第4話:月曜日、あふれる想いと「ありがとう」の重み
週が明け、月曜日。
一条凪が校門を潜った瞬間、まず感じたのは「空気の密度」だった。
先週までの、どこか緩やかだった登校風景とは明らかに違う。校門の脇、桜の木の下で、一人の少女がこちらをじっと見つめていたからだ。
「お、おはようございますぅ! 凪先輩ぃ!」
瀬戸ほのかが、弾けるような笑顔で飛び出してきた。
いつもなら「あ、おはよう」と軽く返すところだが、今日の彼女は一段と気合が入っているように見える。一歩、二歩と詰め寄り、僕の顔を覗き込んできた。
「は、おはよう。ほのかちゃん、朝から元気だね。早起きしたの?」
「はいっ! 先輩に一番に会いたいな、なんて思ったら、目覚ましが鳴る前に起きちゃいましたぁ! あ、そのカバン、私が持ちますぅ!」
「えっ、いや、そんなに重くないし、悪いよ」
「ダメです! 先輩の力になりたいんですっ。私に任せてくださいっ!」
強引にカバンを受け取ろうとする彼女の真っ直ぐな瞳に押され、僕は苦笑しながら「じゃあ、校舎までお願いしようかな。いつも健気だね。ありがとう、助かるよ」と頭を下げた。
その瞬間、ほのかの頬がポッと赤く染まり、彼女は大事な宝物を抱えるように僕のカバンを胸に抱いた。
(……あぅ、先輩に喜んでもらえたぁ。『ありがとう』って言われちゃいましたぁ……!)
ほのかの胸ポケットにあるスマートフォンが、微かに震える。
『【愛の証明】ターゲットへの献身:5pt獲得』
彼女にとって、この数値は単なる報酬ではない。凪のために動いた自分の想いが、確かに彼に届いたという「幸福の証」だった。
授業が始まっても、その「過剰なまでの親切」は続いた。
一時間目の現国。教科書を広げようとして、僕はペンケースを忘れたことに気づいた。
「あ、消しゴム忘れた……」
隣の席の支倉聖奈に借りようと、小さく独り言を漏らした、その時だ。
「これ、使いなさい」
「一条君、私のを使って?」
右隣の聖奈と、真後ろの一ノ瀬舞夜の手が、コンマ秒の差で僕の机の上へと伸びてきた。
差し出されたのは、どちらもパッケージすら剥がされていない新品の消しゴムだ。
「え、ありがとう。……二人とも、僕のこと見ててくれたんだね。サンキュー。じゃあ、近い方の聖奈ので」
「……そう。次はもっと早く気づいてあげるわ」
舞夜が、少しだけ悔しそうに眉を寄せて消しゴムを引っ込める。それはポイントを逃した悔しさというより、「凪の役に立つ機会」を競り負けた乙女の独占欲だった。
一方で聖奈は、平静を装いながらも、ノートの隅に小さく「10」と書き込んだ。
『【愛の証明】学習支援:10pt獲得』
(……凪くんの困った顔を放っておけるわけないじゃない。……もう、忘れ物には気をつけてよね)
昼休みになれば、藍澤凛が廊下から「凪! これ飲めよ!」と冷えたスポーツドリンクを投げ込んできた。
「凛、お金払うよ」
「いいって、親友だろ! お前、午前中ずっと眠そうだったからさ。シャキッとしろよ!」
凛はそう言って、八重歯を覗かせて笑う。
(……本当は、お前が一番好きな銘柄を自販機三台回って探してきたなんて、絶対言わねーけどな!)
凛のポイント残高が、彼女の「好き」という純粋なエネルギーと共に積み上がっていく。
そして昼休み。僕の机の周りは、華やかな香りに包まれた。
「凪くん、今日はおかずを少し作りすぎちゃったから……食べてくれる?」
聖奈がタッパーを広げると、待機していたかのように他の四人も次々に「自慢の一品」を差し出してきた。
「私の肉じゃがも、先輩に食べてほしくてぇ……」
「ボクのはスタミナ重視だぜ」
「私は……このフルーツ、凪くんのために剥いてきたの」
机の上には、聖奈の家庭的な煮物、ほのかの甘い肉じゃが、凛の豪快な炒め物、舞夜の色鮮やかなデザート。そして、霧島凪沙がどこからか持ってきた「半分こしたパン(※これも立派な献身と見なされた)」が並んだ。
「……みんな、僕のためにわざわざ用意してくれたんだね。どれも本当に美味しそうだよ。いただきます」
僕は一口ずつ、彼女たちの想いがこもった料理を味わった。
「最高だよ。みんな、本当に料理上手だね。ありがとう」
僕が満面の笑みで感謝を伝えた瞬間、室内に複数の通知音が小さく響いた。
凪が放つ純粋な「ありがとう」。それは彼女たちにとって、砂漠に降る雨のような潤いだった。
市場に大量のポイントが供給される。それは週末の争奪戦が激化することを意味していたが、彼女たちは今、凪が自分の料理を「美味しい」と言ってくれた幸福感だけで胸がいっぱいだった。
放課後。
帰り支度をしていると、聖奈が静かに歩み寄ってきた。
「凪くん。図書室の整理、手伝ってくれる?」
「図書室? いいよ、聖奈。いつもお弁当のお返し、したかったんだ」
「……ありがとう。助かるわ」
聖奈の表情が、夕日に溶けるように和らぐ。
これは昨日のドラフト会議で、彼女が手持ちのポイントのほとんどを注ぎ込んで勝ち取った『月曜放課後・二人きり随行権』。
他の四人は、胸を焦がすような羨望を抑え込み、ルールに従って「じゃあね!」と潔く去っていった。
(……いいわね、聖奈さん。でも、来週の月曜は私が落札してみせるんだから!)
(凛さんもほのかちゃんも、今は我慢よ。……凪くんを困らせないために、私たちは『共有』することに決めたんだから)
去りゆく彼女たちの背中には、ルールを守り抜くという強さと、切ないほどの恋心が同居していた。
人気のない図書室。
本棚の整理をしながら、僕はふと口を開いた。
「聖奈。なんだか、今日一日でみんなのことがもっと好きになったよ」
「……えっ?」
本を戻そうとしていた聖奈の手が止まる。
「あの日、屋上でみんなが話し合ってくれたおかげだよね。みんなが仲良くしてくれるのが、僕にとって一番のプレゼントだよ。……ありがとう、聖奈。僕を仲間に入れてくれて」
僕は感極まって、聖奈の肩に手を置いた。
聖奈の身体が、ビクリと震える。
(……な、凪くん! 今の台詞、ポイント換算なら五百ポイント級の破壊力……! でも、でもダメ! 今の私は『随行権』しか買ってないの! それ以上、肩に触れたり見つめ合ったりするのは『身体接触枠』のポイントを払ってないから、規約違反になっちゃう……!)
「あ、あの、凪くん! 整理、続けましょう! ほら、この本、あっち!」
「わっ、ごめん。……聖奈、照れてるの? 可愛いところあるんだね」
「~~っ! バカ! もう、知らない!」
聖奈は逃げるように本棚の影へ隠れた。
凪の無自覚な「サービス」は、彼女に天にも昇る喜びを与え、同時に「ルールを破って飛び込みたい」という葛藤で彼女を悶絶させていた。
夕暮れの図書室。凪はまだ、知らない。
自分の発する言葉や動作が、彼女たちの内側でどれほどの価値を持ち、どれほどの嵐を巻き起こしているのか。
「明日は、誰と話せるかな」
一条凪は、明日もまた、降り注ぐ過剰な愛に包まれることを楽しみにしながら、最後の一冊を棚に収めた。




