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昼と夜の気温の差がはげしい三月のことだった。
わたしは夕暮れに下校をしていた。気温は少し肌寒いけれど、風の通りはゆるやかで、陽の落ちきってない街は、心地いい温もりがあった。
夕暮れの帰り道。わたしはそれをわりと気に入っている。登校時ともなると、高台にある学校への坂道は、毎日鬱になりそうなほどの地獄を感じるけれど、帰り道は足取りも軽く、高台からオレンジ色に染まった街を一望すると、一日の疲れが癒されるくらいに心が落ち着いた。
爽やかな風が吹き抜けると、見下ろす街の上空を風に乗って飛んで行けるのではないか、などと妄想にふけったりする。わたしは少し妄想癖のある、普通の女子高生だ。
この街には、ヒーローがいる。いえ、この国にはヒーローがいる。だから必然的に、怪人もいる。怪人がいないのならヒーローなんていても意味がない。怪人がいるから、ヒーローがいるのだ。
わたしが生まれたときから、それは当たり前だった。
わたしの祖父が子供のときは、ヒーローや怪人などは、空想の中だけでの産物だったらしい。特撮ヒーローという枠組みで、子供向けのテレビや映画で観る世界。
あのころは平和だった――というのが祖父の口癖だった。では、今が平和じゃないのか、というとそうでもない。わたしが生まれたときからヒーローも怪人も存在しているけれど、実際に怪人と出くわしたことなんて一度もないのだ。実物は、博物館で剥製を見たくらいだ。
今の平和があるのも、ヒーローさまさまってわけだ。
祖父が子供のころに観た空想のヒーローと、現実のヒーローとではずいぶんな違いがあるらしい。空想のヒーローは、最低ひとりから三人組、五人組が主流らしい。怪人が現れ、人々がピンチに追いやられたときに、ヒーローが現れるのだそうだ。実は、前に祖父からDVDで観せてもらったことがある。全身タイツでマスクをした、赤、青、黄など様々なカラーをしたヒーローだ。正直な感想は、なんとも間抜けだな、と思った。
それで実際のヒーローはというと、日本全国に何人もいる。そうでないと、怪人が北は北海道、南は沖縄で同時に人を襲った場合、ヒーローはどっちを助ければいいのだ、てことになりかねない。
だからこの国にはヒーロー支部が地域地域にあり、管轄分けされることでその地域を怪人の恐怖から守っている。わたしの住む地域のヒーローは、スバル隊という名前だ。
もちろん、全身タイツではない。特殊な制服を来てヘルメットもしているが、顔は見えるし必殺技なんかもない。それでも子供たちのあいだでは絶大な人気を誇っている。グッツなんかもたくさんあるし、実際のヒーローを題材にした、連続ドラマ、映画なんかもものすごい人気だ。
わたしはというと、ヒーローにも怪人にも興味はなかった。怪人が人を襲う理由も分からないし、祖父に観せてもらった特撮ヒーローもののように、世界征服でもしたいのだろうか。
ヒーローにしたって、全国に支部をつくる労力があるならば、その労力を怪人の本拠地を探し当てることに対力したほうがマシなのではないか――などと思うのだ。
まったくヒーローに興味を持たないわたしは、この世界では異質らしかった。
だから、友だちもいない。
両親は子供に無関心。そんなわたしの心のよりどころは、田舎の祖父だけだった。その祖父も、一昨年に亡くなった。
わたしは、ひとりぼっちだ――。
でも今はそれでいいかな、なんて思っている。気楽だったし、子供に無関心な親は、女子高生であるわたしのひとり暮らしにも了承してくれた。
寂しくなんかない――。
自分に言い聞かせるように心で呟くと、わたしは道端に転がる空き缶をつま先で蹴った。からん、という音を鳴らして転がる空き缶は、みじめな虚しさをよけいに込み上げさせるのだった。
長い下り坂も終わり、わたしは街の中まで来ていた。ひとの通りも多くなっており、高台から見下ろす街には心奪われたものの、実際この街に足を降ろすと、車のエンジン音やひとの流れに嫌気がさす。
このまま家に帰っても暇を持てあますだけだと思ったわたしは、少し寄り道をして帰ることにした。大きな通りの歩道がいつものわたしの帰り道だ。だけどわたしは、普段は通ることのない細い路地を抜けることにした。
その路地を通るのには理由がある。ビルとビルのあいだの細い路地、この路地を抜けたさきにある、喫茶店のチーズケーキがわたしのお気に入りなのだ。その喫茶店へ行くには、この路地を抜けたほうが近道だ。遠回りするのが億劫だった。
わたしは空き缶を拾うと、ゴミ箱に缶を捨ててから路地に入った。
ひとが三人並んで歩けるくらいの広さだ。足元に気を配って歩かないと、いろいろなゴミでつまずいてしまいそうになる。陽の光を遮った薄暗い路地は、先ほどまで歩いていた街とはまるで別世界のようだった。
急に肌寒さを感じて、わたしは両腕を組んで肩を持ちあげた。
風の通り抜ける音だろうか、低い唸り声のような音が路地に響いていた。それが不気味だった。足取りが重くなる。わたしは肩にかけていたバッグの紐を握りしめた。
また、さきほどから嫌な臭いが鼻についていた。残飯の腐ったような臭いだ。この悪臭が、薄暗い路地の空気をいっそうどんよりと重く濁らせているように感じる。この臭いが、ビルの一階にある居酒屋のゴミ溜めからの臭いであることは知っていた。この路地を抜けるには、この臭いからは避けられないのだ。
わたしは片手で鼻を覆うと、乱雑に散らばるダンボールをよけながら路地を歩いた。ふと足元から視線を上げると、ゴミ溜めの奥でなにかが動いたような気がした。暗くてよくわからない。路地全体が暗いというより、夕日の陽光がゴミ溜め一帯を黒い影にしているのだ。この路地の色は、ほとんどがオレンジと黒で統一されていた。
わたしはゴミ溜めのほうに意識を向けた。やはりなにか動いている。大きな黒い影。目を細めて、注意深く見つめる。
その瞬間、わたしの意識は固まった。
すぐに固まった意識は、ダムの決壊した濁流のようにわたしの思考を支配した。
どうして、どうして――なんども胸の内に呟いた。いくつかの疑問を含んだ呟きだった。ビルのあいだだから薄暗いというのもあった。
だけど、どうしてわたしはこんな大きな人影に、こんなに近くになるまで気づかなかったの。
どうしていつものように近道しないで、路地を通らない道を選ばなかったの――後悔ばかりが頭をかけ廻った。
その人影は、身長一八○センチくらいだろうか、肩から手首のあたりまで真っ白い毛に覆われていた。背中には何の役にも立たなそうな手のひらサイズの羽があり、下半身はカーゴパンツを履いている。
それは紛れもなく、怪人だった。
怪人はまだ、わたしに気づいていないようだった。早く逃げなきゃ――と思うものの、足が竦んでその場から動けない。まるで、蝋を頭からひっかぶったように身体が動かないのだ。顔の筋肉も、引きつったまま硬直していた。自分の足が、とりもちに捕われているような錯覚にさえ陥っていた。
わたし、死ぬのかな――。
ふいにそんなことを思った。怖くて悲鳴すら出てこない。そして、携帯の緊急非常ボタンを持たなかったことを後悔した。
緊急非常ボタンは、今どきだれでも携帯している。家の鍵と一緒につけていたり、バッグだったりと、キーホルダーくらいの大きさだ。
わたしの非常ボタンは、自室の机、その引き出しの中に入れっぱなしだった。まさかわたしが怪人と出くわすなんて、夢にも思っていなかったからだ。それに、わたしがそれを持ってきていたとしても、ヒーローが駆けつけるまでに、一体どれくらいの時間がかかるのだろうか。
間に合わない。
怪人はこちらに気づくようすもなく、立ったり座ったりを繰り返していた。そして首をきょろきょろとさせ、ときおり低い呻き声をあげている。
ああ、そうか――。
わたしは声にも表情にも出せない笑いで自分を呪った。不気味な音の正体は、この怪人の声だったにほかならない。
今さら気づくなんて、危機感知能力に愚鈍すぎる。恐怖で引きつった顔は、表情を強ばらせたまま、内面のわたしは愚鈍な自分を笑いとばした。
なにが平和だ。この国での怪人による被害は、年に千件以上。それが多いか少ないかなんて、わたしにはわからない。ただわたしには関わりのないことだと思っていた。関わろうともしなかった。
いや、関わりたくなかったのだ。わたしは意識して、ヒーローや怪人といったものの話題から避けていた。だから、親もとも離れた。
しかしそれを悔いたところで、この現状がどうとなるということでもない。すべては怪人の危険に対するかろんじた考え、近道をしようとした自身への怠慢から起きたことなのだ。
助けを呼ぼうにも、言葉にならなかった。あごは恐怖でがたがたと上下し、バッグの紐を握る手には、汗が滲み出していた。
助けて、助けて――声が出てこない。ただ口だけがぱくぱくと動いていた。
もうわたしは、発声の仕方すらわからなくなっていた。呼吸をすることすら、今のわたしには難しかった。
どうして、と思った。なんでわたしなのよ。
わたしじゃなくてもいいじゃない。
なんでわたしばっかりこんな目にあうのよ――。
これまで、幸せな人生とは言えなかった。だけど、幸せになりたいとは思っていた。それなのに――それなのに、どうして……。
膝が折れそうになる。気を張っていなければ、そのまま気を失ってしまいそうだった。
すると一瞬、怪人の白い毛が逆立ったように見えた。それと同時に、怪人の動きが止まったのだ。
怪人が、背後にいるわたしの気配に気づいたのだとわかった。怪人の足から伸びる黒い影は、わたしの足元にまで伸びている。それが怪人とわたしとの距離。わたしは恐怖に顔をゆがめて、ふるふると頭を左右に振った。
怪人の腹の底から絞り出すような呻き声がした。鳥肌が一瞬にして全身に広がる。もう、立っているのがやっとだった。
やがて、怪人がゆっくりとこちらへ振り返ろうとしているのがわかった。
絶望感がわたしを襲った。
怪人の身体がこちらを向いた。
いやだ、死にたくない――。
精一杯の死力を尽くして、わたしは声を振り絞った。「たすけっ――」
「うわぁっ」
それはほぼ同時だった。
大きな悲鳴と、けたたましい物音が路地に響いた。
「えっ」とわたしは間抜けな声をあげた。突拍子もない出来事に、わたしの頭は混乱していた。
死を覚悟した次の瞬間だった。怪人はわたし以上の驚きの声をあげると、そのまま勢いよくゴミ溜めにひっくり返っていたのだ。
すぐに怪人はこちらに背を向けると、頭をかばうようにしてうずくまった。これではまるで、怪人のほうがわたしを恐れているよう見える。わたしはただ唖然と怪人の背中を眺めた。
すると怪人は、「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」とうずくまったまま、だれかに謝り始めたのだ。そしてあたふたとしながら、「ああ、でも……早くしないと」などと言って、挙動を定かにできないでいるのである。
混乱がおさまらないわたしは、えっ、えっと口に手をあて、なんども声をもらした。なにがなんだかわからなかった。目の前でおろおろと慌てふためく怪人は、たしかに「ごめんなさい」と言ったのだ。彼はわたしに対して謝っているのだろうか。なにかに脅えているようにも見える。
とりあえず、わたしは助かったのだろうか。
ひとまず安堵して、わたしは胸をおさえて呼吸を整えた。心臓ははげしく脈打っていた。ふと、ショーツに冷たい感触があるのを感じた。わたしはその感触のもとへと視線を落とすと、頬と口を引きつらせた。どうやら、少し失禁してしまったらしい。
だれにも言えない秘密ができてしまった。
制服のスカートの裾を両手でぴんと伸ばす。
助かった、という安堵とともに、わたしに失禁の羞恥心が込み上げてきた。わたし、もう十七なのに、と思った。それからすぐに、ほんの少しだし、おもらしじゃないよね――と心の中で自分に言い聞かせた。
しばらくして、はっとしてわたしは再び怪人に視線を戻した。それよりも、と思った。わたしの目の前には、怪人がいるのだった。
怪人はあいかわらず頭を抱えて、あうあうと呻いている。
わたしは頬に右手をそえると、どうしたんだろう、と首をかしげた。不思議なことに、このときわたしには怪人から逃げるという選択肢が消えていた。たとえ怪人がなにかに対して脅えていたとしても――たぶんわたしに対してだろう――それが危険であることに変わりはないのだ。命にだって関わる。本来なら、すぐにでもこの場から立ち去るべきである。
だけど、どうしても気にかかることがわたしにあった。怪人はさきから脅え、謝りながらも、ずっとなにかを気にかけているのだ。
そんなに脅えるくらいなら、その怪人自身がこの場から逃げだしてしまえばいいのにとわたしは思った。しかし怪人は、その場から離れようとしないのだ。
だからといって、その怪人に話しかけようとするこのときのわたしは、よほど神経がどうかしていたのだと思う。
わたしはそっと怪人へと近づいた。「あの……」おそるおそる怪人に尋ねる。「どうしたの?」
「死んじゃう。早くしないと、この子、死んじゃう」
「この子?」と言ってわたしが見た先には、子猫がいた。後ろ足が折れているようだった。その足はひとの手によって、故意にいじめられたようなのだ。
わたしは子猫のもとへ駆けよった。いつのまにか、怪人への恐怖はうすれていた。「大変、すぐに病院に連れていかなきゃ」
子猫は力なく、か細い鳴き声をあげていた。わたしは子猫の前でしゃがみこむと、そっと子猫を抱きあげた。
子猫の姿を追うように、怪人の顔がこちらを向いた。「ああ、よかった。助かった。この子、助かった」
そのとき初めて、わたしはこの怪人の顔を見たのだった。
ゴリラのような顔だった。灰色がかった黒い肌をしている。牙が鋭く、噛まれたらひとたまりもないだろう。つり上がった鼻頭。少しとがった耳。そして掘りの深い目からは、顎に至るまで水色のすじかできていた。
それが何であるか、すぐに理解できた。
「泣いて……いるの?」わたしは怪人に訊いた。
「だって……この子、死んじゃったら、かなしい……」
なにもかもが信じられなかった。そして初めて知ったのだ。
怪人が泣くということも、その涙が無色透明でなく、水色であるということも、怪人が猫の心配をするということも、そのなにもかもが初めてで、目の前にいるものが怪人であるということを忘れてしまいそうになる。
こんなやさしい怪人も、いるんだ――。
恐怖なんて感情は、まったくといってなくなっていた。
「だいじょうぶよ、このくらいじゃ猫は死なないから。でも、早く病院に連れていってあげなきゃね」
「病院ってところに行くと、助かるの?」
「うん、そうだよ」と言ってわたしは立ちあがる。そして、彼と一緒に病院に行こうと歩きだしたところで気がついた。彼は怪人なのだ。一緒に病院に行けるはずがない。
「ねえ、怪人さん」わたしは振り返って訊いた。どうも彼の話す言葉が子供っぽいから、わたしまで子供っぽくなってしまう。「怪人さんは、どこから来たの?」
「わからない」と彼は答えた。
「じゃあさ、どこに行くの?」
「それも、わからない。人間、怖い。ヒーロー、もっと怖い。ボク、ずっと隠れてた。でも、小さい人間たち、子猫いじめてた。ボク、勇気出してやめろって言った。小さい人間たち走って行った」脅えるように彼は言った。
そう、とわたしはうつむいた。それ以外に、かけてやる言葉が思い浮かばなかった。子猫はつぶらな瞳でわたしを見上げている。ときおり、消え入りそうな鳴き声をあげていた。
家でも学校でも孤立しているわたしは、やはり普通のひととはどこか感受性が違うのかもしれない。この子猫と、目の前にいる怪人とでは、いったいなにが違うのだろう、なんて思ってしまっている。わたしには、彼が助けを求めているように思えたのだ。
それに、ひとが傷つけた子猫を助けようとするこの怪人のほうが、そこらの人間よりよっぽど人間らしいんじゃないか――。
しばらく、わたしはなにも言えずにうつむいていた。やがて、「でも」と怪人が言葉をつづけた。そして、ゆっくりとわたしを見上げて言ったのだ。「きみ、やさしい。その子、助けてくれる。よかった」
そう言ってわたしを見上げる怪人は、なんともぶさいくな笑い顔をつくった。彼の身体は、人間であるわたしに対する恐怖でまだ震えているというのに、子猫が助かったと、本当にうれしそうに笑うのだ。それが、きっかけだった。
彼のやさしい言葉と、ぶさいくな笑顔――それがわたしの心をつき動かしたのだ。
このときのわたしは、本当にどうかしていたんだと思う。ふいに出た言葉だった。本当は、寂しかったのかもしれない。
ひとりぼっちが。
だれにも言えない秘密が、もうひとつわたしにできた瞬間だった。
そう、このときから、怪人とわたしの物語は始まったのだ。
うずくまる怪人は、夕日の逆光を浴びて白い体毛をオレンジ色に輝かせていた。路地を吹き抜ける風が、オレンジ色に染まった体毛を揺らしている。わたしを見上げる怪人の顔には、二本の水色のすじが光っていた。
わたしは、たなびく髪を片手で掻きわけた。そして子猫を抱いたまま、オレンジ色に光る怪人に問いかけたのだ。
「わたしんち、来る?」