とか役職もそうだけど、怪事警察ってどこまでも警察に似せてるよね」

「それは警察という組織システムが、洗練されていて確立していたからだろう。それに添うように怪事警察は立ち上げられたというわけさ」

 ふうん、とわたしは不承にうなずいた。「それなら、始めから警察の部署に怪事課っていう部署を設けたほうがよかったんじゃない? 別の組織として確立する必要があったのかしら」

 友兄は目を丸くして顔を上げると、「おどろいたな」と言った。わたしがそれに指摘したことにおどろいているようだが、こんなことはだれでも気づいていることだ。

「怪事警察がもともと自衛隊だったことはカナメちゃんも知ってるだろ?」

 わたしがうなずくと、彼はそれを確認してからつづけた。

「カナメちゃんは、なぜ警察が怪事に関わらず、自衛隊が怪事警察と名前を改名したのかを知りたいんだね?」

「まあね」

「知ってると思うけど、僕やカナメちゃんの生まれるまえ、怪人がこの国にいなかった時代、この国には自衛隊という機関があったんだ。戦争を放棄したこの国には軍を持つことができなかった。だけどそれじゃあ有事のさい、この国が諸外国から侵略を受けたとき、ただ指をくわえて見ているしかできない。そこで立ち上げられたのがこの国の防衛機関の自衛隊だ。しかしこの国で有事なんてそう起こりうるものでもなかった。この国には巨大なアメリカのうしろだてもあったしね。しだいにこの国のひとびとは自衛隊の存在意義に疑問を持ち始めたんだ。自衛隊にかかる税金は莫大なものだったからね。自衛隊の防衛システムにも欠点が多くみられていた。実際有事に出くわしたとしても、いろいろな法の縛りで自衛隊は思うように動くことができなかったんだ。それらの縛りをひとつひとつクリアする余裕なんて有事のさいにあるわけもない。そんなことをしているあいだに有事はことごとくこの国に襲いかかる。この国はなにもできないままことの情事を指をくわえてみているしかできないんだ。そんな自衛隊の在り方に国民の不安がふくらんだとき、この国に怪人があらわれ始めたんだ」

 怪人の出現も、この国の有事に関わることだったからね、と彼はつけ足した。

「それで、怪人からこの国を防衛する機関として、存在意義に疑問を持たれていた自衛隊を怪事警察と改名したのね」わたしは言った。

 彼はそのとおり、と指を立てにしてうなずいた。

 腑に落ちなかった。そんなことは、学校の授業でも習って知っていることだった。ひょっとしたら、彼からはなにか違う答えを引き出せるかもしれないとわたしは思っていたのだ。しかし彼から聞き出せた答えは、教科書どおりの解答だった。

 自衛隊が怪事警察として確立されたのは、彼の言ったとおりの理由で充分だった。しかしどうにも腑に落ちない。わたしには、それだけが理由だとはとても思えなかった。もしそれだけでなかったとしても、彼はその理由を本当に知らないのだろうとわたしは思った。

「ただ」と彼は言葉をつけ足した。「僕自身、カナメちゃんが言ってたように、怪事警察が警察の一部の部署であったらと思うことはあるよ」

「どうして?」とわたしは訊いた。

「怪事警察と警察のあいだで、よくぶつかるんだ。管轄のせめぎ合いさ。死人が見つかった時点では、それがひとによる殺人か怪人によるものかがはっきりしないことがあるからね。怪人の仕業に模倣したひとによる殺人事件だってある。またこれはおそまつなことなんだが、怪人があらわれた現場に専用バイクで向かおうとしていた隊員が、スピード違反で警察に捕まったなんてこともあるんだから」

 やれやれ、といったふうに彼は大きく溜め息を吐いた。

 スピード違反で警察に捕まったヒーローの姿を想像すると、おかしくて笑いが込み上げた。そうなんだ、とわたしはゆるんだ頬を腕で隠した。

「いや、笑いごとじゃないんだから」彼は弱ったように首のうしろを掻いた。「怪人が出た有事のさいは、怪事警察には、いろいろと法的に免除されることが多いんだ。交通違反にしたってそうさ。本来、怪事警察がスピード違反で捕まるなんてことはないんだよ」

「じゃあ隊員を捕まえた警察は、それを知らなかったの?」

「知らないわけないさ」

「じゃあどうして?」

「腹いせだよ」と彼は言った。「さっきも言ったとおり、殺人事件なんかでは、よくお互いぶつかり合っていてね、ふたつの組織は犬猿の仲なんだよ。怪事警察は有事のさいはいくつかの法は免除されるけど、それを悪用するようにプライベートでやりたい放題の怪事警察の隊員も少なくないしね、本当に頭が痛いよ。怪事警察の隠蔽も、ほとんどがそんなものだったりするし、これはカナメちゃんも知ってることだろ?」

 ふいに隠蔽のことで同意を求められて、わたしは動揺した。隠蔽の詳細などわたしはなにひとつ知ってはいなかったからだ。コーヒーカップの中でからからとスプーンをまわし音をたてて「そ、そうね」とわたしは不器用に相槌をうった。

 怪事警察の隠蔽の内容も、ふたを開けてみればなんとも拍子抜けするものだった。もちろん、これだけが隠蔽のすべてではないだろう。でなければ、これだけのことで彼がわたしの頼んでいたものを調達するとは思えない。もっと重要ななにかを怪事警察は隠しているに違いないのだ。それが怪事警察の立ち上げに深く関わっているとわたしはふんでいたのだが、けっきょくのところなにもわからない。

 それを知ったところでわたしになにができるというものでもないが、怪人と人間がともに暮らせる方法を考えると、知っておくに越したことはないと思っていた。

「それで、持ってきた手帳は?」わたしは顔を上げて訊いた。

「ちょっと待って」と言って友兄は、足もとに置いてあるショルダーバッグをテーブルの上に置いた。彼はバックの口を開けると、中から手帳を取り出した。「はい。本当に悪用したらだめだよ」

 わたしはそれを受け取ると、手帳を開いて中を確認した。

 手帳の証明写真には、二十代前半の男性の顔写真が写っている。知らない男だ。住所はわたしの実家になっている。名前は、宮沢春樹(はるき)――それは、身体障害者手帳だった。

 障害の病名は光線過敏症。日光過敏症ともいう。日光を浴びた皮膚に紅斑(こうはん)や発疹ができる症状の病気である。直接日光を浴びない部位はその症状を引き起こすことはない。

 この病気に対し身体障害者手帳が発行されるかどうかは、実際にはわからない。しかしその面にわたしは対してこだわらなかった。手帳を専門に詳しい人物に見せるつもりもなかった。もしトトを外に連れ出したさい、彼の格好に怪しむひとがあらわれたら、ちらっとこの手帳を見せれば納得するはずだと思ったのだ。始め、色素性乾皮症しきそせいかんぴしょうという病名にしようとも考えたが、これは日光にあたると細胞が癌を発症し非常に危険で死に至る病なので、その患者を外に連れ出すのはあまりにも無謀だと考えを改めたのだった。

「ありがとう。理由は訊かないでくれると助かる」わたしはおずおずと彼の顔を覗きこんだ。

「そうするよ」と友兄は答えた。

「でもこんなもの偽造してつくってみせるなんて、怪事警察は本当に裏でなにをやってるの? とても正義の味方であるヒーローの所業とは思えないわ」

「もう勘弁してくれよカナメちゃん」彼はこめかみを指先で掻いた。「僕も理由は訊かないって約束したんだし、それも早くしまってくれないかな。今だって気が気じゃないんだから。僕が小心者だって知ってるだろ?」

「ほんとに情けないヒーローね」そう言ってわたしは、足もとのバックを持ち上げると、中に手帳を入れた。

「情けないなりに、カナメちゃんの力になれたのならうれしいよ」

「まあ、感謝してるわ」

「それと、力になれるかどうかわからないけど、カナメちゃん、怪人についていろいろ知りたがってたよね?」彼がうかがうようにわたしに訊いたので、「そうだけど」とわたしは答えた。だけど彼はそれについて、なにも知らないはずだった。

「僕にはわからないけど、有力な情報を知っているひとから、カナメちゃんに会って話してもいいってひとがあらわれたんだ」

「ほんとに?」わたしは身を乗り出した。

「ああ。足蹴にされると思ってただけに、さすがに僕もおどろいたよ。今だに僕も信じられないけど、彼はとても大物なんだよ。今は引退しているけど、もとは名のある政治家だったひとだ。彼は今では数少ない怪人誕生の実験にたずさわっていた人物のひとりだよ」

 へえ、とわたしは唸りをあげた。「そんなひとがわたしに?」

「これを言うとカナメちゃんはいい気がしないだろうけど、お父さんの名前の影響は大きいと思うよ」

 ああ、なるほどね、とわたしは彼に理解を示した。しかしそれでも怪事警察の官僚の娘というだけで、もと大物政治家がわたしなんかに会ってくれる気になるだろうか。

 そんな疑問を抱いていたわたしを察してか、友兄は話をつづけた。

「名前はカナメちゃんも聞いたことあるだろうと思うけど、彼の名前は篠塚匡章(しのつかただあき)。むかしは政治に大きな影響力をもった政治家だった。彼は、今は政治に少しも関わらろうとせずに余生を楽しんでいるらしいんだ。未だに彼の発言はこの国に大きな影響力を持っているんだけど、彼自身はもう政治というものに飽きてしまったらしく、自分に歩みよるものには私に政治の話を持ち込むな――と凄むらしいよ。そのことから察しても、彼は政治に飽きたというより、嫌気がさしたのかもしれないね。現役の彼を知ってるひとから見れば、今の篠塚さんはまるで別人のようだそうだ。僕がどうして彼女の話を聞く気になったんですか? と尋ねてみれば、残り短い余生を楽しむなかに芽生えた、ほんの少し気まぐれだよ――と彼は答えたよ」

 篠塚匡章の名前はわたしも耳にしたことがある。友兄が言うとおり大物の政治家だった。その彼が、わたしの話を聞いてくれたとしても、はたして本当のことをしゃべってくれるのだろうか。しかしたとえそれが彼の気まぐれであったとしても、この機会を逃すわけにはいかない。

「いつ会えるの?」わたしは訊いた。

「向こうはカナメちゃんの都合に合わせると言ってるよ」

「そういうわけにはいかないわ」わたしは小さくかぶりを振った。「大事な話の最中に用事ができたんでって、急に抜けられても困るもの。できれば向こうがなにも予定のない、都合のいい日を指定してほしいんだけど」

「そうだね。そのほうが向こうとしても都合がいいかもね」彼はテーブルに両肘をついて手を鍵上に組むと、そこに顎を乗せた。「わかった。先方にはそう伝えておくよ。それでお互いの都合が合った日に面会する。それでいいかい?」わたしの目を見つめた。

「それでいいわ」とわたしも彼の目を見つめてうなずいた。

 友兄は深く長い吐息を吐いたあと、「君が怪人について深く知りたがってる理由も、僕は訊かないほうがいいのかい?」と尋ねてきた。

「できればね」とわたしは苦笑した。「でも、自分の親類が怪事警察の人間なんだもの。それに深く関わる怪人について知りたいと思うことはおかしいことかしら? 自然なことじゃない? わたしとしては、なにも知らないでヒーローやってる友兄の神経が信じられないわ」

「たしかに、そのとおりだね」と言って彼は唸った。「だけど、僕もそれにまったく疑問を持っていないわけじゃないんだ。ただ軽く疑問を口にできることでもない。怪事警察のなかでは特にね。みんなその疑問に気づきつつ、気づかないふりをしているふうでもある。それを軽く口にできない重い空気というものがあるんだよ」

 友兄の言う心境は理解できなくもなかった。わたしもその重い空気を感じることは今までに多々とあったのだ。

 それだけに、と彼はつづけた。「篠塚さんにこのことを話しつけるのに、相当苦労したんだから」

 その言葉と彼の表情には、苦労の層がにじみ出ていた。

 彼の気苦労を察して、わたしは素直な気持ちを口にした。「本当に感謝してる。ありがとう。友兄しか頼れるひとがいなかったの」

 友兄は口をあんぐりと開けて、めずらしいものを見るような目でわたしを見つめた。

「いや、このくらいの苦労、まったくかまわないよ」そして、なんども小刻みにうなずいてみせた。「カナメちゃん、最後の言葉がじんと胸に響いたよ。その部分だけもう一度言ってくれないかい?」

「ばか」とわたしは口をとがらせてそっぽを向いた。素直に礼を言えば、すぐに友兄はこうやってつけあがるのだ。

「ひどいなあカナメちゃん」と彼は後頭部に手をやり苦笑した。

 くすっ、とわたしは笑みをこぼした。「ほんとにばかね。友兄って」

 ははは、と白い歯を見せて彼が笑う。わたしは口もとにこぶしを縦にして笑った。なんだかくすぐったい気分だった。彼とこうやって笑い合うことも、ずいぶんひさしぶりな気がした。

「むかしのカナメちゃんに戻ったみたいだ」

 彼は笑みの余韻を残しつつ、そうつぶやいた。

 えっ? とわたしは彼を見つめた。

「むかしのカナメちゃんは、いつも笑顔を絶やさないで太陽みたいだった。その笑顔を見るのが僕は好きだったし、カナメちゃんの友だちもそう僕に言っていたよ。中学生のころ、よく友だちを家に連れてきただろ? その()らが言うんだ。わたしたちのカナメちゃんの笑顔を曇らせるようなことしたら、許さないんだから――てね」

 わたしのなかに、なにか込み上げてくるものがあった。彼女たちが、そんなことを友兄に言っていたなんてぜんぜん知らなかった。中学生のころのわたしは、そんなに笑顔を絶やさない人物だったのだろうか。

 そうだった気もする。母が家にいたころは、毎日が楽しくてしかたがなかった。母が入院してからも、辛い気持ちを悟られないように、笑顔を絶やさないようにしていた気がする。

 いままでいいことなんかひとつもなかったと思っていた。だけどあのころのわたしの日常は、とても幸せなものではなかったのか――。

 あのころはそれがあたりまえだっただけに、気づきもしなかった。いや、その気持ちを忘れていたのだ。

 中学生のころのわたしは、たしかに幸せを実感していたはずだった。

「最近、なにかいいことがあったのかい?」彼が訊いてきた。

「どうして?」

「なんとなく、ね。先週会ったときも思ったんだけど、ずいぶんと険がとれてるなと思ったんだ。君がむかしみたいに笑えるようになったのは、カナメちゃんのまわりでなにかいいことでもあったのかなってね。よかったと思ってる。君にむじゃきでかわいらしい笑顔がもどって」

「だから、そんなお世辞は」従兄妹のわたしに言っても無駄よ、と言おうとして口を閉じた。あれはいつだったか、前にも同じようなことを言われた気がしたからだ。いい笑顔だと言ったんだ。むじゃきで、かわいらしい笑顔だ――。

 そうだ。岸谷先生だ。

 むかしのわたしは友兄と岸谷先生の言うような、いい笑顔を持った人物だったらしい。それが今のわたしにもどろうとしている。理由はあきらかだった。トトに出会ってからだと思った。彼の存在は、わたしが忘れてしまった大切ななにかを思い出させてくれている。

「わたし、むかしみたいにもどれるかな?」思わずつぶやいた。

 胸もとの制服をぎゅっとつかんで、わたしは答えを請うように彼の顔を見つめた。自分のことなのに、それがわからなかった。中学生のころの自分が、まるで遠い存在のように感じられる。あのころの自分が、自分でないような、あやふやな気持ちがあふれる。

「もどれるさ」彼は白い歯を見せて言った。「今だって、僕に笑顔を見せてくれたじゃないか」

 そうだ。さっきだって、自然にわたしは笑えていたのだ。

 もどれるはずよ、そう自分に言い聞かせた。自然と笑えていたあのころに。幸せだったあのころに――。

 わたしは彼に答えるように、笑顔をつくってうなずこうとした。

 しかし、うまく笑えなかった。


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