第6話 :水曜日、イレギュラーな放課後と鉄の掟
水曜日の昼休み、教室を包む空気はどこか誇らしげで、それでいてひどくこそばゆいものだった。
一条凪は、窓際から差し込む春の柔らかな光を背に受けながら、手元の教科書に目を落としていた。……いや、実際には文字など一切頭に入っていない。視線の先にあるのは、クラスメイトたちのカバンだった。
(……みんな、あんなに喜んでくれるなんて。昨日渡したばかりなのに)
支倉聖奈の整然と整理されたスクールバッグの端で、昨日僕がプレゼントしたクマのキーホルダーが誇らしげに揺れている。一ノ瀬舞夜も、普段の大人びた雰囲気には少し不釣り合いなはずのそのぬいぐるみを、お洒落なトートバッグの目立つ位置に付けてくれていた。
廊下ですれ違った際、藍澤凛が「……これ、意外とカバンに合うんだよな」と頬を染めながら指先でキーホルダーを弾いていた姿が脳裏に蘇る。一年生の校舎へ向かう階段では、瀬戸ほのかが両手で宝物のようにそれを握りしめ、顔を埋めるようにして歩いているのを見かけた。
常識人として、僕はこう思わずにはいられなかった。
みんな、僕なんかが選んだ小さな贈り物にあんなに価値を見出してくれる。あんなに喜んで、大切にしてくれている。もらいっぱなしは、僕の性分が許さない。
(昨日のお礼に、何か特別なことをしたい。……そうだ。みんなで、パッとお祝いをしよう!)
僕の脳裏には、昨日新しく駅前にオープンしたばかりのアイスクリーム専門店の看板が浮かんだ。色とりどりのフレーバーが並ぶ、今学園で一番話題のスポットだ。
「よし。今日はお礼に、放課後みんなをアイスに誘おう!」
僕は立ち上がり、隣の席でノートをまとめていた聖奈と、少し離れた席で優雅に読書をしていた舞夜に向かって、曇りのない笑顔を向けた。
「聖奈、舞夜。今日の放課後、みんなで駅前の新しいアイス屋さんに行かないか? 僕の奢りでさ。ほのかちゃんや凛、凪沙ちゃんも呼んで、昨日のお礼にパァーッとやろうよ!」
その瞬間、教室の時が止まったような錯覚を覚えた。
聖奈が持っていたシャーペンが机に転がり、舞夜がめくろうとしたページが指先で止まる。二人の瞳が、凪の誘いという特大の幸福に一瞬だけ輝いた。
「凪くんが……誘ってくれた……」
その呟きは、声になる前に霧散した。
しかし、直後に二人の脳裏を駆け抜けたのは、恋心よりも鋭い「理性」だった。
(待って。……冷静になりなさい、私)
舞夜が自分を律するように目を伏せる。
(昨日の今日で、学園で目立つ女子五人が、凪くん一人を囲んでゾロゾロと駅前を歩いたら、周囲はどう思う? 凪くんは優しいから、自分がハーレムの中心にいるなんて自覚は微塵もないでしょう。でも、他人の目は残酷よ)
聖奈もまた、眼鏡をクイと押し上げ、最悪のシミュレーションを頭の中で展開していた。
(『一条凪は女子を侍らせて遊んでいる』……そんな不名誉な噂が一度でも立てば、彼の誠実な評判に傷がつくわ。私たちが彼を好きすぎて、距離感を間違えたせいで、凪くんが後ろ指を指されるなんて……万死に値する!)
凪の評判を守らなければならない。彼が誰に対しても平等で、真っ直ぐに接していることを知っているのは、自分たち五人だけでいい。その純粋さを、世俗の汚れた噂話に晒すわけにはいかなかった。
「……あ、あら、一条君。せっかくの誘いなのだけれど、ごめんなさい。私、今日どうしても外せない用事があったわ」
舞夜が、胸を引き裂かれるような思いで嘘をついた。
「……美容院の予約なの。昨日、髪が少し痛んでいることに気づいて……。凪君の前では、いつでも完璧な私でいたいから。……だから、今日だけは勘弁してちょうだい」
隣で、聖奈もまた、自身の掌を強く握りしめながら、震える声で続いた。
「私も……ごめんなさい、凪くん。今日は委員会の仕事が急に入ってしまって。来月の図書室の予算案をまとめなきゃいけないの。……凪くんの気持ちは、世界中の何よりも嬉しいけれど。本当に、ごめんなさい」
廊下で聞き耳を立てていた凛もまた、壁に頭を打ち付けたい衝動を必死に抑えていた。
(凪が奢ってくれるアイス……食いたい! ボク、甘いもの大好きなんだよ! でも、ここでボクまで顔を出したら、凪が『チャラい奴』って思われちまう。……凪のイメージを白く保つのが、親友を自称するボクの最低限のプライドだろ!)
凛は廊下の曲がり角から一瞬だけ顔を出し、引きつった笑顔で「悪いな凪! ボクも部活のミーティングだ!」と叫んで、脱兎のごとく逃げ出した。
「……そうか。みんな、本当に忙しいんだね」
肩を落とし、しょんぼりと肩を窄める凪の姿を見て、彼女たちは心の中で血の涙を流していた。
(違うの、本当は世界中のどのアイスよりも、凪くんと一緒に食べる一口が欲しいのよ!)
けれど、凪の平穏な日常と評判を守るためには、この「過剰なまでの配慮」が必要だと信じていた。それが自分たちに課した、共有財産運用の裏側に潜む「犠牲」なのだと。
そして、最後の一人。
一年生の校舎から、クマのキーホルダーを握りしめてやってきた瀬戸ほのかだけは、少し違った。
「ほのかちゃんは……やっぱり、無理だよね?」
「い、行きますぅ! 私、行きます! 先輩が誘ってくれたのに、断るなんて、ほのかにはできませんぅ!」
ほのかは、先輩たちが「凪の評判」を重んじて身を引いたことを察していた。その自己犠牲の精神は尊い。けれど、彼女の幼い恋心は、それ以上に「寂しそうにしている凪を一人にすること」を拒絶したのだ。
(お姉様方の覚悟は分かりますぅ! でも、先輩を一人ぼっちで帰す方が、よっぽど酷いじゃないですかぁ!)
放課後。駅前の小さなアイスクリーム店。
パステルカラーの店内に、凪とほのかの二人が並んで座った。
凪はダブルのチョコチップを、ほのかは可愛らしいストロベリーを手にベンチに腰を下ろす。
「ほのかちゃん、他のみんなは残念だったけど……来てくれてありがとう。なんだか、一人だと寂しかったからさ。……みんなに嫌われちゃったのかな、なんて少し不安だったんだ」
「……っ。そ、そんなこと、万が一にも一億分の一にもありませんからぁ! 先輩が誘ってくれたなら、私、地の果てまで、たとえ溶岩の中でも付いていきますから!」
ほのかは、背後から感じる「守護(監視)」の視線に震えながらも、凪の笑顔を守るために必死に声を張り上げた。
店の外、街路樹の陰、自販機の裏。
断ったはずの四人が、それぞれ変装でサングラスや帽子を被り、凪のイメージを汚す不埒な者が近づかないか、そしてほのかが「行き過ぎた独占」をしないか、必死に目を光らせていた。
「ほのかちゃん、一口食べる? これ、すごく美味しいよ。ほら」
凪が何気なくスプーンを差し出し、彼女の口元へ運んだ。
その瞬間、街路樹の陰から「ギギギ」と不穏な歯ぎしりの音が聞こえたような気がした。
「あ、あーん……は、ダメですぅ! 心の準備が! ……あ、あの、先輩! 私、急に……えっと、宿題を思い出しました!」
ほのかは、凪の差し出したスプーンを前にして、顔を真っ赤にして立ち上がった。
(……ダメ。これ以上甘えたら、陰で見守ってる聖奈さんたちの目が怖すぎるし、何より、私が先輩を独り占めしすぎちゃう。それは昨日みんなで誓った『平等』の精神に反するわ……!)
「あ、ごめん、ほのかちゃん! 無理させちゃったかな」
「……ううん、違います。……先輩、誘ってくれて、本当にありがとうございました! すっごく、すっごく美味しかったですぅ!」
ほのかは最高の、そしてどこか決死の覚悟が滲む笑顔を見せて、夕闇の中に消えていった。
後に残されたのは、少し溶け始めた凪のアイスだけだった。
(みんな、自分の時間を大切にしてるんだな。……僕が、少し甘えすぎていたのかもしれない)
凪は一人、駅前のベンチで溶けていくチョコチップを見つめながら、深く反省していた。
彼女たちが自分の評判や立場を慮って身を引いたことなど、常識人の彼には到底知る由もない。ただ、彼は自分の無邪気な誘いが、彼女たちの忙しい日常を邪魔してしまったのだと解釈した。
「明日はもっと、みんなを尊重しよう。僕から話しかけて、彼女たちの貴重な時間を奪わないようにしよう。……それが、本当の友人の在り方だよね」
その夜、凪が学習机のカレンダーの端に書き込んだ「明日の目標:過度な接触を控える」という一文は、翌日、ヒロインたちに「凪くんが避けようとしてる!?」「ポイントを稼ぐ隙がまったくない!」という、死活問題のパニックをもたらすことになる。
何も知らない凪は、自立した友人を目指して、静かに眠りについた。




