10
「人間界に行ったお父さん、帰ってくるの、ボクと、お母さん、ずっと待ってた――」
トトは人間界という言い方をしたが、怪人の住む場所と人間の住む場所が別空間であると言いたいわけではないだろう。ただ彼らのいた場所が、人間から隔離された場所であることは判断できた。
トトの父は、今のトトより少し小柄だったらしい。体毛は白かったが、トトの体毛のように、長いものではなかったそうだ。背中に大きな羽をはやしていたが、空を飛ぶことはできなかった。もっと小柄な怪人は空を飛べるものもいるそうなのだが、ある程度の大きさを超えると、いくら大きな羽があろうと、空を飛び回るのは難しいらしい。母は羽こそはえていなかったが、トトと同じような白く長い体毛で身体を覆っていた。
顔は両親とも、似たようなものだそうだ。ふたりとも、ゴリラの血を受け継いでいるのだろうかとわたしは思った。
トトが暮らしていた場所は、断崖絶壁に囲まれたとてつもなく広い地だという。そこには畑もあり、大きな池があった。トトはよくそこで水浴びをしたらしい。魚の種類はわからないが、トトの父はそこで魚を捕まえては、その日の食卓を彩った。
畑で取れる野菜、大根やじゃがいも、魚に至るまで、そのほとんどが彼らは生のまま食した。
まれに、なんの肉かわからない肉料理が配膳されることがあった。
トトも両親も、それがなんの動物の肉かわからなかったが、彼らはときおり食卓を彩る肉料理に胸をおどらせた。
絶壁には鉄製の扉が数箇所あったが、大きな錠がかかっており、怪人の強大な力をもってしても、それをこじ開けることは不可能だった。
「でも、ボク、ほとんど、地上、出なかった」
彼が寝泊りしていた場所は地下だった。絶壁に囲われた地上より、そこは遥かに広大だった。石で覆われた通路は迷路のように入り組んでおり、用途もわからない部屋がいくつもあった。鍵のかかった部屋さえあった。トトは地上に出ることはおろか、地下の限られた場所以外への行動も制限されていたという。彼以外のほとんどの怪人であっても、それは同じだったようだ。
「今まで、外に出ていった怪人、戻ってきた、いない」
母からそう聞いていたトトだが、父だけは自分のもとへ戻ってきてくれると、そう信じていたという。限られた怪人のなかには、外と怪人が暮らす場所をなんども行き来しているものも、少なからずはいたらしいのだ。
しかしそれは、多くの怪人や父とは目的が違っていた。
怪人が外へ出るには、大きくふたつのことに分けられるのだそうだ。必要な情報、物資を外から調達するもの。そして、人間を、ヒーローを討伐に行くもの――トトの父は、後者だった。
彼ら怪人が、人間を殺すために外へ出るのは、自分の意思とは無関係だった。地位の高い怪人が、命令を下す。ほとんどの怪人はそれに従うしかなかった。
怪人が外を目指す――それは同時に、彼らにとって死を意味するものだった。
「ボクと、お母さん、二年くらい、待った」
しかし、父が彼らの前に帰ってくることはなかった。母はもう、父がここへ帰ってくることがないことを、ずいぶんと前から覚悟しているようだったという。
ある日、父がヒーローの手によって殺されたことが、ふたりに知らされた。それを知らせてくれたのは、みんなからカムイ爺と呼ばれていた怪人だった。白い髭をはやした、ヤギの顔をした怪人である。母はその場で泣き崩れた。
「カムイ爺、お父さん、たのもしかった、言った。勇敢だった、言った。たくさん人間殺した、言ってた」
「ちょっと待って――」わたしはトトの話を制した。「その、カムイ爺は、なんでそんなことがわかるの? ありえないじゃない」
「カムイ爺、なんでも知ってる。人間のことも、みんな、彼が教える。でも、今なら、ボク、わかる。カムイ爺、テレビ、観てたんだ」
地下には怪人が知らない部屋が、いくつもあったという。その中に、テレビがある部屋があったのかもしれない。
「そっか。それなら、カムイ爺も……」
わたしはトトの父親が生きている可能性を示してやりたかったが、もしテレビが存在していたのなら、カムイ爺の言う情報は間違いないものだろう。怪人による被害も、テレビの報道を見れば容易く知ることができる。彼の父親が、たくさんのひとを殺したというのも、恐らく事実なのだろう。
トトは説明をつづけた。
「それから、一年くらいたって、外行った怪人、戻ってきた」
実は、まれにそういうことはあったらしい。母はトトに戻ってきた怪人はいないと言い聞かせていたが、このころになると、そういうものもまれにいたのだと彼に告げたのだそうだ。父がもう戻らないと知ったときの、彼の落胆を少しでも減らそと考えた母の思いやりだろうとわたしは思った。期待が大きいほど、それが叶わないと知ったときの落胆は、期待に比例して大きいものになる。
戻ってきた怪人のなかには、傷だらけのものいたらしい。多くの怪人は、勇敢に戦って戻ってきた怪人を称えた。
その日戻った怪人は、母のよく知っている怪人だった。
「おとなの怪人、地上で、戦いの練習、していた」
外から戻った怪人は、母とよく練習を組み交わしたひとりらしかった。
彼はとてもユニークで、おおらかだったという。
ある日の練習で、母は彼に怪我をさせたらしいのだ。実践さながらの練習のため、生傷が増えることはめずらしいことではなかった。
母は石を叩いてとがらせ、それを彼に投げつけたのだそうだ。矢尻のようにとがった石つぶては、彼の太ももに命中した。母は彼に駆け寄り手を差し伸べた。
母の手を借りて立ち上がった彼は、「今日も勝てなかったか」と苦笑した。母は太ももから血を流す彼のことを心配した。
「このつぶては、俺の勲章だ。このままにしておく」
そう言って彼は、太ももにめり込んだ石を取り除こうとしなかった。それから彼は、左足を引きずるようになったという。
彼は母に比べると比較的小柄だったが、身のこなしがかろやかで、木登りが得意だった。手足が長く、彼が言うには、猿という動物の遺伝子を多く受け継いでいるのだそうだ。母にそう聞かされたトトだったが、猿を見たことがないトトには、それがよくわからなかったらしい。
断崖絶壁の壁も、彼がその気になれば軽く越えられるだろうと母は言っていた。しかし足を引きずるようになった彼のことを、母はずっと心配していたという。
「その怪人、ヒーローふたり、殺した、言ってた」
戻ってきた怪人は、決まって地位の高い怪人らにどこか連れられていった。外の様子の聴取や、彼らの功績を称えるためだろう。
彼も例外ではなかった。
しかし、戻ってきた怪人らを見たものは、その後だれひとりとしていなかった。
その日、トトの食卓には肉料理が配膳された。
「ボク、ひさしぶりの肉。うれしかった。おいしく食べてた。でも――」
母は、それを食しようとはしなかった。
口をおさえて、身体が小刻みに震えているのがトトにもわかった。そして母は、部屋の隅に駆けて行き、そこでひざまずくと、はげしく嘔吐し始めたというのだ。
「ボク、訊いた。具合、悪いの? お母さん、どうしたの?」
母は自分の皿に盛られた肉を、後ろ手に指差した。トトはそこへ視線をやる。肉からは、先のとがった石が覗いていた。
「エイク……」
嘔吐を繰り返し、嗚咽まじりにそう呟いた母の言葉は、ユニークでおおらかだったという、怪人の名前だった――。
「そんな……じゃあ、今までトトたちが食べてた肉も……ほかの怪人のものだったっていうの……?」
わたしは口を覆った。はげしい嘔吐感が込み上げた。
彼らはみんな、知らずに同じ仲間である怪人の肉を食べていたのだ。そしてそれを、心待ちにさえしていた。
トトの話のつづきを聞くのが恐ろしかった。わたしはトトへと視線をやった。
トトは震えていた。
流れ出る涙を拭おうとせず、視線は虚空を見つめたまま、ひっく、ひっくと鼻をすすっている。
もういい――もういいよ、トト。話さなくていい。
そう言いたかった。しかしトトは、静かに話をつづけた。
「それから、しばらくした日、お母さん、言った」
ここから逃げるのよ――母はそう言ったが、トトはそれが不可能だと思った。断崖絶壁はふたりには越えられない。
しかし母は言った。
「地上にある大きな池。トトも知ってるでしょ?」
「お父さんが、魚とってくる池だ。ボク、そこで水浴びする、好き。でも、そこ、深くてあぶないから、ボク、お母さんに、よくしかられた」
「そうよ。その池、とっても深くて危ないから、あんまり奥で水浴びしちゃだめだって――」
母は、その池が外に流れる川につながっているのだと教えた。泳いで外へ脱出するのだそうだ。しかしトトは、母の言うことに心から賛同できなかった。外には、恐ろしい人間も、ヒーローもいる。
「ボク、怖い。外、行ったら、殺される」
「ここにいても同じなの。トト、よく聞いて。この前、外に行くことをいやがった怪人がいたの。彼、その日から姿見せなくなったわ。しばらくして、また、私たちに肉が届けられた……」
「そんな……」
「どっちにしても、私たちは、殺される運命なのよ」
悲痛に訴える母の姿はとても痛ましく、その形相は悲しみと憎しみに満ちていた。それはいったい、人間と怪人――どちらに向けられた憎しみだったのだろう。トトにはそれがわからなかったという。
震えるトトを抱き寄せて、母は力強く言った。「でも、あなたは絶対に死なせない。外でも私たちが暮らしていける方法がきっとある。トトは私が絶対に守る。絶対に、死なせるもんですか」
その夜、ふたりは地上を目指した。夜に地下から地上へ上がるのは禁止されていた。ふたりは物音をたてないように、ドアを蹴破り、地上へ出た。
しかし、ふたりはすぐに見張りの怪人に見つかった。
ふたりは走って逃げた。追いかけてくる複数の怪人をしりぞけながら、池の方向へ必死に逃げた。途中、トトがつまづいて倒れた。
「トトッ」
母がそう叫んだときには、トトはふたりの怪人から地におさえられていた。母は吠えた。牙を剥き出しにして、トトをおさえつける怪人に飛びかかる。
母は強かった。あっというまだった。彼女はふたりの怪人を、またたくまに引き剥がすと、大きな腕でなぎ払った。
トトは立ち上がって、母と逃げようとした。しかし、ふたりはすでに複数の怪人に囲まれていたのだ。
母は獣の咆哮をあげた。
グルルル、低く唸るような声は、甲高い遠吠えとなって夜の空に木霊した。四つ足で地を蹴って、母は並みいる怪人たちをなぎ払う。
母は本当に強かった。数多くいる怪人らを圧倒していたらしい。
しかし、母はやさしすぎたのだ。
彼女は同種の怪人を殺すことができなかった。
母の強さに、トトを捕まえようとしていた怪人らも、彼女の方へと立ち向かう。たちまち母は多くの怪人に組み伏せられた。
地に這わされた母は、顔を上げて言った。「トトッ、逃げてっ。はやくっ」
「でも……お母さんが……」
「お母さんはだいじょうぶだから、はやく逃げてっ」
「いやだよ……お母さんも、一緒……逃げる……」
母は涙ぐんだ目でトトを見つめた。そして、切羽詰る、危機感をともしていた母の声が、縋るような、切ない響きに変わった。
「おねがい……言うことを聞いて……ねえ、トト……」
トトは頭を抱えた。どうしていいかわからなかった。
その時――母の首に大きな鉄の棒が突き刺された。
「おかあ……さん……?」
母はもう、なにもしゃべらなかった。
その変わり、鉄の棒が抜かれた首からは、大量の赤い液体が空高く吹き出していた。
お母さん――。
トトは咆哮をあげた。
頭は真っ白だった。悲しみの咆哮。それはすぐに、けたたましい怒りの咆哮へと変わった。
母をおさえつけていた数人の怪人がトトへと襲いかかる。トトはそれらを振り払った。腕をつかい、牙をつかい。無我夢中で暴れた。
殺してやる――そう思った。母を殺したこいつらを、ひとり残らず殺してやる。
しかしトトの頭に母の声が木霊した。
逃げて。おねがいだから――。
そう懇願する母の顔が頭に焼きつく。母の最後に残した自分への願い。
トトは私が絶対に守る――母はそう言った。逃げて――トトにそう懇願した。
トトは再び咆哮をあげた。
追ってくる怪人を払いのけながら、必死に走った。走りながら、なんども吠えた。やり場のない感情を、吠えて、吠えて吐き出した。
お母さん、お母さん――。
やさしかった母の姿が頭をかけ巡った。絵本を読んでくれた母。頭をやさしく撫でる母。私が守る、死なせるもんですか――そう言って、力強く自分を抱きしめてくれた母。
そして、首から鮮血を吹き上げる母。
喉がつぶれるほどの咆哮――トトはより大きく咆哮をあげた。
いくら叫んでも、どれだけ吠えても、その声が母の耳に聞こえることはもうない。ただ彼は、がむしゃらに吠えつづけた。
お母さん、お母さん、胸の内でなんども叫んだ。お母さん。お母さん――。
途中、背中に激痛が走った。母を殺した鉄の棒だったり、怪人らのするどい爪が、逃げるトトの背中に襲いかかった。それでも彼は、ただがむしゃらに走る。雄叫びあげ、ただひたすらに逃げた。
それが母の、最後の願いだったから――。
トトは両腕を振り乱した。途中、いくども転んだ。それでも彼は止まらなかった。追ってくる怪人らを、無我夢中に腕を振り乱し、なぎ払った。
そして、目の前に現れた大きな池へと、彼は身を投げ入れたのだ。
「ボク、いっしょうけんめい、泳いだ。真っ暗で、怖かった。息ができなくて、死ぬか、思った。でも、お母さん、それ、許さない、お母さん、悲しむ、思った。気づいたら、ボク、外にいた」
そして、彼はひとり人間界をさ迷い歩いた。
人間に脅えながら、ヒーローに脅えながら、身を隠し行き着いた先で――わたしに出会ったのだ。
わたしはトトを抱き寄せた。彼の頭を、両腕できつく包み込む。
「ごめんなさい。ごめんなざい……」わたしはただひたすらに謝った。涙、鼻水を垂れ流した。「辛いごと……聞いぢゃって、ごめんなざい……」
うおううおううおう――彼はわたしに抱かれたまま、ただがむしゃらに泣きつづけた。