第1話:放課後の屋上は、戦場(オークション会場)だった
金曜日、昼休み。
校舎の裏庭に差し込む日差しは穏やかで、春の訪れを予感させる暖かさだ。しかし、僕――一条凪の心境は、真冬のシベリアのど真ん中に放り出されたかのように凍てついていた。
「はぁ……」
手元の弁当箱には、栄養バランスの取れた色鮮やかなおかずが並んでいる。これは今朝、幼馴染で一学年上の支倉聖奈が「作りすぎたから」と玄関先まで届けてくれたものだ。
普段なら「聖奈の料理は相変わらず最高だな」と無邪気に喜べるところだが、今日ばかりは喉を通らない。
理由はこの一週間、僕の身に降りかかった不可解な出来事にある。
月曜日。
図書室で調べ物をしていたら、後輩の瀬戸ほのかが顔を真っ赤にして現れた。
『先輩ぃ……あの、金曜日の放課後、屋上に来てくれませんか? 二人きりで、大事な話があるんですぅ』
火曜日。
部活帰りの藍澤凛が、僕の肩をバシバシと叩きながら耳元で囁いた。
『凪! 金曜の放課後、屋上な。絶対一人で来いよ。……大事な話、あんだからさ』
水曜日には聖奈から、木曜日にはクラスメイトの一ノ瀬舞夜から、そして今日の午前中には霧島凪沙から。
内容は見事に一致していた。場所は「屋上」、時間は「金曜日の放課後」、そして枕詞は「大事な話がある」。
五人同時に。しかも、全員が深刻な、あるいは何かに耐えているような表情を浮かべていた。
常識的に考えて、これは異常事態だ。
(……悩み相談、だよな。やっぱり)
僕は箸を置き、空を見上げた。
五人はそれぞれタイプは違うが、学内でも目立つ存在だ。そんな彼女たちが揃いも揃って、僕という平凡な人間に同じタイミングで相談を持ちかける。
もしかして、クラスや部活で深刻な対立でも起きているのだろうか。それとも、僕が知らないところで彼女たちを苦しめる共通の問題が発生しているのか。
「いじめ……とか、そんな物騒なことじゃないといいんだけど」
平和主義をモットーとする僕にとって、知人が苦しんでいるのを見過ごすわけにはいかない。
たとえ僕に何ができるわけではなくても、せめて話を聞いて、彼女たちの心が少しでも軽くなるなら。
僕は決意を固めた。
午後からの授業は、正直なところ一文字も頭に入ってこなかった。
時計の針が重苦しく進み、ついに放課後のチャイムが鳴り響く。
僕は騒がしくなる教室を抜け出し、階段を駆け上がった。
最上階の重い鉄の扉の前に立つ。心臓の鼓動が、耳の奥まで聞こえてくるようだ。
「よし……」
一つ深呼吸をして、扉を押し開ける。
春の風が吹き抜け、視界が広がった。
そこには、夕闇に染まり始めた空の下、五人の少女が立っていた。
「あ、一条君」
真っ先に声をかけてきたのは、一ノ瀬舞夜だった。ウェーブがかった髪を風に靡かせ、少し困ったような、それでいてどこか冷徹な計算を感じさせる微笑を浮かべている。
「……遅いですよぉ、先輩ぃ」
瀬戸ほのかが萌え袖のカーディガンを握りしめ、リスのような瞳で僕を見上げる。
「凪、本当に一人で来たな。よしよし」
藍澤凛が八重歯を覗かせて笑うが、その目は笑っていない。
「凪くん、お疲れ様。……ちょっと大変なことになっちゃったわね」
聖奈がポニーテールを揺らしながら歩み寄ってくる。その背後では、霧島凪沙がぽつんと佇み、淡い瞳で僕をじっと見つめていた。
「みんな、揃ってたんだね」
僕は周囲を見渡し、彼女たちの表情を伺う。
やはり、どこか張り詰めた空気が漂っている。彼女たちの間で視線が交差するたび、火花が散っているような錯覚さえ覚える。
「あのさ、みんな。大事な話って……何かな? 僕で良ければ力になるから、一人ずつでもいいし、全員まとめてでもいいから話してほしいんだ」
僕が真面目なトーンで切り出すと、五人の間に奇妙な沈黙が流れた。
舞夜が聖奈を、聖奈が凛を、凛がほのかを、ほのかが凪沙を、それぞれ射抜くような目で見つめ合う。
「……ねえ。一応確認するけど」
沈黙を破ったのは舞夜だった。彼女は僕ではなく、他の四人に向かって冷ややかに言い放つ。
「全員、凪くんに『大事な話』をしに来たのよね?」
「当たり前じゃん。ボク、今日のために心の準備してきたんだからさ」
「私だってそうですぅ! 先輩を独り占めしようだなんて、誰にも許しませんよぉ!」
「独り占め? ふふ、ほのかちゃん。それはこっちのセリフよ」
何かが、おかしい。
彼女たちの会話から漏れ出すエネルギーは、僕が予想していた「悩み相談」とは明らかに毛色が異なっていた。
もっとドロドロとしていて、鋭利で、逃げ場のない独占欲。
「あ、あのさ……みんな?」
僕が恐る恐る割って入ろうとすると、舞夜がパッと僕の肩を掴んだ。
その瞳には、今まで見たこともないような強い意志が宿っている。
「一条君。悪いけど、ちょっとあっちで向こう向いてて」
「え? でも、話を――」
「いいから! 今、私たちの間で『重大な利害調整』が必要になったの。一条君は一言も喋らず、そこで景色でも見てなさい」
聖奈までが厳しい口調で僕をフェンス際へと追いやる。
断る隙も与えられず、僕は屋上の隅で夕日を眺める羽目になった。
背後からは、低く、しかし激しいヒソヒソ声が聞こえてくる。
「……絶対譲らないから」
「じゃあ、このままここで全員玉砕する? 凪くんを困らせて、グループごと自爆するつもり?」
「それは困るわ。凪くんの平穏は私が守るべきインフラだもの」
「だったらルールを作りましょう。……『共有』よ」
共有。
運用。
アセット。
ポートフォリオ。
女子高生の口から出ているとは思えない、どこか金融業界の裏側を彷彿とさせる不穏なワードが風に乗って流れてくる。
僕は何度も振り返ろうとしたが、そのたびに「見ちゃダメ!」と五人の合唱に制止された。
(……やっぱり、僕には理解できないほど深刻な問題が起きてるんだな)
僕は一人で納得した。
彼女たちは、友情を守るために、必死に妥協点を探っているに違いない。自分たちを縛る何らかの厳しいルールを、自分たちで課そうとしているのだ。
僕に心配をかけまいとして、あえて「蚊帳の外」に置いている。その気遣いに、僕は胸が熱くなるのを覚えた。
数十分後。
議論がまとまったのか、背後の騒がしさが止まった。
恐る恐る振り返ると、そこには先ほどまでの険悪さが嘘のように、晴れやかな(あるいは吹っ切れたような)顔をした五人が並んでいた。
「お待たせ、凪くん」
舞夜が代表して一歩前に出る。
「話し合い、終わったの?」
「ええ。私たち、結論を出したわ。……これからも今のまま、みんなで仲良くしていくことに決めたの。一条君に心配をかけるようなことは、もう絶対にしないから。安心してね」
「……そうか! 良かった。本当に良かったよ」
僕は心から安堵した。
詳細は分からないが、彼女たちは自分たちの問題を解決したらしい。僕への「大事な話」も、きっとその過程で解消されたのだろう。
「良かったぁ。先輩、来週からはもっと楽しくなりますよぉ」
ほのかが意味深な笑みを浮かべてクスクスと笑う。
「じゃあ、ボクたちはこれで。……あ、一条。月曜日の放課後、空けとけよ?」
凛が手を振りながら、扉へと向かう。
「私も、夕飯の準備があるから。また明日ね、凪くん。……戸締まり、ちゃんとするのよ?」
聖奈も、いつも通りの優しい笑顔で去っていく。
「一条君、また来週」
舞夜と、無言のまま服の裾を一度だけ引いていった凪沙がそれに続いた。
五人は連れ立って、楽しげに談笑しながら屋上を去っていった。
扉が閉まる音が響き、屋上には再び僕一人だけが残される。
「…………」
静寂。
真っ赤な夕陽が、僕の影を長く伸ばしている。
「……え、悩み相談は? 僕の返事は?」
ふと、我に返った。
呼び出されたものの、僕は一言も「相談」の中身を聞いていない。
彼女たちが何を悩み、何を解決したのか。
そして、なぜ全員が満足そうな顔で帰っていったのか。
肝心なところが、何一つ分からない。
「……まあ、いいか。みんなが仲直りしたみたいだし」
僕は頭をかき、カバンを肩にかけ直した。
女子の友情というのは、想像以上に複雑で、そして結束が強いものらしい。
一条凪は、まだ知らない。
自分が今この瞬間から、五人の少女によって厳密に管理・運用される「共有財産」として登録されたことを。
そして、彼が発する「ありがとう」の一言が、彼女たちの間で莫大な価値を持つ「ポイント」として取引される狂騒の月曜日が待ち構えていることを。
「腹減ったな。今日は聖奈がくれたおかずを温め直して食べよう」
何も知らない主人公は、夕暮れの街へとトボトボと歩き出した。
嵐の前の、これが最後の平穏な放課後になるとも知らずに。




