第2話 :欲望の箱(BOX)は、ピンク色の地獄だった
土曜日の午後。
街の喧騒から少し離れた住宅街にある支倉家の一室は、異様な熱気に包まれていた。
本来であれば、年頃の女子が集まってお洒落なスイーツや恋バナに花を咲かせる「女子会」が行われているはずの時間帯である。現に、リビングのテーブルの上には家主である支倉聖奈が用意した手作りのクッキーと紅茶が並んでいた。
しかし、そこに座る五人の少女たちの瞳に、ティータイムを楽しむような余裕は一切ない。
「……さて。それじゃあ、第一回『共有財産運用戦略会議』を始めるわよ」
一ノ瀬舞夜が、冷徹な響きを帯びた声で宣言した。
彼女の手元には、昨日、屋上での激論の末に書き上げられた『一条凪運用規約・暫定版』が鎮座している。同じクラスで学級委員を務める聖奈とは、以前から行事のたびに意見を戦わせてきた腐れ縁だが、今回ばかりは「凪を守り、かつ独占させない」という利害が一致し、共同戦線を張っていた。
「舞夜さん、その前に確認だけど。凪くんにはちゃんと伝えてあるわね?」
聖奈が、事務的な口調で問いかける。
舞夜は事もなげに、スマートフォンの画面を指先で弾いた。
「ええ。『今日は女子五人で、これからの仲を深めるために親睦会をするから、男子禁制よ』って送っておいたわ。凪くんからは『みんなが仲良くなってくれて嬉しいよ。ゆっくり楽しんでね』って、聖母のような返信が来たところよ」
「あぁ……凪先輩、なんてお優しいんですぅ。そんなこと言われたら、ほのか、もう、我慢できませんよぉ……!」
一学年下の瀬戸ほのかが、身悶えしながら悶絶している。図書委員会で聖奈に可愛がられ、凛の部活にも顔を出す「みんなの妹分」だった彼女だが、凪のこととなると、その愛らしさは凶器に変わる。
「ほのか、落ち着けって。凪が優しいのはいつものことだろ」
幼馴染である聖奈の家で、勝手知ったる様子でソファに深く腰掛けているのは藍澤凛だ。
「それより舞夜、さっさと始めようぜ。ボク、来週の土日にやりたいこと、山ほどあるんだから。……これ以上待たされたら、ボクの野性が暴走しちまう」
「ふふ、いいわ。それじゃあ、各自に配ったメモ帳に『来週の土日に凪くんとやりたいこと』を書いてちょうだい。それが来週のオークションの『出品リスト』になるわ」
テーブルの中央に、一台の木箱が置かれた。
かつては可愛らしい小物入れだったであろうその箱は、今この瞬間から、五人の欲望を吸い込む「パンドラの箱」へと変貌を遂げた。
「書く内容は自由よ。ただし、最低落札価格の設定がある項目には注意して。……例えば、『愛の告白』。これは昨日決めた通り、一億ポイントに設定されているわ。今の私たちには、一生かかっても手が出ない『聖域』ね」
「一億って……。毎日お弁当を作って十ポイントずつ稼いでも、三万年近くかかる計算ね。非現実的だわ」
聖奈が溜息をつく。
このシステムは、誰か一人が突出して凪を独占することを防ぐための「理性の鎖」だ。高すぎるハードルを設定することで、彼女たちは互いを牽制し合い、均衡を保っている。
「いい? 今はまず、小銭を稼いで着実に距離を詰める段階よ。……さあ、書きなさい!」
舞夜の号令とともに、ペンを走らせる音が室内に響き渡った。
カリカリ、カリカリと、執念深い音が続く。
「えーっと、まずは『一緒にアイスを食べる』でしょ。それから『頭を撫でてもらう』。あ、『後ろから抱きつく』も……!」
ほのかが鼻息を荒くしながら、猛烈な勢いでメモを千切っては箱に放り込んでいく。
「ボクは『キャッチボール』に『バッティングセンター同行』……あとは『ボクの部屋でゲーム大会』かな。これなら密室だし、ポイント跳ね上がりそうだな」
凛も不敵な笑みを浮かべ、次々とカードを生成していく。
聖奈は「掃除、洗濯、買い物同行……」と、実益を兼ねた「インフラ枠」を淡々と書き込み、舞夜は「制服デート」「映画館でポップコーンの共有」といった、計算高いシチュエーションを練り上げていく。
誰とも群れず、迷子のようにこのグループに引き込まれた霧島凪沙だけは、虚空を見つめながら時折思い出したように「……凪くんの匂いを嗅ぐ」といった、倫理的に危うい内容をさらさらと書いていた。
数分後。
事態は予期せぬ方向へと進んでいた。
「……ちょっと、これ。蓋が閉まらないじゃない」
聖奈が指差した先では、箱から溢れ出したメモ紙が雪崩を起こしていた。床には「凪くんと〇〇したい」という欲望の残骸が散乱し、足の踏み場もない。
「ほのかちゃん! あなた、何枚書いたのよ!」
「えぇ!? だって、やりたいことなんて無限にあるじゃないですかぁ! これでも削った方ですよぉ!」
「ボクも五十枚くらいで止めたんだけどな……」
「……このままじゃ、一週間が何百時間あっても足りないわ」
舞夜がこめかみを押さえる。
五人の執念は、用意した箱のキャパシティを遥かに超えていた。このままではオークションの収益計算すら立ち行かない。
「ルール変更よ。……一人、週に『五枚』まで。それを超える欲望は、来週以降に持ち越しか、あるいはゴミ箱行きね」
「えぇーーっ!? たった五枚ですかぁ!?」
「文句を言わない。……いい? 私たちは凪くんを『運用』するのよ。無計画な投資は破滅を招くだけ。自分の中で、これだけは譲れないという『精鋭枠』に絞りなさい」
そこからは、さらに凄惨な「選別」が始まった。
せっかく書いた「膝枕権」を泣く泣くゴミ箱に捨て、「手繋ぎ権」を残すべきか、それとも「お菓子を食べさせてもらう権」を優先すべきか。
五人は自分の欲望と向き合い、血を吐くような思いで五枚を厳選していく。
「……これ、ブラフも必要よね」
ふと、舞夜が呟いた。
「ブラフ?」
「ええ。自分が本当に欲しい枠を隠すために、相手が欲しそうな枠をあえて出品して、ポイントを浪費させるのよ。……聖奈さん。あなた、さっきから『凪くんの部屋の掃除』を必死に残そうとしてるけど。それ、私が高額で落札して、あなたが入れないようにしてあげようかしら?」
「っ……! 一ノ瀬さん、あなた、なんて悪趣味な……!」
「ふふ、これはビジネスよ。女の涙よりポイントが重い……昨日、私たちが誓った言葉じゃない」
室内の温度が、スッと数度下がったような気がした。
幼馴染、クラスメイト、先輩後輩。築き上げてきた絆という名の仮面の裏で、彼女たちは互いの手札を読み合い、陥れ、一秒でも長く凪の隣に居座るための戦略を練る。
凪沙だけが、五枚のカードを揃えて「……お腹空いた」とクッキーを口に運んでいた。彼女の無欲な執着が、逆に舞夜たちの計算を狂わせていく。
「……よし。これで二十五枚の『出品リスト』が確定ね。……凛。来週のスケジュール、凪くんに確認した?」
「ああ。さっきLINEで聞いた。土曜は午後から空いてる。日曜は昼過ぎまで委員会があるけど、夕方は暇だってさ」
「了解。……いい? もし、ディーラーが凪くんのスケジュールを自分の都合よく捏造したことがバレたら……『五連装・地獄の罰ゲーム』が待っていることを忘れないで。一番苦手なことを五人分、フルコースで味わってもらうわよ」
ほのかがヒッと短く悲鳴を上げた。
凛の全力ケツバットから始まる、精神と肉体の崩壊を約束する連続ペナルティ。
ルールを守るからこそ、彼女たちは凪を共有できる。その鉄の掟を再確認し、五人は静かに箱を見つめた。
一方、その頃。
自宅でのんびりと録画していたバラエティ番組を見ていた一条凪は、大きくくしゃみをした。
「……ハクション! うぅ、誰か噂してるのかな。風邪じゃないといいけど」
彼はズレた眼鏡を指で押し上げ、テーブルに置かれたスマートフォンを見つめた。
舞夜から届いた「女子会、盛り上がってるよ」という楽しげな写真。そこには、笑顔でピースサインを作る五人の姿があった。
「良かった。昨日の今日で、みんな本当に仲良くなってくれたんだな。……僕も、みんなのために何かお礼をしなきゃ。月曜日に感謝の気持ちを伝えよう」
凪の口角が自然と上がる。
彼が良かれと思って放つ「感謝」が、週明けに彼女たちの間で熾烈な「通貨」として奪い合われ、さらなる争いの火種になるとは、夢にも思わずに。
「さて、明日に備えて早めに寝ようかな」
平和主義者の少年は、幸せな勘違いを抱いたまま、布団へと潜り込んだ。
明日。日曜日には、この物語の「最初の管理者」を決める、非情な勝負が待ち構えていることも知らないまま。




