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 この日、学校での一日はいつもとなんら変わりもなく、わたしは家へ帰宅した。誰とも会話のない、冷たくて、退屈で平坦な日常。

 だけどそれも、家の外だけの話だ。家に帰れば、暖かいわたしだけの家族がわたしを迎えてくれる。わたしの家は、ひとと怪人と子猫が一緒に暮らす、なんとも奇妙な家族の生活する空間になっている。

 退屈な日常に芽吹いた、暖かいわたしの非日常だった。

 このところ、トトはすっかりナナの世話にはまっている。夕飯の支度を整えながら、わたしはナナとたわむれる彼を遠目に眺めた。

 ジグという怪人とトトが戦ったのは、昨日のことだ。今思い出してみても、怪人の憎しみに満ちた目が恐ろしくて、鳥肌が立ちそうになる。それだけに、子猫とたわむれるトトを見ていると、昨日の彼の勇姿がとても信じられなく思うのだ。

 そしてあのとき、なぜジグがあの場から突然姿を消したのか、そのことがわたしの脳裏に小さなシコリを残していた。あのあとトトにいくどか尋ねたけれど、彼はなにもわからないと言うのだ。

 ただ、不吉な予感が拭えなかった。

 ジグが姿を消したのは、わたしとの会話がきっかけだった。彼は、わたしの名前に過敏に反応していたような気がするのだ。どうして? わたしがヒーローの官僚の娘だから? 怪人は、それを知っているというのだろうか――。

「まさか、ね……」わたしはひとり言を呟くと、首を振って夕飯の支度を進めた。

 結果的に、ジグとの話し合いはうやむやになってしまった。だけど、わたしたちにはあれが精一杯だった。彼の人間への憎しみは、たとえ話し合いをつづけていたとしても、わたしたちには到底拭えるものではなかったと思う。

 彼はまた、人間を襲うのだろうか。

 勇助君を救ってやれただけでも、昨夜のわたしたちの行動は無駄じゃなかったはずだ。そう思いたい。

 その日の夕食時、テレビから流れるニュースにわたしとトトは食いいった。

「かなめ」とトトがわたしに視線をなげた。わたしは箸を止めて言った。「うん。勇助君だね」 

 ニュースには、病院のベッドでインタビューを受ける勇助君が写しだされていた。怪人に襲われた生存者として、女性のインタビュアーが彼に質問を繰り返しているのだ。彼は怪人から襲われたとき、だれかに救けられたのだとインタビューに答えていた。

「では、勇助君を助けてくれたのは、どんなひとだったのかな?」インタビュアーはつづけて質問した。

「すっごいかっこいいんだ」と勇助君は答える。「白いヒーロー」

「白いヒーロー?」とインタビュアーはいちど首を捻ったあと、すぐにテレビ用の笑顔をつくった。「スバル隊は、グレーの制服だよ。勇助君」

「僕のヒーローは白いんだ。白銀のヒーロー」

「それは、どういうことかな?」

「ヒーローはヒーローさ」

 といったふうに、まったく噛み合わないやりとりにインタビュアーは苦笑している。

 わたしは、ふふっ、と笑みをこぼした。「トト、ヒーローだって」

「ボク、ヒーローじゃない」とトトは口をとがらせた。ヒーローと呼ばれたことが心外だったらしい。

「トト、今この国では、怪人をやっつけるひとたちのことを、みんなしてヒーローなんて呼んでいるけど、ヒーローってね、それだけがヒーローってわけじゃないのよ。今この国でそう呼んでるひとたちのことは、本当は怪事警察っていうの。ヒーローっていうのはね、英雄って字を書くのよ」

「英雄?」

「そう。英雄」とわたしはうなずく。「英雄っていうのは、だれかにとって災いから救ってくれる存在だったり、世界を守ったり、そういったもののことをいうの。その面では、ひとにとって怪事警察はヒーローなのかもしれないけれど、ヒーローのかたちは、ひとによってみんな違うのよ。少なくともわたしは、怪事警察に救われたことなんか一度もないし、彼らのことをヒーローだなんて思ってないわ」

「でもトトは、ヒーローじゃない」そう言ってトトは、なんとも言えないような表情をつくって、食事を進めた。幼いころから彼は、ヒーローは自分たち怪人の天敵なのだと教わってきたのだ。そんな彼にとって、「ヒーロー」イコール「怪事警察」という概念は、安易に拭いされるものではないのかもしれない。

 そのあと、わたしはなるべくヒーローの話題をさけて会話をすることにした。もっぱら、ふたりの話題の肴はテレビに映る勇助君のことだ。勇助君の話となると、トトは本当に仲のいい友だちのように彼のことを話すのだ。テレビで勇助君が映らなくなると、チャンネルを変えて、彼が映っている番組を見つけては、トトは大変よろこんでみせた。

 夕食を食べ終えると、わたしはトトに片付けを任せて先に風呂に入った。わたしと交代にトトが風呂を済ませると、ふたりでDVDを観ようということになった。

 風呂上がりに、トトとふたりでDVDを観賞するひとときが、今までのわたしの一番のやすらぎだった。そして今は、それにナナも加わっている。毎日、このときが楽しみで仕方ない。

 白いソファーに並んで座り、ふさふさのトトの腕に頭をあずける。すると、シャンプーの爽やかな香りに身も心もわたしは癒される。そしてトトの腕の中で、ナナがあくびをするのだ。ときおり、ころころと、かわいい鈴の音が木霊する。

 そんなふうに、わたしとトトとナナで観賞するDVDは格別だった。幸せな家族を実感できる。このひとときを、永遠に感じていたいと思うのだ。

 しかしそれが、永遠とはほど遠い儚い時間だからこそ、そのひとときを掛け替えのないものとしてわたしは感じているのかもしれない。幸せな時間というのは、いつのときだって儚いものなのだ。

 父が突然家に訪れたのは、そんなときだった。

 インターホンのテレビで父の姿を確認したわたしは、あわててトトにクローゼットに隠れるように言った。玄関にあるトトの靴を下駄箱に隠すと、わたしは玄関のドアを開けた。「いきなり訪ねてくるなんて、どうしたの? 連絡くらい入れてよ」

「自分の娘の家に行くのに、断りが必要なのか?」そう言った父の髪は、白髪が目立つようになっていた。上下にグレーのスーツを着こなしている。堅く、規律を重んじる彼の憮然とした表情と、隙を感じさせない佇まいにわたしは威圧される。それで、いつも言いたいことを言えなくなる。「とりあえず、あがれば」とだけ言って、わたしは父をリビングに通した。

「猫、飼いはじめたのか」父はクローゼットを前足で引っ掻くナナを見るなり言った。クローゼットの中にはトトがいる。わたしはあわててナナを抱いた。「そうよ。この子、足を怪我していたし、かわいそうだったもの」そのままキッチンへと向いながら、父へと振り返る。「適当に座ってて。コーヒーでいい?」

「かまわんでいい」そう言って父は、ソファーの向かい側に腰を降ろした。いつも、トトの座る場所だった。

「そういうわけにはいかないわ」キッチンでナナを降ろすと、わたしはコーヒーを淹れる準備をした。キッチンカウンター越しに父に尋ねる。「で、急にどうしたの?」

「私が娘の家へ来てはいけないのか?」

 わたしは吐息をつくと、「そうじゃなくて」と言ってカップにお湯を注いだ。「今まで、まったく顔を出さなかったのはお父さんじゃない。急に訪ねてこられてびっくりするのは当然でしょ」

「この地域で怪人が頻繁に目撃されている。親が娘の心配をするのは当然だろう」

「なにを今さら……」

「なにか言ったか?」

「べつに、なにも言ってない」わたしは父のもとへ向かうと、テーブルにコーヒーカップを置いた。「ご心配なく、わたしはこうして元気にやってます」

「とにかく、お前も座ったらどうだ?」

 父にそう言われ、わたしはソファーに腰かけた。それから、重苦しい沈黙がつづいた。居心地がわるい。もともと父は、口数が少ないほうだ。わたしはわたしで、父に話すことなんかひとつもないから、必然とこうなる。

 わたしはじっとテーブルを見つめていた。まるで、父に説教をされている気分になる。ふと、自分が正座をしていることに気づいた。

 コーヒーから立ち上る湯気をぼんやり眺めては、わたしは気まずい空気をやりすごす。

「ところで」と先に口をついたのは、父のほうだった。「学校にはちゃんと行っているのか」

 父が家に訪ねてきたのは、これが本題だろうとわたしは思った。

「ちゃんと行ってるわよ。勉強もしてるし、成績だって落ちてない」

 それがひとり暮らしの条件だった。学校に行くのは億劫だったけれど、友だちがいないわたしにとって、勉強して成績を維持するのは困難なことではなかった。みんなが遊んでいるときに、ただ黙々と勉強すればいいだけだ。

 わたしはあからさまに溜息を吐くと、「ちょっと待ってて」とぶっきらぼうに言って、自分の部屋から成績表を持ってきた。それをテーブルの上に置いた。「自分で確かめて見れば?」

 父は黙って成績表を眺めた。やがて静かに成績表をたたむと、彼はそれをテーブルに戻した。「たしかに」

「それだけ?」わたしは訊いた。もやもやとした感情が腹の底で広がっていた。父が首をかしげたので、わたしはもう一度訊く。「それだけなの?」

「なにがだ?」

「久しぶりに娘の家に来て、成績をたしかめたかっただけなのって訊いてるの」

「それが、いけないことなのか?」

 やっぱり、とわたしは思った。父の神経が信じられない。このひとは、わたしの質問の意図をなにもわかっていない。

 それが、いけないことなのか――? 違う。わたしが言っているのはそんなことじゃない。論点がずれている。どうしてわからないの?

「もっとほかにないの? わたしは正月にも実家に帰らなかったのよ。わたしがひとり暮らしを始めて、もう一年半経つけど、お父さんはこの家には二回しか顔を見せてないじゃない」

 わたしはわざと、正月にも実家に帰らなかった。高校生であるひとり娘が、正月に家に帰らないことは異常なはずだ。

 父が少しでも親の愛情を持っているのなら、それを心配するのがあたりまえだ。叱るのが普通なのだ。

 ところが父は、見当違いの答えを出した。

「正月に家に帰らなかったのは、お前が望んだからじゃないのか? 帰ってきたければ、そうすればいい。私はお前の望んでいるようにしているつもりだが」

 わたしは絶句するしかなかった。父は本気で言っている。彼は言葉に出して言わないと、自分の娘の気持ちがまったくわからないのだ。

 わたしが正月にも家に帰らなかったことに対し、父はわたしを叱りつけるだろうと覚悟していた。学校や、成績の低下といった世間の目に対してではなく、わたし自身のことへの心配から――叱ってくれると、そう思っていた。

 ところが父はそうではなかった。彼はたったひとりの娘を心配するどころか、叱りつけてもくれない。

 わたしは、このひとのなんなんだろう――。

「それに」と父はつづけた。「私も仕事がいそがしい。この町に寄ったのもそのついでだ」

 わたしは目を()いて父を見た。「ついでって……」

「いや、言い方がわるかったな。むろん、お前のことも心配はしている」

「とってつけたようなこと言わないで……」わたしは奥歯を噛んだ。ぎりっ、と音が聞こえてきそうだった。「仕事仕事って……わたしはそのついで? それが本音でしょ。あなたにとって、わたしはあなたの仕事の邪魔者なわけね。だから、仕事のついででなければ顔を見ようとも思わない……」膝の上で、こぶしをつくる。

 この男に、少しでも親の愛情を求めた自分が恥ずかしい。そんなもの、もう二度と求めるもんか。こいつの愛情なんて、いらない。

 すぐに、あからさまな父の溜め息の音が聞こえてきた。それが尚もわたしをいらつかせた。

「カナメ。娘を心配しない親はいない。だが仕事がいそがしいのも事実だ。お前ももう子供じゃないんだ。わかるだろう」

「気安く名前を呼ばないで……」わたしは父を睨みつけた。「ヒーローの仕事がそんなに大事? ひとびとを守るのがそんなに大事? そのためだったら、家族のことなんかどうだっていいっていうの?」

「いいかげんにしろ。だれもそんなこと言っとらんだろう」父はまったく動じることなく、冷静にわたしにそう言った。

 父にはなにを言っても無駄だと思った。彼には昔から家族を想う気持ちが欠如している。そんなやつが、この国の平和を守っているなんて、お笑いぐさだ。

「ねえ……怪人ってなに?」わたしはうつむき、ぽつりと呟くように訊いた。自分で驚くほど重苦しく、低くくぐもった声だった。

 わたしの脈絡のない問いかけに、父は眉をぴくりと動かした。「どうしたんだ? 突然」

「なんで怪人はひとを襲うの? なんで人間を憎んでるの?」わたしがそう訊くと、憮然と父は答えた。「それが、怪人の習性だからだ」

「うそよっ」とわたしは吐き捨てるように言った。「知能のない動物だったら、そう言われても納得いくけど、彼らにはひとと変わらない知能があるし、言葉だって交わせる。本能や習性で、ただ闇雲に人間を襲うなんて低俗すぎるわ。望んでひとを殺す怪人がいるのもたしかかもしれないけど、それは人間だって同じじゃない。人間だって、憎しみで人間を殺すわ。逆に、ひとを襲わない怪人だっているかもしれない。怪人が憎しみで人間を襲うのだとしたら、どうして怪人は人間を憎むの? 人間は、怪人にいったいなにをしたの?」

 父は黙ってわたしの話を聞いていた。やがて彼は、またあからさまな溜め息を吐くと、「母さんと、同じことを言うんだな」と言った。わたしは顔も上げず、険のある口調で訊いた。「どっちの、お母さん?」

 父は顎をさすって咳払いをひとつすると、「産みの母さんだ」と重苦しそうに答えた。今日初めて、彼の感情が垣間見えた気がする。「母さんも昔、同じようなことを言っていたよ。やはり親子だと言うべきか」

「よかった」とわたしは嫌味を込め、あからさまに吐息をついた。「もし、わたしとあのひとが同じようなこと考えてたら、おぞましくて身の毛がよだつわ」

「そんな言い方をするんじゃない」父は呆れたように言った。「無理に母さんと呼べとは言わんが、今はお前のれっきとした母親だ。あれはいつも、お前の心配ばかりしている。あれにとっても、お前はかけがえのない娘なんだ」

「やめて。わたしにとって、お母さんはひとりだけよ」

「カナメッ」と父は、叱りつけるような顔つきでわたしを見た。だけどわたしは動じない。許せなかった。あのひとをかばう父が。お母さんを見捨てたくせに、と思った。お母さんは、ずっとお父さんのことをかばっていたのに――。

 わたしは頬を引きつらせて、精一杯の悪態をつく。「どうせあのひとが病気で苦しんだとしても、お父さんはまた仕事で放っぽりだすんでしょ?」言いながら、嫌な女だなと思った。

「いいかげんにしなさいっ」

 部屋に響きわたる、けたたましい怒声だった。

 その威圧感はすさまじく、わたしは身を萎縮させて両目をきつく閉じた。厳格な父にすごまれると、わたしはいつもなにも言えなくなってしまう。

 それでも、ずっと押し殺していた感情をわたしは止められなかった。わたしがずっと、正月でさえ実家に帰らなかったことを心配するどころか、叱りつけさえしなかった父。その父が、あのひとのこととなると怒声をあげてわたしを叱りつけるのだ。

 ふざけるな、と思った。

 言わないとわからないのだ。父は、わたしのことも。お母さんのことだって――。

「だってそうじゃないっ。なにがヒーローよ。ひとびとを守っている? ふざけないでっ。お母さん、ずっと病院で待ってたの。死ぬ直前まで、お父さんのことをずっと待ってたのよっ」わたしはパジャマのズボンを握りしめた。涙が出そうになった。それでも、両目をきつく閉じて思いのはけを叫ぶ。「それでもっ、お母さんが最後に呼んだ名前は、あなたなのっ。わたしじゃなくて、あなたなのよ……お母さんの最後も看取ってやれないで、家族すら守れないで……なにがヒーローよっ。そんなひとが、みんなを守れるわけないじゃないっ」歯をくいしばって、両膝の上につくるこぶしを見つめた。

 父がどんな表情をしているのか、わたしにはわからなかった。ただ彼は、なにも言わなかった。また重苦しい沈黙が流れる。

 もう、いやだ。

 もう父と、同じ空気さえ吸っていたくない。

「出てって……」うつむき、父の顔も見ずにわたしは言った。「出てってよっ」

 父は、依然としてなにもしゃべらなかった。

 やがて、父はなにも言わずに立ち上がった。そのままわたしを横切って、彼は玄関に向かった。わたしはうつむいたまま、奥歯を噛んでいた。父の顔を見たくなかった。背後から、リビングのドアの開閉の音がした。

 テーブルには、湯気を出さなくなったコーヒーカップがある。

 わたしはそれを、父の今閉めたドアに向かって投げつけた。ばりん、と不快な音がリビングに響いた。コーヒーカップは、中身を散らして砕け散った。

 ナナがその音に驚き、ドアに向かって毛を逆立て威嚇している。ドアの前には、カップの破片と、コーヒーが巻き散っていた。

 コーヒーは、ひと口も飲まれてはいなかった。

 どうして、こんなになってしまったんだろう。

 いつからわたしの家族は、壊れはじめたのかな――肩で息を整えながら、ふとそんなことを思った。

「トト……もういいわよ、出てきて」ソファーでうつむき、項垂れるままにわたしは言った。

 トトは静かにクローゼットを開けると、なにも言わずわたしのとなりに腰を降ろした。わたしは彼の肩に頭をあずけた。沈黙がつづいた。だけどそれは、父のときとは違い、心地いい沈黙だった。

「なにも……訊かないのね」トトの肩に頭をあずけたまま、わたしは呟いた。

「あの中で、いろいろ聞こえた。いろいろで、頭いっぱい。どれを訊いていいか、ボクわからない。でも――」

「でも?」

「でも、それよりも、カナメ、辛そう。ボク、そばにいるしか、できない」

「ありがとう」とわたしは目を閉じて言った。「それだけで、本当に救われる。トトがいてくれてよかった。でなかったら、わたし……」

 そうでなかったら、わたしは泣いていたと思う。だけどわたしは、あのときに誓ったのだ。父のために、父のせいで、涙なんか絶対に見せない。泣いてやるもんかと。

「ごめんね、トト……黙ってて……」

「なにを?」

「聞いてたんでしょ? お父さんがヒーローだってこと……」

「カナメは、気にしなくていい。カナメのお父さん、ヒーローでも、ただの人間でも、変わらない。見つかれば、怪人は、許されない」

「黙ってたこと、怒らないの?」トトの肩から頭を離して、わたしは彼の顔を覗き込んだ。

「カナメのお父さん、ヒーロー。それは、おどろいた。だけど、カナメがヒーローじゃなくて、ボクの友だち。それだけでいい」

「本当に、トトはやさしいのね」そう言ってわたしは、両手をカギ状に組んだ。わたしも、彼に家族のことを話そう。そう思った。「わたしのお母さんも、本当にやさしいひとだった。今のお母さんはね、わたしの本当のお母さんじゃないんだ。わたしの本当のお母さんは、わたしが中学生のときに死んじゃったの。お父さんね、病気のお母さんのお見舞いにも来なかった。お父さんにとって……お母さんって、なんだったんだろう――」

 家庭をかえりみず仕事に明け暮れる父は、次第に家に帰ることも少なくなっていった。母が病気で入院しても、最低限必要な手続きを済ませただけで、彼は一度も見舞いにも来なかったのだ。

 母が入院してからというもの、家にはわたしと家政婦のふたりだけの日々がつづいていた。

 わたしの、中学生のときだ。

 わたしは毎日、母の見舞いに顔を出した。その日のできごとや、学校の友だちの話、陸上の部活の話――母が退屈しないように、いろいろな話を聞かせてあげた。

 それに対し母は「あらあ」と言ったり、「そうなの」と言っては、いつもやさしい笑顔をわたしに向けてくれるのだ。それがうれしくて、わたしはいつも母に聞かせる話題づくりに精を費やした。

 わたしは一度も見舞いに来ない父のことで、母に恨みつらみをならべたが、母はいつもそんな父のことをかばっていた。彼はたくさんのひとの命を抱えているのだと、わたしにそうやさしく(さと)すのだ。

 そうした日々がつづくうちに、いつのころからか、母は父の話をするたびに、「仕方ないわ」を言葉の最後につけたすようになった。

 仕方ないわ――それが、母の口癖になっていた。

 そのことに、母は気づいていたのだろうか。

「仕方ないわ」そう言うことで、自分があきらめてしまっていることに、母は気づけていたのだろうか。

 わたしは知っている。

 母がわたしに笑顔を向けていたそのときであっても、彼女はときおり寂しそうに窓の外に目を向けては、来ない待ちびとのことを想いつづけていたことを。

 わたしは、母にそんな顔をさせる父が許せなかった。だから母が寂しい顔をしなくて済むように、わたしは必死になって明るい話題づくりに躍起になった。

 だけどわたしは、気づいてしまったのだ。

 わたしでは、母を心から笑わせることができないのだと。

 母がいつも心待ちにしているのは、わたしではなく、父なのだと――。

 それでも、わたしは母の見舞いに毎日顔を出した。わたしが母の寂しさを埋められなくてもよかった。ただ、わたしが母に会いたかったのだ。

 わたしじゃ無理だからと、母の寂しさを少しでも埋められるのならと、わたしは父に毎日なんども電話した。彼は決まって「忙しい」と理由をつけては電話を切った。わたしがなんども電話をするものだから、父は次第にわたしからの電話に出ることさえなくなった。

 母の危篤を知らされたのは、中学校での昼休み中のことだった。わたしは、中学二年生になっていた。

 わたしは急いで病院に駆けつけた。息を切らして病院の玄関をくぐると、わたしは看護師に連れられて待合室に案内された。母は集中治療室にいるのだという。非常に厳しい状態だと看護師は言った。病院は父にも連絡をとろうと試みたが、つながらなかったらしいのだ。

 待合室の黒い長椅子に座っているのは、わたしだけだった。

 わたしはなんども父に電話をした。これが最後だと思った。母が父に会えるのは。これが最後なんだ――。

 だけど、電話が父につながることは一度もなかった。

 やがて看護師がわたしを呼んだ。「お母さんの言葉を聞いてあげて」と、看護師はわたしにそう言うのだ。その看護師の声色と表情で、ああ、お母さんはもう助からないんだ――とわたしは、母の最後を子供ながらに悟った。

 わたしは看護師のあとをついて行った。薬品の匂いのたちこめる廊下も、天井に剥き出しに伸びているパイプも、母へとつづくその道が、全てがゆがんで見えた。

 看護師は集中治療室とプレートの貼られたドアの前で立ち止まると、そのドアを開けた。そこには、酸素ボンベをつけられ、静かにベッドに横たわる母の姿があった。シーツには、母が吐血したものだと思われる真っ赤な血が広がっていた。

「お母さん……」口を両手で覆うと、わたしは震える足を引きずるように母のもとへ向かった。母はうつろな目をしていた。

 わたしに気づいた母は、重そうに手を口もとまで動かすと、酸素ボンベをはずした。

 そして、笑みを浮かべたのだ。

 口のまわりを自分の血で染めながらも、またしても母は、わたしにやさしく笑いかけるのだ。

 そのとき、ずっと押しとどめていたなにかが、わたしの涙腺をはげしく刺激した。どうして、と思った。こんなときにまで、どうして笑っていられるのよ――。

 わたしは崩れ落ちるように膝をつくと、両手で顔を掻きむしるようにして泣きじゃくった。

 そのとき、母のくちびるがわずかに動いたのがわかった。母がなにかを訴えかけようとしている。そう思った。聞いてあげなきゃ。お母さんの最後の言葉、聞いてあげなきゃ――母の口もとに耳を寄せた。「どうしたの? お母さん」

 消え入りそうな、細くかすれた声がした。

 ケンゾウさん……。

 それが、母の最後の言葉だった。

 母が最後に口にした言葉は、父の名前だった。母は息を引き取る最後まで、父のことを待っていたのだ。

 けっきょく、一度も見舞いに来なかった父のことをわたしは恨んだ。だけど、それでもわたしは、母が愛した父のことを、心から憎むことができなかった。ときおり、父のヒーローの仕事に疑いを持つようなことがあったけれど、それでもまだこのときは、父の世間からヒーローと呼ばれる仕事に、わたしは少なからず誇りを持っていたのだ。

 母がいつも、わたしに諭してくれたから。

「お父さんは、この国のひとたち、みんなの命を背負っているのよ」

「わたしひとりなんかと、この国ぜんぶのひとたちと、比較なんてできないわ」母は愛する父の仕事を、心から誇りに思っていた。だからわたしも、父の仕事を理解しようと思った。

 父のことを、わかってあげようと努力した。

 父が、母が死んで一年も満たないうちに再婚するまでは――。


「なにがヒーローよっ。あんなの、ヒーローなんかじゃない。お母さんもわたしも、あいつに苦しめられただけよっ。あいつのせいで、家族はばらばらになった。大好きだった田舎のおじいちゃんも、去年死んじゃった。それからわたしは、ずっとひとりぼっちだった。怪事警察がひとびとを救うヒーロー? ふざけないでっ。わたしは一度だって彼らに救ってもらったことなんかない。わたしにとって、ヒーローなんてどこにもいないっ」握りしめた両手を見つめ、わたしは肩を上下に動かした。

 母が死んでから、父は家に帰ることが多くなった。だけどわたしは、父の顔なんて見たくなかった。父の顔を見るたびに、わたしの頭に母の寂しそうな横顔がよぎるのだ。

 それに、父が再婚したあのひとの、よそよそしいわたしへの態度も腹がたった。腫れものを見るような目。機嫌をとるような言葉づかい。そのすべてに、いらだちを覚えた。

 家にいるのが辛かった。

 自分の家なのに、自分の居場所をなくしていた。

 自分が、だんだん嫌な女になっているのがわかった。それも、この家にいるからなんだと思った。わたしは心が荒んでいく自分を恐れた。

 だから、家を出ようと決意した。家を出れば救われると思った。変われると思ったのだ。

 だけど荒みきったわたしには、家から出てみても、友だちひとりとしてつくることができなかった。

 そしていつのころからか、わたしはひとを嘲り、蔑むようになった。そういうのが、中学生のころから自分が一番嫌いなタイプだったはずなのに。そうなりたくなかったから、家を出たはずなのに。

 わたしは、「嫌な女」になっていた。

 また、泣きそうになってくる。わたしは両手をより強く握りしめ、全身をかたくして必死で涙をこらえた。

 すると突然、身体がなにかに引き寄せられた。視界が残像を残して移動すると、身体があたたかいものに包まれた。トトがわたしを抱き寄せたのだとわかった。彼はわたしの背中に片手をまわして、もう片方の手でわたしの頭をやさしく包みこむ。

 そして彼は言った。

「ボクが、カナメのヒーローになる」

 身体の芯に響く声だった。

 もう泣かないと決めたのに、と思った。そんなこと言われたら、泣いてしまうじゃない――。

 自分の顔が、くしゃくしゃになっていくのがわかる。

 わたしは彼の背中に手をまわすと、たくましい胸に顔をうずめた。涙まじりの、みっともない鼻声でわたしは言った。「ありがとう……」

 わたしがこれほど弱い人間だとは思ってもいなかった。トトは、わたしよりもっと酷い目にあっているというのに、彼の心は、こんなにもきれいに澄んでいる。

 そして彼は、ヒーローと呼ばれることを嫌がっていたはずなのに、わたしを励ますために、「カナメのヒーローになる」と、そうわたしに宣言したのだ。

 いつだって、トトはわたしのヒーローだった。

 トトに言われる前から、彼に出会ったあの日、彼が小さな子猫を助けたときから、わたしにとって、トトはかっこいいヒーローなのだ。

 しばらく、トトの胸の中で泣いていた。彼が家族のことを話した夜と、立場が逆になっていた。

 やがてわたしは彼から離れると、パジャマの袖で涙を拭った。

 あのね、とわたしはトトに語りかける。「お父さんはね、ヒーローだけど、怪人と戦ったことは一度もないの。怪事警察のなかでもね、警視監っていって、けっこうお偉いさんなんだ。だから、ひとと怪人がわかりあえるためなら、お父さんを説得したほうが近道かもしれないって、そう思ったんだけど……わたしとお父さんじゃ、基本的な会話もなりたたなかった……」うつむいて、パジャマの袖をいじりなから言った。「ごめんね。少しでもトトの力になってあげたかったんだけど……でもね、まだ宛はあるのよ。だから、気を落とさないで。わたしもトトにとって、ひとりだけでも、トトのヒーローになってみせるんだから」

 するとトトは、ゆっくり首を横に振ると、笑みを浮かべた。「カナメは、はじめから、いつだって、ボクのヒーローだ」

 そっか、と言ってわたしは、足を伸ばして天井を見上げた。「わたしたち、始めから同じこと思ってたんだね」

「カナメ、元気出た。ボク、うれしい」とトトはわたしの頭を撫でた。それが本当にやさしくて、わたしは自然と笑みがこぼれる。「ちょっとお、子供あつかいしないでよ」

 トトは「いい子、いい子」とわたしの頭を撫でつづけた。

 やがて、ころころ、という鈴の音とともに、ナナが彼の膝の上に乗った。それでトトの撫でる手は、ナナの背中に移行した。

「ナナは、トトの膝の上がお気に入りみたいね」わたしは言った。

 彼は笑顔でうなずいた。「ボクは、ナナのおにいちゃんだから」

 そうだったね、と言ってわたしは、ナナの首の下を指の腹で撫でた。しばらく、そうしていた。

 やがて、トトが急に真面目な顔をつくった。「カナメ」と彼はわたしを呼んだ。わたしはなんだろうと思い、首をかしげた。「どうしたの?」

「カナメ、お父さんと仲良くする。できないかな?」

「仲良くって……」わたしは唖然とトトの顔を見た。そして、視線を落とす。「無理よ。トトだって聞いてたでしょ? わたしが仲良くしようとか思う以前に、お父さんはわたしのことなんか、なんとも思ってないの」

「そんなこと、ない。だって、それでも、お父さんは、カナメの、お父さんだから」

「そんなこと言ったって……」

「カナメ……カナメのお父さん、ひとりだけ。親子は、仲良くする。それが、一番いい」

 それはわかっている。でも、どうしようもないのだ。わたしは、父を許すことができないし、それ以前に、父からわたしは愛情を感じとることができない。

 ただ、理解できなかった。トトがなぜそんなことを言うのか。彼にとって、父はもっとも忌み嫌うべきヒーローのはずなのに。

「ねえ、トトはどうしてそんなにやさしくできるの? だってわたしのお父さんは、ヒーローなんだよ? どうして、そんなこと言えるの? 憎くないの?」

「カナメ、勘違いしてる。怪人、ヒーローが憎いんじゃない。人間が憎いんだ。ボク、前にも言った。相手がヒーローでも、人間でも、おなじ。だから、カナメのお父さん、ヒーローでも、やっぱり、人間なんだ」

 怪人が人間を憎んでいることは、昨夜のジグを見て嫌というほど思い知らされていたが、トトに言われてわたしは初めて理解した。怪人にとってヒーローは天敵であるけれど、ヒーローそのものが憎いわけではないのだ。人間が憎いから、結果的に人間であるヒーローも憎いにすぎない。

 しかし根本的に、なぜ怪人は人間を憎むのだろうか。

 わたしは訊いた。「どうして怪人は人間が憎いの? トトはなにか知っているの?」

「それは、いつか、話す」とトトは答えた。それよりも、と彼はつづける。「ボクのお父さん、もういない。話したくても、もう、話せない。だから、カナメと、お父さん、仲良くしない、かなしい……」

 わたしだって、好きで父と仲違いしているわけではない。親子が仲良くすることが、一番いいことなんだってわかっている。それが普通なのだ。

 それでもわたしは、父と仲良くするその普通の方法がわからない。

 どう接していいかがわからない。

 それにやはり、わたしは父の顔を見た途端、なんとも嫌な気分になるのだ。母を見捨てた父に対し、憎しみすら感じてしまう。

 だけど、トトの気持ちは痛いほど伝わってきた。彼にはもう、自分の感情をぶつけられる、父も母もいないのだ。

 まだ幼い彼は、親に甘えることも、泣きつくこともできない。喧嘩だってできない。

 わたしは、トトよりもよっぽど子供だ。

 わたしは吐息を吐くと、「わかった」と答えた。「トトの言うとおりね。でも、もう少し時間をちょうだい。わたし、まだやっぱり、お父さんのこと許せそうにない……」

「ボクに、ことわりなんて、いらない。カナメの自由にする。それが一番いい。ボク、よけいなこと言って、ごめんなさい」

 ううん、とわたしはかぶりを振った。「謝るのはわたしのほうよ。トトから見れば、今の自分が本当に贅沢な立場なんだなってわかってる。どんなお父さんでも、たったひとりの親だものね。ごめんね。トトにはもう、お父さんもお母さんもいないのに……」

「ボクには……」と言ってトトは、ナナの背中を静かに撫で始めた。「ボクには、いもうとのナナと、カナメおねえちゃんがいる」

 それだけで充分だ、と彼は静かに笑った。

 その笑顔に、わたしはいつだって救われてきたのだ。

 わたしは彼に、なにかしてあげられているのだろうか。

 彼の救いになってあげられるのだろうか。

 わたしは、彼のヒーローになれているのだろうか。

 彼にとって、この世界は敵だらけだ。

 だからわたしだけは、彼の味方でいてあげるんだ――。

 このときのわたしは、揺るぎない意思でそう思っていた。


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