第7話:木曜日、凪の「自立」と枯渇する愛(ポイント)
木曜日の朝、一条凪は鏡の前で自分の顔を両手で強く叩き、気合を入れた。
「よし。今日は『自立した友人』を目指そう。みんなに甘えすぎない。それが本当の優しさなんだ」
昨日のアイス屋での一件が、凪の胸に重くのしかかっていた。
誘った五人のうち四人が、不自然なほど必死な理由で断ってきたあの光景。最後に来てくれたほのかまで、途中で逃げ出すように去ってしまった。
常識人である凪の出した結論は一つ。「僕が彼女たちの貴重なプライベートな時間を、無邪気に奪いすぎていた」ということだ。
校門を潜る足取りは、いつになく力強い。
しかし、その決意が、校門の影で「今日こそは朝イチで凪くんに奉仕してポイントを稼ぐわ!」と鼻息を荒くしていたヒロインたちにとって、残酷な『経済封鎖』になるとは微塵も思っていなかった。
「あ、凪くん! おはよう。そのカバン、少し重そうね。私に預けて――」
待ち構えていた支倉聖奈が、流れるような動作で手を伸ばす。
だが、凪はそれをひょいとかわし、爽やかな笑顔を向けた。
「おはよう、聖奈。大丈夫だよ、このくらい。自分の荷物くらい自分で持たないと、足腰が鈍っちゃうからね。聖奈も、朝から僕の世話ばっかり焼いてたら疲れちゃうだろ? 今日は自分のペースで行こう」
「えっ……? あ、ちょっと、凪くん!?」
聖奈の伸ばした手が、虚空を掴む。
彼女の脳内では、予定していた『朝の荷物持ちポイント:5pt』が霧散し、代わりに冷たいエラー音が響いた。
(……拒否された? 凪くんが、私の助けを……いらないって言ったの!?)
ショックで立ち尽くす聖奈を追い越すように、藍澤凛が駆けてくる。
「よお、凪! 喉乾いてねーか? ほら、新作の炭酸――」
「ありがとう、凛。でも、今日は水筒を持ってきたんだ。節約もしなきゃと思ってさ。凛も、自分の部活のために水分摂っておきなよ」
「……あ、ああ。そうか。水筒……偉いな、凪……」
凛は手に持った缶を握りしめたまま、石像のように固まった。
彼女のスマホには、虚しく『未達成』の文字が並ぶ。昨日のアイス屋の「自粛」のせいで、彼女たちのポイント残高は底をつきかけている。明日の第一回オークションを前に、一ポイントでも稼がなければならない死活問題の局面で、凪の「自立心」という名の鉄壁の防御が立ちはだかった。
授業中も、凪の鉄壁ガードは崩れなかった。
一ノ瀬舞夜が、わざとらしくペンを机から落とす。本来なら、凪がそれを拾い、「はい、舞夜。気をつけなよ」と手渡す。そこで『日常の気遣いポイント:3pt』が発生するはずだった。
しかし、凪は「あ、落ちたよ」と指を差すだけで、自分では拾わなかった。
(ここで僕が拾ったら、舞夜の『自分で拾う』という動作を奪ってしまう。彼女の主体性を尊重しなきゃ)
そんな高度すぎる勘違いに基づいた配慮により、舞夜は自分で地面を這うようにペンを拾う羽目になった。
(……なんで。なんで今日に限って、そんなに「普通」なのよ、一条凪!)
舞夜は怒りに震えながら、シャーペンをノートに叩きつけた。彼女のような策士にとって、相手が「何もしない」ことほど攻略しにくいものはない。
昼休み。いつもなら五人が凪の机に集結し、華やかな「お裾分け合戦」が始まる時間だ。
しかし、凪はチャイムが鳴るなり、一人で購買へと歩き出した。
「みんな、今日はゆっくり自分の昼休みを過ごしてね! 僕は売店でパンを買って、屋上で風に当たってくるから!」
残された四人は、教室の隅で緊急会議を開かざるを得なかった。
「……緊急事態よ。凪くんが、私たちの奉仕をことごとくキャンセルしてるわ」
舞夜が、唇を噛みながらスマホの管理画面を見せる。全員の獲得ポイントが、午前中を通して「ゼロ」を記録していた。
「嫌われたのでしょうかぁ……。アイス屋で私が逃げ出したから、愛想を尽かされたんですぅ……!」
ほのかが机に突っ伏して泣きじゃくる。
「いや、違うわ。……凪くんは優しすぎるのよ」
聖奈が眼鏡の奥の鋭い瞳を光らせた。
「昨日の私たちの『不自然な拒絶』を、彼は『自分たちが忙しいから、これ好意的に甘えてはいけない』と誤変換してしまったのよ。……あの子、常識人だから、一度そう思い込んだらテコでも動かないわ」
そこへ、廊下から一人の少女が、フラフラと凪の後を追っていくのが見えた。
霧島凪沙だ。
「……凪くん」
屋上へ向かう階段の途中で、凪沙が凪の制服の裾を掴む。
凪は足を止め、困ったように笑った。「凪沙ちゃん。今日は一人でゆっくりしたいんだけど……」
「……だめ。凪くん、足りない。……温度」
凪沙はそのまま、凪の背中にそっと顔を埋めた。
凪は一瞬驚いたが、彼女のどこか放っておけない、浮世離れした空気感に根負けしてしまう。
「……はは、相変わらずだね、凪沙ちゃんは。……いいよ。少しだけ、こうしてようか」
凪が優しく凪沙の頭を撫でる。
その光景が、物陰から血走った目で監視していた四人のスマートフォンに「緊急規約違反通知」として叩きつけられた。
『【規約違反警告】霧島凪沙:未落札の身体接触(密着・愛撫)を確認。ポイント加算拒否。……および、執行猶予なしのケツバット刑を宣告します』
「「「「……殺るわよ」」」」
四人の声が、地獄の底から響くような低音で重なった。
放課後、人知れぬ校舎裏。
そこには、野球部の練習さながらに鋭い素振りをする凛と、審判のように時計を確認する舞夜、そして「情けは無用よ」と冷たく言い放つ聖奈の姿があった。
「規約第十八条、未落札の独占的接触。……霧島凪沙、前へ」
舞夜の非情な宣告に従い、凪沙がトボトボと前に出て、指定された位置で腰を折った。
「……ん」
「いくぞ凪沙! これが共同管理の鉄槌だぁぁ!」
凛がプロの強打者のような鋭い踏み込みから、プラスチック製のおもちゃのバットを全力で振り抜いた。
――パコォォォォンッ!!
静かな校舎裏に、空洞のプラスチック特有の、しかし確かな殺意が籠もった快音が響き渡る。
「……あっ」
凪沙の華奢な体が、衝撃でわずかに浮き上がった。普通の女子なら涙目で悶絶し、数分は立ち上がれないほどの一撃だ。
しかし、凪沙はゆっくりと立ち上がると、お尻をさすりもせず、虚空を見つめてぽつりと呟いた。
「……バットも、あったかい。……凪くんの、手のひらみたい」
「そんなわけないでしょぉぉ!! どんな感覚してるんですかぁ!」
ほのかが叫ぶ。叩いた側の凛も、あまりの手応えのなさに逆に肩を落とした。
「くそっ、こいつ……。痛みより、さっき撫でられた余韻が勝ってやがる……。化け物かよ……!」
「……次、聖奈。あなたの番よ。きっちり五回、落とし前をつけさせなさい」
「ええ。ルールを舐めるとどうなるか、その身に刻んであげるわ。……凪くんを困らせる『抜け駆け』は、万死に値するのよ」
その後、合計五回の快音が校舎裏にこだました。
叩くたびに「……凪くん」と、どこか恍惚とした表情を浮かべる凪沙。それに対し、叩くたびに「こいつのメンタル、どうなってんのよ!」と逆に精神を削られていく執行人たち。
最終的に、全工程を終えた四人が「……なんか、私たちが負けた気分ね」と疲弊しきった顔で項垂れる一方で、凪沙だけはどこかスッキリした顔で、服についた土をパタパタと払っていた。
一方の凪は、そんな凄惨な――そして決定的に噛み合わない――「刑の執行」が行われていたとも知らず、約束通り、誰にも声をかけずに図書室の掃除を終えて帰路についた。
「ふぅ、今日は自立した一日だったな。みんなも、自分の時間が持てて喜んでくれたはずだ」
満足げな表情で夕陽を浴びる凪。
その背後、校舎の窓からは、血走った目で彼を見送る四人の影があった。
「……明日の放課後。第一回公開オークション」
ディーラーである舞夜が、低く、呪うような声で言った。
「このままだと、出品された二十五枠のうち、ほとんどが『不成立』で流れるわ。……それは、来週一週間、誰も凪くんに近づけないことを意味するのよ」
「そんなの耐えられませんぅ!」
「ボク、暴れちまうぞ!」
「……今夜よ。今夜、死ぬ気でポイントを稼ぐ方法を考えなさい。凪くんが寝る前に、LINEのやり取りだけでポイントを毟り取るのよ!」
何も知らない凪は、家路の途中でコンビニの肉まんを頬張っていた。
「明日は金曜日か。みんな、一週間お疲れ様ってことで、何か労いの言葉をかけなきゃな」
凪のその「労い」が、明日の鉄火場にどれほどのガソリンを注ぐことになるのか。
静かな夜の裏側で、五人の乙女たちの、スマホを通じた執念の『深夜残業』が始まろうとしていた。




